3、キレた夜@


 平林さんとエレベーターで会社のある18階まで上がると、第1、第2両営業部共有部分である給湯室へ繋がる廊下の端で、高田さんが立って携帯で電話をしているのが見えた。

 平林さんが気付いて片手を上げる。私は少し後ろに下がっていて、それに応えて片手を上げる高田さんを見ていた。

 無口な彼も仕事ではやはり電話をするんだなあ、などとぼんやり考えながら。

 高田さんの細めたアーモンド形の瞳は平林さんから私へうつって更に細められる。口元をゆっくりと上げて、それは綺麗な笑顔を作った。

 私はそれを見詰めて立ち止まる。

 平林さんが口の中で小さく笑う。

 時間が止まったような廊下の一瞬。

 泣きそうな感覚が体中を満たして私は慌てて瞬きを繰り返す。

 追い出さなくちゃ。あんな素敵な笑顔が何だって言うの。バカな私。ぼさっと突っ立って口開けっ放しで見惚れてないで、さっさと事務所に入らなくっちゃ。

 視線を感じる。だけど私はそれに無理やり背中を向けて、足を叱咤激励して自分の事務所に小走りで入って行った。

 捉われてしまう。見たばかりの彼の笑顔が瞼の裏でちらつく。あの瞳は魔力を持っているに違いない。もう見ちゃダメだ。でないと遅からず、きっと私は・・・。

 負けてしまうから。


 クリスマスの二日間を何とか高田さんの瞳を頭から追い払って過ごすと、翌日は楽しみにしていた女友達とのご飯だった。

 砂原陶子は大学時代からの友人で、別れた夫とも共通の友人だった。結婚式にも来て貰った彼女と長い間会わなかったのは、彼女に会うと元夫の話が出てきそうで、それに耐えられない内は無理だと思っていたからだ。

 だけどもうそろそろ大丈夫かな、と思った。だから私から連絡を取ったのだ。

 彼女がまだ結婚していないことは年賀状で知っていたけど、電話の向こうで嬉しそうな声を出して快諾してくれたときにはホッとした。

 学生時代によく行った居酒屋で待ち合わせをしていた。

 ガラガラとドアを引くと、温かい空気とおでんの匂い。いらっしゃい!の声に弾む気持ちを抑えてカウンターを見ると、既に来ていた彼女が手を振っていた。

「陶子!久しぶり〜!」

 思わず駆け寄る。会うのは3年ぶりくらいになるけど、彼女は変わってなかった。相変わらず利発そうで、それからゴージャスな美人。瞳にはきらりと光る輝きがある。

「美香も、元気そうだね〜」

 嬉しそうに微笑んで私を見る彼女の隣に座る。

「ビール下さい」

 おしぼりを貰って注文した。

 食べられるようになってから、ほどほどにアルコールも飲んでいた。それもあってか体重もちゃんと増えている。

「ごめんね、ずっとバタバタしていて連絡が途絶えちゃって」

 陶子は判ってるというふうに、私の手をポンポンと叩いた。

「今が元気そうで安心したよ。あいつのこと話したいなら聞くし、嫌なら話題に出さない。どうする?」

 あいつ。元ダンナの田西誠二のことだ。陶子の気遣いを嬉しく思い、首を振る。了解、と頷いて、陶子は仕事の話を始める。

 ビールで乾杯して、私の転職を含めた仕事の事で盛り上がる。彼女はデザイナーで、個人で営業もするので営業職につきまとう一通りの苦労は判るのだ。

 ビールは一度にして、それからは熱燗でおでんを食べる。学生時代から冬の飲み会はここと決めていた、馴染みの店だった。離婚してからはこの店にも来ていなくて、懐かしさもあって余計に料理が美味しく感じる。

