4、絡んだ指
元夫の事務所から自宅に戻った私は、虚脱して座り込んでいた。
体が冷え切っているのにぼーっとしていて、くしゃみをしてからやっと暖房をつける。その時に気付き携帯を見ると、やっぱり陶子から大量の着信とメールが来ていた。
「・・・ああ、陶子、ごめん」
一人でボソッと謝る。
繁華街に置き去りにしてきたんだった。しかも、いい逃げで。彼女の心配はいかばかりだったことやら。
とりあえずメールを返すことにした。
『大丈夫よ、ちゃんと帰った。明日電話して説明する。今日は許して』
「送信っと・・・」
言いながらボタンを押し、携帯をカーペットの上に転がして寝転がった。
・・・ついに、終わったんだなあ〜・・・。本当の意味で、私の結婚生活が。
天井を見上げながら思った。付き合いだした学生時代からの、色んな誠二を思い出していた。
だけど今は涙は出なかった。
さっきめちゃくちゃに暴れたせいで泣くほどの体力が残ってないのか、それともよっぽどスッキリしたかのどっちかだろう。
でもいいや。もうあいつのことで泣きたくないの、私。
不倫相手を妊娠させてしまったから、子供のいない妻を離縁してそっちと結婚した。そういう意味では自分の行動に責任を取ったわけだよね・・・。
妻のことはないがしろにしていたわけで、それは褒められることではないにせよ。私は本当に気付かなかったけど、誠二は物凄く悩んでいたのかもしれない。あの春の日。私に別れを言う寸前に。あの人は、泣きたかったのかもしれない。
苦しんだのかもしれない。
「でも、もうどうしようもない・・・」
結局私達はうまくいかなかったんだから。
暴れたことは大人げなかった。れっきとした犯罪だし。完全に血管が2,3本切れていたんだろうな、私。でも申し訳ないと思う反面、ちょっと楽しかったのだ。
すっきりした。1年半分の恨みをものに当たってしまったわけだ。しかしコントロール悪いよね、一個も誠二に当たらなかったじゃないのよ。そう思ってちょっと笑った。
そしてそのまま寝てしまった。
ホットカーペットの上で、毛布だけ体にかけて、化粧も取らずに。
後で考えたら風邪を引かなかったのが不思議だ。
今日の大掃除が終われば、保険会社は年末年始の休みに入る。
もう殆どの人は営業活動を終えていて、自分の机の周りの片付けをしたりロッカーの整理をしたりしていた。
私も何とかカレンダー配りも終了していたし、今のところ急ぎの給付金手続きなどは何もない。もう今日は机の整理をして、夕方皆で年越しそば代わりのカップ蕎麦を食べて挨拶をしたら帰宅だ。
明日は実家へ戻るし、帰ったら家の片付けと荷物の整理をしなければならない。だけどももう今年は仕事がないと思って、気分は上々だった。
支社の事務員大嶺さんは、どうやら噂話を流していないか、支社内で止めてくれているらしく、うちの事務員さんに高田さん絡みの問い詰めはされていない。それも私の気分を軽くしていた要因だ。
よしよし、バレてないんだなって。もしかしたら、あの時一緒にいた楠本FPが話さないように大嶺さんに言ってくれたのかも。
そんな配慮をしそうな人だった。
ざわめく営業部の中で、特に話す相手もいない私はビルの地下に入っているコンビニ目指してエレベーターで降りる。
ロッカーにストッキングの代えがないことに気付いて、補充しようと思ったのだ。一つは入れておかないと、いざという時に困る。
ビルの地下に入っているこのコンビニは、ビルの中に入っている全ての会社で働く人間の御用達だ。なのでここでしか売っていない珍しいものもたくさんあって、初めて来た時は楽しかった。
名刺の台紙とか。男性用の靴下やワイシャツや下着も豊富に揃っている。男性陣は急に決まった出張用に重宝しているらしい。それと同じでストッキングもたくさんあるのだ。
私は棚の間を歩いてストッキングを選ぶ。
ハニーベージュ・・・うーん。でもこれちょっと私には色が濃かった。じゃあシルキーは?
周囲に注意を払わずに選んでいたから、後ろに人が立ったことにも気付かなかった。
「また破れたんですか?」
いきなり耳元で低い声がして、思わず飛び上がる。
「うひゃあ!?」
ハッとして口を押さえた。コンビニ内の人間が何事かとこっちを見ている。・・・目立っちゃった・・・。
「すみません・・・」
くっくっく・・・と低い笑い声がして振り返ると、ミスターパーフェクト、高田さんが居た。
楽しそうに瞳を細めている。
私は大声を上げてしまったことに狼狽して真っ赤になっていた。
「・・・いきなりは止めて下さい」
まったく、何てことをするのだ、この人は!低い声と一緒に息が耳朶を掠めていて、それにぞくりとした事は忘れようと勤めた。
いつでも無表情の彼が笑っている。それを珍しく思う余裕もなく、私は真っ赤なままでストッキングを一つ掴んだ。
「マニキュアで補修はしないんですか?」
放ってはくれないらしい。
仕方なくため息をついて、彼に向き直る。
「これは予備です。ロッカーに入れておくんです」
「ああ、成る程」
レジへ向かうと後ろから美形がついてくる。コンビニの中の女性が一々振り返るのが鬱陶しかった。
無言で会計を済ませる。いつもよりレジのお姉さんの愛想までよくてますます面白くない私だ。
「・・・高田さん、買い物はないんですか?」
ガラスドアを開けながら聞くと、はい、と返答が来た。
「アポからの帰りなんです。尾崎さんが見えたからこっちに寄っただけで」
思わず唸り声を上げるところだった。
アウチ!アポだったのか〜・・・そして今日はこのフロアに駐車したんだな。いつもの壇上表彰コンビの姿が見えなかったから油断していた。まさかビルの地下で見付かるとは!
