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「美香、私から。幸久、早く行って。また電話するわ」

「ああ・・・うん。ほんと、わりい」

 幸久はくるりと身を翻すと、そそくさと立ち去った。

 彼のコートを掴んでいた手に冷たい風が吹きつける。私はその手を下ろせないままで突っ立っていた。

「・・・美香」

 後ろから陶子が静かな声を出す。

 私はやっと手を下ろし、ゆっくりと振り向いた。そこには酔いが完全にさめたらしい厳しい顔をした陶子。

 私はきっと今、真っ青なんだろう。彼女の瞳に痛ましげな表情が浮かぶ。

「・・・何を知ってるの、皆は?」

 幸は、一体何を言ってたの?

 私の声に、すうっと息を吸った。そしてため息をついてから、私の両手を握って、陶子は言った。

「・・・誠二はずっと浮気していた。その相手に子供が出来た。だから、美香と別れたのよ」


 確かに、その言葉は聞いていた。


 だけれども理解がうまく出来なかった。


「――――――え?」

 陶子の瞳にはまた水が張り付いている。彼女は私の両手を握ったままで続けた。

「だから、それを知って、仲間は誠二を見限ったの。あいつは美香を裏切っていた。それで皆離れたのよ」

 ・・・誠二は、浮気、していた・・・。

 相手に子供が出来て・・・それで、それで、私と別れた・・・?

「・・・あれ?」

 だって、好きな人が出来たって言ったじゃない。間違えを起こす前に結婚を清算したいんだって。美香が悪いんじゃないって。浮気でなくて本気だったから、彼は私を傷つけないように別れたはずで――――――――――・・・


「・・・ってことは、あれは、嘘・・・?」

 陶子の心配そうな顔が私の視界で歪む。・・・あらら。何てことだろ。ほんと、何てこと・・・。

 何が、彼は私に優しかった、よ。・・・私ったら―――――――――

 ・・・とどのつまりは、寝取られたんじゃない。


 ふらつく状態を何とか踏ん張って抑えた。美香、と陶子が私の両手を握る手に力を込める。

「あんた達が離婚するときに、誠二を呼び出して皆で問い詰めたの。あんな別れ方誠二らしくないって。もっとちゃんと話合うべきでしょって。そしたら白状したのよ。1年ほど不倫をしていたって。・・・美香には内緒にしようと皆で話した。結果が同じなら、更に傷つける必要はないからって」

 皆は知っていた。私の為に黙ってくれていた。そして誠二は友人全員が背を向けるという罰を受けた。

 それはよく判った。

 陶子は一生懸命だった。私はその目を見てハッキリという。

「大丈夫よ、陶子」

「――――――美香」

 私は彼女の手の中から両手を引き抜く。冷たい空気に触れて、一気に体温が下がった気がした。

「教えてくれてありがとう。お陰で――――――」

 もう足も震えてなかった。ショックで震えが来たのは一瞬のことで、その後に待っていたのは巨大な怒りの気配だった。


「・・・お陰で、誠二を吹っ切れそうだわ、私」


 悪いけど、今日はこれで。そう言うと、後ろも見ずに走り出した。

 飲んだビールやお酒は完全に消えていた。的確に表現するならば、この時の私は怒り狂っていたからだ。

 お腹の底の方でマグマみたいなドロドロの何かが息をしていた。

 誠二!あの・・・くそ野郎!!って。怒髪天きていて、後ろで呼ぶ陶子の声はすでに聞こえてなかった。


 私が知っている誠二は街で設計事務所を開いている。もし今でもそこにいるのならば――――――殺してやる。


 殺気だった私は本当にそのまま元夫の事務所に奇襲をかけたのだ。

 離婚する前以来来ていなかった田西設計事務所は変わらずそこにあって、年末の夜の9時過ぎにまだ明かりはついていた。

 女友達に会うためにお洒落をしてきていた私は、普段はかないような高いヒールで床を打ちつけながら事務所の階段を上る。夜のドアのセキュリティーロック番号はまだ覚えていた。しかも、変更されてなかった。