 おでんがメインで大なべにぐつぐつ煮えていて、他には簡単なつまみ程度の食べ物。ただし、お酒は各種大量に仕入れてある。食べるというよりはのみに来る店だった。

 休日に、早い時間から気心の知れた友達と笑いながら飲む。

 これって最高の時間の使い方だな、と心底思った。

 結婚している時には持てなかった時間だ。やはりこの世の中の全てのことは、結局良い面だって悪い面だってあるのだ、と思った私だった。

 とりあえず、今の私は、幸福だって。

 酒には強いので私が来る前から飲んでいた陶子のほうがシャンとしていた。

 私は心が解れたのもあって、破綻した結婚生活のことを聞いて欲しくなる。

「ねえ、話しても、いい・・・かなあ?」

 少し舌足らずになってしまっていた。うーん?とほんのり赤らんで色気の増した陶子が私を振り返る。

「・・・誠二の事、話してもいいかなあ?」

 もう一度聞くと、少し目を見開いた。でも、うん、と頷いてくれる。

 共通の友人がどこまで知っているのか知らなかった。だから、私はそもそものあの春の日から話を始める。

 突然で驚いたこと。訳が判らないうちに彼が出て行ってしまったこと。それから二人きりでの話し合いは出来なかったこと。実家に彼の両親が謝りにきたこと。離婚になって、会社を退職し、しばらく寝てばかりで起きられなくなったことを。

 両親以外と話したことのないその話を全部喋った。途中で感極まって涙が出そうになると急いではんぺんやこんにゃくや竹輪を口に突っ込んで紛らわせた。

 お酒の力と温かい空気と美味しいおでんと、それから隣で黙って聞いてくれる女友達の存在が、私に話す勇気をくれていた。

 途中から陶子は痛そうな顔をして、眉を顰めて瞳を潤ませていた。私の方は見てなかった。じっと前を向いて聞いていた。

 シリアスな話だと思ったらしく店の大将もバイト君達も放っておいてくれたので助かった。

「・・・で、今に至るの」

 話終わって、秋鹿を冷で飲む。すっきりとした感触が喉を通り抜けて行く。・・・ああ〜・・・美味しい・・・。

 陶子はハンカチを出して目の際を抑える。涙が出ちゃったわ、と言いながら。ゆっくりとハンカチを仕舞ってからカウンターの中にビール、と声をかけて、ほう、とため息をついた。

 二人とも黙って、ぼんやりと肘をついていた。

 陶子がゆっくりと私を振り返った。

「・・・よく頑張ったね、美香」

 その言葉はどストライクに胸に入って沁み込んで行く。うっと呻いて、言葉を飲み込んだ。

 発作的に号泣してしまうところだった・・・。危ない危ない・・・。

 ビールを持ってきたバイト君にありがとー、と礼を言って、陶子は一気にビールを煽った。いい飲みっぷりだ。

「誠二・・・・あのバカ野郎。あんた達の離婚は仲間でも噂になってね、あれ以来ほとんどの子が誠二とはもう連絡を取ってないの」

「え?」

 私は驚いて顔を上げる。連絡を取ってない?・・・何で?

 共通の友達ではあるが、元々は陶子もヤツと同じゼミ仲間だったのだ。誠二の彼女として私と知り合ったに過ぎず、彼が中心で仲間が集まっていたようなものだったから意外だった。

