1、バツ1、ひょろりとした女
「本日はありがとうございました」
私は目を細めて微笑みを作る。いつもの営業スマイルでなく、心の底から出た笑顔だった。
だって、ようやくここまで辿り着いたのだ。
テーブルの上で再度書類を確認して、それを鞄に慎重に仕舞う。これを無事に事務席に突っ込むまで、私は絶対死ねない。
いかなる事故にも遭わずに会社まで辿り着いてみせる。だって―――――――
微笑は崩さずにもう一度丁寧に挨拶をして、相手が視界から消えるまで見送る。
そしておもむろに振り返り、お腹の前でガッツポーズをした。
・・・・よっしゃあああああ〜!!!貰った!!
横を過ぎていく通行人に変な人だと認識されないように0.5秒くらいで止めたけど、拳には思いっきり力を込めておいた。
ようやく貰えた契約だ。これを事務席に早く突っ込みたい私だった。
早足で駅に向かう。ヒールがカツカツと軽快な音楽を奏でて耳に届く。ともすれば、声を出して笑ってしまいそうだった。
保険会社に転職して早1年と半年。その最初からずっと追いかけていたお客さんに、思いが通じて本日目出度く契約を頂けたのだ。
これが喜ばずにいられようか、いや、いられない(反復疑問文!おお、覚えてるわ、私ったら)!
とにかく浮かれていた。今なら世界の主要都市を暗記せよといわれても上機嫌で引き受けそうだ。
改札に入る前、青い10月の空を見上げた。風が通っていく。私は小さく笑う。
・・・ああ、嬉しい。この瞬間の為に、契約を頂く、その瞬間の為に毎日頑張ってると思えるのだ。
忘れたいことも沢山ある日常で、仕事でうまくいった瞬間、それがどれだけ栄養になることだろう。
そう、今の、32歳の私をこのハードでビターな日常から一時的ではあるにせよ救ってくれるのは――――――チョコレート一欠けらと、怪我も持病もない健康なお客様から頂く契約。
ただし、チョコレートはいつでも手に入るが契約は滅多に手に入らない。
そして必要ないのは、過度のアルコールと・・・・・・男。
一瞬、1年半前に別れた元夫が頭の中を横切り、ホームから落ちそうになってしまった。
「!!」
慌てて身を引く。それと同時くらいに電車がホームへ滑り込んできた。鼻先スレスレだ。
・・・あっぶねー!!
冷や汗が出る。
心臓をドキドキいわせながら、何でもなかったみたいに電車に乗り込んだ。
アイツを思い出して電車に飛び込むなんて、悪夢以外の何者でもないじゃないの!しっかりしなさい、私!
ハンカチでそっと額の冷や汗を拭う。駄目駄目、会社に戻るまで死ねないんだってば・・・。
ようやく落ち着いた鼓動を感じ取って、私はつり革に掴まって体を支えた。
こっそりとため息をつく。
先ほどまであった高揚感が、ホームへの転落未遂で一気に冷めてしまった。あーあ。
昼下がりの各駅停車の電車は空いてはいたけれど、どこに知り合いの目があるか判らないのだ。気は抜けない。
私は尾崎美香と言う。
今年32歳で、独身。・・・独身に戻った、のだ。正しくは。去年までは田西美香という名前だった。
流行に乗る気はなかったが、「バツ1」というのになってしまった。何とか4年続けた結婚生活は一昨年破綻していた。結婚生活の破綻と同時に破綻したのは就職状況。それらを何とか乗り越えて転職したこの生命保険会社で、私は営業をやっている。
救いだったのは前の会社は証券会社で、同じ金融業界からの転職で仕事内容の上でそんなに苦労はしていないということ。
やることは一緒だ。自社商品のお勧めと、それの契約を貰う事。目に見えないのは投資信託や株式も保険も一緒。
だけど証券会社の頃とは違って、私は芯から疲れていた。それは判っていた。
一人で、必死で、毎日をやりくりしていた。
たまーにあるこんな「いい事」をかき集めて、それだけを養分に変えて客の前で笑う力にしていた。