 そんなわけで易々と私は事務所に侵入して、明りがついている事務所のドアを乱暴に押し開けた。

 バンっ!!と結構な音がしてドアを開ける。本当は蹴っ飛ばしたかったけど、それで開かなかったら格好がつかないから止めたのだ。

「うわあっ!?」

 実に久しぶりに見る元夫の、田西誠二が突然の侵入者に驚いて椅子から飛び上がった。

「・・・なっ・・・な、何・・・って、美香か?」

 驚いて椅子から立ち上がったままの中腰の格好で、ぽかんと口をあけてこっちを見ている。

 走ってきて上がっている息を整えながら、私はドアを力任せで後手に閉める。

 見回すと事務所で残業をしているのは誠二だけみたいだった。

 ・・・・好都合だわ。

 私はじっとりと元夫を睨みながら、事務所に足を踏み入れた。

「・・・美香?」

 懐かしい声で彼が呼ぶ。大好きだったこの人。あの春の日まで、私を裏切っていたとは全く思ってなかった私の結婚相手。

「―――――お久しぶり、誠二。元気そうね」

  まだ若干驚いた表情ではあったけど、その内そろそろと背中を伸ばしながら彼は頷いた。

「・・・ああ、元気でやっている。一体どうしたんだ?」

 私はカツカツと音をたてながら事務所の中を進み、誠二のデスクの前で止まる。彼から目を離さないままで低い声で言った。

「今日、ひさしぶりに大学仲間と飲んだのよ。そしてあんたの話になり、知らなかった離婚の真相を聞いたところ。・・・誠二、浮気をしていたらしいわね?」

 目を見開いて、彼は私を凝視した。だけれどもそれはすぐにそらしてしまう。そして大きなため息をついた。

「・・・聞いたんだな。そうだよ、俺は1年ほど浮気をしていた」

「それを隠してたわけね」

「美香をこれ以上傷つけたくなかったんだ」

 私は目を見開く。これ以上、だと?

 ショックと怒りで、一瞬で口の中が乾いた。

「浮気をしている時点で私の立場も愛も尊厳も、全部全部ずたずたにしているとは考えなかったの?!」

「―――――言うのが遅かったとは自覚している。だけど――――」

「だけどじゃねえよっ!!」

 バン!と私は両手でヤツの机を叩いた。その音にまたヤツの体がビクンと跳ねる。

「あんたは結局言わなかったのよ!私はさっき友達から聞いたの。皆私の為を思ってずっと内緒にしてくれていた。しんどい秘密を抱えて、皆苦しんでたのよ!」

「美香――――――」

「私はあんたが優しかったんだって思おうとしてたのよ!精神も壊して体も壊した、だけどあんたは悪くないって、不倫をする前にちゃんと結婚を清算したんだ、それは私への優しさなんだって、そう思って自分を慰めてきたのよ!それを、あんたは、よくも―――――――」

「美香は悪くないって言ってただろう!全部俺のせいだって、ちゃんと―――――」

「嘘ついたことに怒ってるのよ、このバカ男!!」

 血走った目で周りを見回す。何か―――――何かこのバカに投げつけられるものは―――――

 とりあえず目についたペン立てを引っつかんで彼に向かってぶん投げた。うわあ!と叫びながら誠二はパッとそれを避ける。

 思ったより凄まじい音を立ててそれは壁にぶつかる。いいぞ、いい手首のスナップだったわ、私。それに避けられちゃったけど、ヤツはビビったようだ。

「おい―――――」

「やかましい!!」

 次は写真立て。恐らくその、夫を寝取ったと思われる女とその人が抱く赤ちゃんが写っている写真立てだった。じいっと見てみたかったけれど、怒り沸騰中の私はこれ以上のムカつきは必要ないから見ないことにした。これの破損は諦めてもらおう。ガッツリ恨みがあるし、破いたり焼いたりはしないんだから。

 それもヤツに向かってぶん投げる。また避けられたけど、今度はガッシャーンと音がして、ガラスが飛び散った。

「止めろ!気が狂ったのか!?」

 誠二が真っ青になって身を竦めて叫ぶ。

 いっそ狂いたいわよ!心の中で絶叫する。このバカ男を殺せるものなら、今すぐ目で殺したい。

「残念ながら正気よ!私は怒ってるのよ、見下げたバカ男!」

 彼は驚いた顔のままで椅子から立ち上がって壁に背をつけている。

「あれだけボロボロになって傷付いたのに、会社も退職になって寝たきりになっても耐えたのに、私は何も悪くないんじゃないの!妻がいるのに避妊もせずに他の女とヤっておいて、よくもいけしゃあしゃあと――――」

 次はゴミ箱を蹴っ飛ばす。

「お前がそんなんだから外に癒しを求めたんじゃないか!」

 頭の中で血管が切れる音がした。握り締める両手に力がこもる。体が熱くて溶けそうだった。 

「弱虫の卑怯者!それだったら浮気相手を孕ませたから別れてくれって正直にいわれた方がよっぽどマシだったわよ!!何が何だか判らないままで家も仕事も健康も失って、死にたいとさえ思った私の1年半をどうしてくれるの!」

 今度は辞書を手に取って壁にぶん投げる。それはバンと音をたててぶつかり、そのままずり落ちた。

「み―――――」

「裏切っただけでなく、それを隠して別れるだなんて情けないバカ男!!」

 ヒールで横にあった椅子を蹴っ飛ばした。足が痛んだけど、心の痛みの方が断然強かったから、足の痛みは無視した。

「いい加減にしろよ!警察呼ぶぞ!」

 誠二が叫んだ。

 私は机の上のものを全部腕でなぎ払って落とし、その後で上体を起こして真っ直ぐに立つ。

 そして肩で息をしながら誠二に向かって言った。両目は誠二に据えたまま、外さずに淡々と。

「どうぞ、呼んで頂戴。そして出来たら訴えてくれる?すると私が暴行を働いた理由も説明出来るし、あなたのご両親にもまた会えるわね。不倫や子供のことだって、ご両親は知っていたんでしょう?そしたらうちの親との話し合いだって出来るし、そうだ、人の夫を寝取って子供を産んだ女にも勿論会えるはずよね。あなたの、現在の、妻にも」