 今日陶子と飲むことは、回りまわって彼にも伝わるだろうと思っていたんだけど・・・違うみたい。

 私は別の会社で頑張ってるって、それなりに幸せだよって、仲間からでも伝わればいいな、と実は思ってたんだけど・・・。

 でも私がそれを言うと、陶子は釣り目の瞳をキッと上げて言い放つ。

「もう誠二のことは忘れなさい。あんなバカ野郎、美香には勿体無いよ」

「――――――」

「あいつが許せないってほとんどの仲間は離れたの。あんたが元気で頑張ってるって伝えたら、皆喜ぶよ」

 私はカウンターに覆い被せていた上半身を上げる。酔いが少しだけ醒めた。

 許せないって、何よ。

「・・・陶子、どうしてそんなに誠二を嫌いになったの、皆?」

「何でもない」

 キッパリと拒否された。聞いちゃダメよ、私は話さないって意思がその横顔にはハッキリと刻まれていた。

「いいのよ、昔の男のことなんて。それよりあんた、前よりちょっと綺麗になったかもって思ってたんだけど。何かあったの?もしかして、もう彼がいるとか?」

 いつもの無邪気な瞳になって、陶子が振り返る。

 私は少しばかり気持ち悪かったけど、その感情は酒と一緒に飲み下した。

 彼女が何を知っているにしても、それは私は知らない方がいいらしい。なら、聞かないでおこう。そして忘れよう。それよりも―――――――

「・・・相談に乗ってくれる?」

 小声で聞くと、陶子は身を寄せてきた。

「何何?もしかしてあんた照れてんの?うわ〜、何事よ!」

「絶世の美男子に私が好かれてるって言ったら、陶子信じる?」

「絶世?」

 私は頷いた。

「そう。うちの会社で全国レベルで有名なイケメン、独身、31歳」

 彼女はパッと半身ごと私を向いた。

「詳細に白状しなさい!これは、命令よ」

 大学の時の彼女の口癖だった。

 私はそれだけで、大いに笑った。


 丁度持ってきていた広報で壇上表彰者の写真があったので見せながら話すと、陶子の盛り上がりは最高潮に達した模様だ。

 広報を私から奪い取ってガン見しながら、周囲を気にせず絶叫した。

「おおおお〜っ!!!!」

 店の大将がカウンターの中で苦笑している。目があった私はそれに頭を下げながら、ボリューム、ボリューム、と陶子の肩を叩く。

 この二人、泣いたり笑ったり叫んだりで忙しいやっちゃ、とか思われてるんだろうなあ〜・・・。

「いいじゃん美香!何を迷うことがあるのよ!?」

 要らないなら是非私に紹介してくれ!割り箸を放り投げて陶子がそういうのに、うん、紹介しようか?と聞くと、彼女は呆れた顔をしてみせた。

「・・・何でそんなに冷めてるのよ。嬉しくないの?」

「ううーん・・・。嬉しいとは思うんだけど、まだ恋愛出来る状態じゃないんだと思うのよね・・・。誠二のことが好きだった。いきなりの別れで、まだ私の中で納得出来てないっていうか・・・修羅場がなかったし、話し合いもちゃんとした気がしなくて・・・」

 隣で盛大なため息が聞こえる。

「過去を処理出来てないから先へ進めないってことなの?あーあ、勿体無い。あんた判ってる?30歳過ぎて美形から好かれるなんて宇宙から降って来た隕石に衝突するくらいない確率なのよ?しかも、マトモな男なんだったら。・・・マトモなんでしょ、この美形は?」