仕方なく黙ったまま美形を後ろに連れてエレベーターホールへ。同じくエレベーターを待っていた他の会社の女性社員がハッとしたように高田さんを見ていた。
ドアが開いてバラバラと人が乗り込む。私も続こうとしたら、ぐいと腕を引っ張られて体が前へ進まない。
「え?」
何で止めるのよ。そう思って振り返ると、高田さんはエレベーターのボタンを押して待っている女性に、どうぞお先に行ってください、と静かに言った。
「え、乗らないんですか?」
私が聞きたかったことを彼女が聞いてくれる。高田さんはええ、と頷く。残念そうな顔をして彼女はエレベーターを閉めてしまった。
「え、ちょっ・・・」
何なのよ!?怪訝な顔して振り返ると、次のエレベーターが来てドアが開いた。
「乗りますよ」
え?私は高田さんに引っ張られてエレベーターの中へ。ってか、何でさっきのに乗るのはダメだったわけ?一体何よ〜!?
わけが判らなくて混乱した私と高田さんだけを乗せてエレベーターは閉まる。
・・・おいおい、二人っきりじゃないのよ!
もしや!ヤツの狙いはこれか!と私が気付いた時には、高田さんと向かい合わせになって手を握られていた。
「えっ・・・あの!?た、高田さん、何を・・・」
わたわたと私は慌てる。畜生、また上ずった声が出てしまった!
高田さんは黙ったままで、私の右手を広げて指の間に自分の指を差し込む。
うひゃああああああ〜!!!これってこれって恋人同士がする、ラブ繋ぎというやつでは!?指を絡めてから手の甲を親指の腹で撫でられ、背中がぞくりと反り上がる。
「ひゃっ・・・」
思わず声が出て、更に真っ赤になった。これこれこれ!私ったら反応しちゃ駄目じゃないのよー!!
静かで落ち着いた高田さんと、一人で脳内大パニック中の私。ああ・・・情けない。
くいっと唇の端を持ち上げて、高田さんが静かな声で言った。
「どうやったらあなたに覚えて貰えるかなと思って」
「は、はいっ!?」
アホ面で見上げた私に彼は美しく微笑する。・・・ダメだ、色気も絶対彼の方が勝ってるに違いない。くらくらと回る頭の隅で、そんなバカな事を考えた。
「―――――――忘れちゃダメですよ、俺のこと」
「・・・・」
「休みの間、忘れないで下さい」
そう言いながら、彼の親指は休みなく私の手を撫でる。
右手は指が絡まってしっかりと繋がれてしまっている。ドンドン体も熱くなって、私はエレベーターと共に血圧も上昇して倒れるんじゃないかと思った。
ちらりと階数ランプを見てから、高田さんは言う。
「・・・18階なんてすぐに着いてしまうからな」
残念そうな口調だった。私はといえば、どうしてうちの会社は3階や4階になかったのだろうと考えていたのに。
「それに」
クラクラする頭で何とか立って、私は高田さんの言葉を聞いていた。下手に声を出したら変な声を上げてしまいそうだった。
これ以上彼を楽しませるつもりはないのだ。でもどっちにしろ、この狭いエレベーターの中では逃げることも隠れることも出来ない・・・。
「カメラがついてるから、ここではキスも出来ないし」
ぶっ・・・。
ごほごほと思わず私は咳き込む。何とか手を彼から引き離して壁に背をついた。
「なっ・・・なっ・・・何てことを〜!!」
キ、キ、キスって〜!!一体誰と誰の話なのだ!いやいやそんな、私のキャパは既に限界越えてますから〜っ!
顔が熱くて湯気が出そうだった。いやもしかしたら湯気は出ていたかもしれない。
私は出来る限り高田さんから離れて壁に引っ付いていた。ああ・・・出来ることなら壁と同化してしまいたい。
引き離された片手を握り締めて、彼は笑う。
「大丈夫ですよ、そんなことしません」
チーン、と音がして、エレベーターはやっと18階に到着した。やたらとゆっくりと開くドアへ体を向けながら、高田さんは床から鞄を持ち上げて、私に微笑んで見せる。
「――――――今は、まだ、ね」
真っ赤になって呼吸困難の私を置いて彼は出ていく。
・・・ばっ・・・・爆弾発言していきやがった・・・。
私はストッキングが入ったコンビニの袋を床に落としたままで、暫くそのまま固まっていた。
当然扉はしまってしまい、私が降りられないままでエレベーターはまた下へ向かって降り出す。
・・・あ、降り損ねた。
呼吸が浅くて頭がクラクラする。握られた右手が熱を持って熱く燃える。他の人が乗ってくる前にと何とかコンビニの袋を拾い、1階に戻ってきたエレベーターを出た。
あー・・・ダメだ。外の寒風に当たって沸騰した頭を冷やそう。今が冬でよかった。夏だったら歩く一人サウナ状態で死んでいたかもしれない。
フラフラとビルの入口に向かった。
『忘れちゃダメですよ』
高田さんの静かで低い声が蘇る。
やたらと整った綺麗な顔で極上の微笑をしていた。
それに、やけどしたみたいな私の手が。
・・・・ちょっと待ってよ〜、本当に勘弁して。
あんたみたいな男―――――――――・・・・どうやったって、頭から消えてくれそうにないじゃないの・・・・。
ビルの入口で冷たい風に白い息が舞い上がるのを見る。
私は途方に暮れて立ちすくむ。
ああ・・・神様。
私、あの人から逃げ切れるでしょうか・・・・。
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