 誠二は何度かパクパクと口を開閉していたけれど、その内ぐっと引き結んだ。

「誠二は知ってる?慰謝料を請求できるのは、不倫の事実を知って3年以内だってこと。もう別れているとか関係ない、私は今晩から3年以内なら、あんたにも、彼女にも、慰謝料だって請求できるのよ」

 誠二は真っ青な顔でしばらく黙って私を見ていた。そして、いきなりがばっと床に両手をついて、土下座した。

 私は驚いて息を止め、それを見下ろす。

 振り絞るような、苦しそうな声で、彼が言った。

「・・・・悪かった・・・本当に、全部、俺が悪かったんだ」

 床に額をこすりつけるようにして、彼は謝っていた。

「美香を幸せにしなかった。・・・いい加減な気持ちで結婚したんだ。俺が、全部悪かったんだ。許してくれ」

 ・・・いい加減な気持ちで結婚・・・。それは、言って欲しくなかったなあ〜・・・。

 私は土下座をする元夫をぼんやりと見下ろしながら、そんなことを考えた。

 机の上のものを投げまくったせいで、そこらへんは結構な有様だった。その真ん中で、かつて愛した彼が私に謝っている。紙とペンとガラスにまみれて。

 ・・・私は幸せだったのに。幸せ、だったのに、なあー・・・。

 急激に怒りも力も抜けてしまって、フラフラと後ろに下がる。そして誰かの椅子にそのまま腰を下ろして、まだ土下座している誠二に言った。

「・・・私、幸せだったのに」

 ハッと息をのむ音がして、彼が顔を上げる。苦痛に満ちた顔だった。悲しい、泣きそうな顔をしていた。そんな顔は初めて見た。

 この人とのそれなりに長い付き合いの中で、初めて見た顔だった。

「私はね、幸せだったのよ。あなたと結婚していて。だから驚いたの」

 あの日、いきなりだった。

「急に壊れた生活が受け入れられなくて気もおかしくなって、仕事も失って・・・」

 どんな顔をすればいか判らなかった。だから彼の顔から目をそらした。疲れきっていた。

「・・・あなたが、まだ大好きで」

 彼が、泣いていた。床の上に座ったままで、腕で顔を覆っている。嗚咽が部屋中に響いていた。

「・・・ごめん、ごめんな、美香」

 あーあ。そう思った。心の中で。あーあ、って。

 切れて、相手の職場に殴りこみ、暴行を働いて、野郎が目の前で泣いている。

 泣かせちゃった、誠二を。あんなに楽しくて堂々としてていつも一緒にいた誠二を。私が泣かせちゃった。

 力が抜けちゃって、何だか今度は笑えてくる。

 どうしていいか判らない時って、人間はストレス緩和の為に笑うんだって聞いたことあるなあ、そう言えば。

 殺意も怒りも悲しみも消えていた。

 私はただ、虚脱していた。

「・・・もう、いいや」

 そう呟いて立ち上がる。・・・疲れちゃった、ほんと。

 床に放り投げていたバックを手に取った。そして床の上に座ったままで顔を覆って泣いている誠二に言った。

「これで、やっと終われるわ」

 彼は首を垂れている。そして泣いている。もしかしたら、私の声は聞こえてないかもしれない。

「・・・悪いけど、私からの再婚と出産のお祝いはないわよ。―――――――でも今度は、幸せになって」

 彼が顔を上げる。呆然としていた。口をあけたままで、涙に頬をぬらして、真っ赤な目で私を見上げていた。

「今度こそ、幸せになってね、誠二」

 私はあなたを忘れるから。4年間だったけど、幸せだった結婚生活も、その後の酷い苦しみも全部、私は忘れるから。

 あなたも私を忘れてちょうだい。

 全部全部、忘れてちょうだい。

 そしてもう二度と会わないわね。私達、本当にもう赤の他人になるのね。

 ちょっとふらついたけど、何とかドアまで歩いて行く。振り返って彼を見た。

「家族を大切にしてちょうだい」

 そして入ってきた時は乱暴に開けたドアをゆっくりと開く。最後くらい、笑えるかな、私。

 頑張ってみようかな。

 口角を上げて、目を細めた。すごくブサイクで中途半端な笑顔だったと思うけれど、これで精一杯だった。

「・・・さよなら、誠二」


 そして懐かしいそのドアから、手を離した。






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