 首を傾げて広報をバシバシと叩く。

 私は口に大根を突っ込みながら答えた。

「知らないわよ、興味がなかったから、フルネームすらこの前初めて知ったもの。でも彼の幼馴染の話では、多少好みにうるさいくらいの情報しか貰ってないけど」

「具体的には?」

 黒胡椒と砂糖の話をした。陶子はまた広報をカウンターにバシバシ打ち付けながら言う。

「全然大丈夫な範囲じゃない!そんなのオッケーよ、お茶はマテ茶じゃないと飲めないとかなら困って頭抱えるとこだけど」

 どうしてマテ茶なのだ。今ダイエット中?と一応突っ込むとうるさいわね!と広報で叩かれた。

「・・・マザコンとか」

「知らない」

「・・・上に4人くらい口うるさい姉がいるとか」

「知らないってば」

「30歳過ぎてマトモな独身男、しかもエリートは残ってないと思うべきなのよ!この人にも何かあるはずよ!妻が居なかった何か原因が!」

 どうしても変態か変人にしたいらしい。

 とにかく!と最後には机を叩いて天井を睨みつけていた。

「この人にうんと言うのよ、美香!逃してはならない。こんな美形だったら多少変でも目をつぶれるってもんだろうし!」

「・・・外見優先なわけね」

 キッと振り返って陶子はまくし立てる。目の淵が赤くなっているのは興奮からか、ようやく酒がまわってきたかのどっちだろうか。

「違うの!さっさと誠二のバカたれなんて忘れて前に進みなさいって言ってるの!この彼がその出発点になるのであれば、私は全力で応援するわよ」

 ・・・うーん、優しさから言ってるってことは、ちゃんと判ってますよー。私は女友達を見て微笑む。すると彼女はまた瞳を潤ませながら、小さな声で言った。

「幸せになって欲しいのよ。早く過去から自由になって、美香。皆で心配してるんだから・・・」

 陶子が私に何か隠しているのははっきりしていた。だけれども、心優しい女友達は私のことを思って話さないと決めているようだったから、触らずにいたのだ。

 せっかく、その話題は二人で避けていたのだ。

 なのに、別の形でそれを知ることになってしまった私だった。

 陶子と足元をふらつかせながら、真冬の繁華街をゲラゲラ笑いつつ歩いていたのだ。

 気分よく。早くから飲んでいたから、時間もまだ8時半を過ぎたところだった。

 すると、偶然が重なって遭遇したのは別の共通の友人だった。

「おー!もしかして陶子と美香か?!」

 アーケードに響き渡るパチンコ屋が出す騒音や飲み屋の呼び込み声にも負けない音量で、幸久が叫んでいた。

 私達は一瞬怪訝な顔をしたけど、その後で笑顔になってきゃーきゃー言いながら、離れたところで両手をぶんぶん振っている学友に駆け寄った。

「幸久〜!!うわーお、めちゃくちゃ久しぶりだねえ!!何してんの?」

「今日忘年会だったんだよ、一番最後の!」

 そう言って待っていたらしい会社のメンバーに後で追いかける〜と声をかけて、私達に向き直った。

「陶子も美香も久しぶりだなあ!元気そうで何より」

 この幸久も、元夫の誠二がいつも一緒にいた仲間の内の一人だった。いつでもお調子者で皆を笑わせてばかりいた男だ。

 陶子と違って彼はいくらかの変化が見えた。恰幅がよくなってたし、どこからどうみてもオッサンだ。会わずに過ごしてきた年月を思ってしまった私だった。

「今日は陶子ともすっごい久しぶりに会って飲んでたんだよ〜!笑えるわ、一度に二人も懐かしい友達に会えちゃった!」

 私が笑いながら言うと、幸久はニコニコしてうんうん頷いた。

「美香、思ったより元気そうだな。良かった、離婚したって聞いて皆で心配してたんだ〜」

 あははとい笑う幸久に陶子は私の後ろから睨んだみたいだけど、既に一次会で酔っ払っていた彼には通じないようだった。

 そしてさらりと言ったのだ。そのままの勢いで。

「誠二、結局彼女と結婚したらしいなあ。責任取るのは大事だけど、それにしてもひでぇ奴だよ。お前は最低なクズ野郎だって俺もいっといたからな、美香」

 ――――――――え?

 私は目を見開いた。

 ・・・誠二が、何だって?

「ちょっと、幸!!」

 私の後ろで陶子が厳しい声を出す。幸久はその声にビックリした顔をして、それから私の様子に気付いたらしかった。

「・・・え、あれ・・・?」

「幸、誠二ってもう再婚してるの?彼女って誰のこと?」

 真面目な顔になった私の問いかけに、口元を押さえる。そして私の後ろに立つ怒れる陶子の顔を見たらしかった。

「・・・あ。オレ―――――」

「幸?教えてよ」

 誠二が何だって?結婚してるの、あの人?一体いつの話?相手は―――――・・・

 私の後ろから、陶子の冷たい声が聞こえた。

「幸、もう行って。会社の人待ってるんじゃない?美香には私から話すから」

 一瞬で撃沈したらしい幸久は、がっくりと肩を下げて情けない顔を両手でこする。そしてうー・・・と唸ってから、頭を下げた。

「・・・悪い、美香。知らなくていいことを言ってしまった。許してくれ」

「幸―――――」

 彼のコートの袖を掴んだ私の肩に手をあてて、陶子が静かに言う。







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