ハッキリ言って色々なことに枯渇していた。
だけど、仕方ない。
少なくともこれが――――――――今までの私が選んできた人生なんだから。
誰かのせいには出来ない。それくらいは判るくらいに、既に大人だった。
都心のガラス張りの大きなビルに入っていく。10代の頃憧れた大都会の大会社で働いているわけだけど、今はそれに何の興奮も覚えなかった。
ただ、色んな会社が入ってるがために6台ものエレベーターに乗るのに苦労することにイラついていた。
無駄にデカイ建物の、これが弊害だ。
早く会社に戻りたいんだってば!一人、心の中で呟く。
その時、混雑したエレベーターホールで後ろから声がした。
「尾崎さん、お疲れ様です」
パッと振り返ると見上げる長身。その上に乗った愛嬌のある顔で、同僚の平林さんが笑っている。あらら―――――・・・
「あ、お疲れ様です。研修終わったんですか?」
私も笑顔を作る。
「はい、やっとさっき。尾崎さんは今帰社?」
平林さんの問いかけにそうですと小さく頷いた。
この平林という私と同じ年の同僚は、成績で言えば私の遥か上を行くスーパー営業だ。もう雲の上。同じ営業職だって口にするのもはばかれるような成績の違い。
しかし、偉そぶったところが一つもなく、誰に対しても公平に愛想よく接する。軽やかに会話をしてその場を和ませる。
ぎすぎすしがちな金融会社の営業部において、そのような人材は貴重だった。
転職して以来周りと一つ壁を挟んで接するようにしている私でも、彼の前ではつい壁の構築を忘れてしまうときがあった。それほど人懐っこい人だった。
ただし、今は出会いたくなかった。こんな、他の会社の人たちもわんさかいるエレベーターホールでは。
私は引きつらないように意識して笑顔を作る。
今は会いたくない人物、なぜならその理由は――――――――
この平林孝太という男は目立つ、からだ。
その理由は3つ。
1、長身。威圧感を感じるほどに大きいわけではないが、どんなブランド物も難なく着こなす均整の取れた体。
2、いつでも笑顔。特に整っている顔立ちではないが、その愛嬌の良さで「可愛い」とか「無邪気」とか言われる表情で初対面の印象が抜群にいい。それは営業にとって神風なみに有難いこと。
3、この平林という男の横には、いつでも同じく目立つ男がいるから。
私はこっそりため息をついて、のろのろと平林さんの隣に並ぶ男を見上げた。
「・・・高田さん、お疲れ様です」
仕方なくそう言ったら、営業の癖に無口で無愛想な男は軽く会釈するだけで挨拶を済ませた。
その濃紺のスーツに包まれた長い足を蹴っ飛ばしてやりたい衝動を、何とか寸前で押さえ込む。
いつでも平林さんと行動を共にしているこの男の名前は高田。下の名前は知らない。
成績優秀な平林さんはよく会社の広報にも載るからフルネームを知っているが、この高田という男はそういうことでは広報に載らないし、よく考えたら誰もが高田としか呼ばない。だから知らない。
ただし、一部の女子社員は勿論知っているのだろう。彼に興味津々の彼女達は。
確かに興味をもたれる対象としては申し分ない男ではある。
この高田という男が目立つのも、同じく理由が3つあるからだ。
1、長身。やはり、体格もよくその立ち姿は惚れ惚れとするほどだ。
2、美形。平林さんと違って、すれ違う人間が男女問わず思わず振り返ってしまう端整な顔立ちをしている。惚れ惚れするのは体つきだけでなく、首から上もってわけ。滅多に笑わないが、その欠点を補って余りある美形さ。
3、成績優秀愛想の良い平林さんと、いつでも一緒にいるから。
勿論、平林さんほど特出してるわけではないにせよ、高田さんだって優秀な営業成績を誇る。私なんぞ足元にも及ばない。だから今日は二人とも、支社で開かれた優績者の研修に出席していたハズだ。
平林さんは成績の良さでうちの保険会社では全国レベル。そして高田さんはその外見の良さで全国レベルの知名度がある、らしい。転職組み2年目の私でも知っているくらいの話で、この都心の3支社には何年か前、有名な美男が3人いたらしい。
北事務所の楠本さん。和風美男子のこの人は今は本社でFPをしているのを知っている。成績でもその外見でも営業秘話でも有名な、生きた伝説扱いになっている人だ。
中央支社の稲葉さん。甘え顔美男子のこの人は今では支部長として地方の支部担当になったらしい。この10月で赴任し、お陰でこちらの支社では相当数の女性社員が悲しんだと聞いた。中には事務所の移籍を企んだ追っかけもいたらしい。因みに私は同じ歳だそうだ。
そしてうち、今すんごく近くにいる、南支社の高田さん。二重の細めの瞳、まっすぐな眉、通った鼻筋、薄い唇。男性営業では異例の長髪。肩までの黒髪を無造作にくくっているが、それすらも絵になるから憎たらしい。
この3人に平林さんを加えた4人が、この地域の支社の壇上表彰常連メンバーだったらしい。それが今では現役営業は平林さんと高田さんのみとなり、それを残念に思ってる社員が多い・・・と、食堂の噂話で聞いた。
仕事能力でも外見でもうちの南支社を代表する名物営業二人ってわけ。だから、この二人は目立つ。目線も話題もいつでもてんこ盛りで、今だってエレベーターホールに集まる人々の視線を集めている。
その二人とお喋りをする私もついでに好奇の目に晒される。
・・・それは勘弁。
女性達の羨ましげな視線が鬱陶しくて私は前に向き直り、順にエレベーターに乗り込んだ。
あーあ、エレベーターから降りたらダッシュで事務所に駆け込もう。この人たちと戻ったらそれだけで目だってしまう。
やだやだ、私は地味〜に、目立たずに過ごしたいのだ。出来るだけ、ひっそりと。
じっと、エレベーターの階数ボタンを見ていた。
「・・・尾崎さん、契約貰えたんですか?」
混むエレベーターの中でどうしても密着してしまうため、隣に押し込まれた平林さんが小声で私に聞く。
どうしてエレベーターで話そうとするのよ〜・・・。私は舌打を堪えて、微かに頷くだけにした。
眉間に皺が寄らないようにだけ気をつけた。
すると更に声を潜めて、平林さんが言う。
「おめでとうございます」
「・・・ありがとうございます」
私は出来るだけ身を遠ざけながらそう返した。耳元を掠った低い声に思わず鞄を持つ手に力がこもった。
称えられても嬉しくないぞ。頼むから離れてくれー!愛想がいいのもある意味問題・・・。そう思っていたら視線を感じて顔を上げた。
バチっと音がしたみたいに、こちらを見下ろす高田さんと目があった。
アーモンド形の綺麗な両目が私をじっと見ている。
「――――――」
体がカッと熱くなって、私はすぐに視線をそらす。
・・・どうして見てるのよ〜!もうやめてよ〜!平林に話しかけられて喜んでるぞ、この女、とか思ってるんじゃないでしょうね〜!!
居た堪れないこのエレベーターから早く逃げたい。
まだ着かないの〜?!
やたらとノロノロと各階に止まるエレベーターに心の中で呪いをかける。やっと事務所がある18階に着いたときには私はもうヘトヘトに疲れていた。
流れるようにエレベーターから脱出し、後ろも振り向かずに小走りで事務所に入る。
ああ、あんなに嬉しかった30分前の私よカムバック!今ではすっかり萎えた喜びを何とかかき集めて上司に笑顔を向ける。
「お帰りなさい、尾崎さん。どうだった?」
「頂けました」
それだけを何とか伝え、自席に戻った。
・・・ああ、一人になりたい。
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