A



 間近にある、今は閉じられた綺麗な形の目。

 はらりと落ちて、おでこをくすぐる黒い前髪。

 柔らかく押し付けられる、あたたかい唇。

 冷え切った私の体は溶かされ、瞳も唇も熱を持って震える。

 キスだ。

 これは、キスだ。私、今、きゅうりに―――――――――

 左頬に当てられていたきゅうりの右手は私の後頭部に移動し、強く引き寄せてしっかりと唇をつなぎ合わせる。

 きゅうりが薄く目を開けたので、慌てて瞼を閉じた。この状態で彼の目を見る勇気なんてカケラも持ってない。

 押し付けていた唇を少し離して、きゅうりは私の下唇をぺろりとなめた。

「・・・開けて」

 ―――――え、何を?

 と思って、つい目と口を開けてしまった。

 至近距離の熱っぽい視線に絡め取られて、思考は完全にストップする。

 その間にまた近づいて、開いた唇の間にきゅうりが舌を差し入れてきた。

 さっきまでの優しく心身を溶かすキスとは全然違った。

 ただガツガツと貪るような、熱くて激しい奪うキス。

 後頭部に回した手に力を入れ、角度を変えて何度も貪られる。

 激しすぎて呼吸が出来ない。

 く・・・・・くくくくく苦しい〜!!

「っ・・・くす・・・も・・・」

 切れ切れに名前を呼び、腕を叩く。その間にも舌が絡まり、唇を噛まれる。合間に挟まれる荒い呼吸で車内の窓は白く霞む。

「・・もうちょっと」

 きゅうりが低く呟き、また、優しいキスに変わった。

 押し付けて、包み込み、唾液を混ぜる。

 音を立てて、何度も何度も顔を近づける。

 ・・・ああ、もう駄目だ〜・・・。わたしは既に流されるまま。

 考えることは諦めよう。だって、だってこんなに気持ちがいいんだもの。温かくって、柔らかい。こんなにこんなに気持ちいいんだもの・・・。

 さっきまでの凍えるようだった身体はすっかり温められて、二人の吐息で車内の温度も上がっていく。


 頭も体も心も全部トロトロに溶けてしまって、私は海を漂っているようだった。

 心地よさにうっとりとなる。


 ・・・なんて、上手なんだろう・・・。


 やっと後頭部から手がするりと抜かれる。

 きゅうりも荒い息をしながら、こつんと額をつき合わせて目を閉じていた。

 声にならない。何て言えばいいかも判らない。

 もう一度頬を撫でられる。私は目を閉じたまま。


 漸く私に覆いかぶさっていた体を引き起こして、きゅうりが運転席に収まった。

 私は息も絶え絶えで、全身を真っ赤にしてとろけていた。気持ち的には、自分に2本の足がついているなんて信じられない。

 お腹の下のほうからくすぶるような熱さが上がってきて、体中を満たす。その激しさに体が震えた。

「――――――車、出すから。ベルトして」

 自分のシートベルトを引っ張って着け、きゅうりが言う。

 ハッとして目を開けた。

「――――・・・・あ、はい・・」

 うまく声が出なくて、咳払いをしてから返事をした。


 ――――――――――――・・・今、何が起こったのか聞きたい。


 いや、起こったことは判っている。

 なんで、ああなったのかが知りたい。

 震える手で何とかシートベルトを引っ張ってつける。金具にうまく入らなくて、やたらと苦労した。

「出すぞ」

 小さく言って、きゅうりは車を動かした。


 突然のキス。

 初めての、大人のキス。

 眩暈がしてドキドキして蕩けてしまう、あれが、キス・・・・。


 青山さんとの時とは全然違った。熱さも、眩暈も、気持ちよさも。


 キスって・・・気持ちいいものなんだ・・・。



 腫れて赤くなっているであろう唇をそっと人差し指で撫でる。


 どうして、キスしたの?


 口にはとても出来ないからと、心の中で問いかける。

 運転するきゅうりの姿はいつもと変わりなく思えるから、悔しさが生まれた。

 ・・・全然影響ないのかな。

 あのキスを、あんなキスをしても。

 きゅうりは慣れてるのかな。女の子にキスをすることも。普通のことなのかな。付き合ってないのに、キスって出来るものなのかな。ただそこに居たから私に頼んだだけで、彼女役も誰でもよかったのかな。

 頭の中にはあふれ出しそうな疑問が渦を巻いている。潤んだ瞳は窓の外に向けておこう。もうちょっとの刺激で、私は泣いてしまうだろうから。


 夜は段々深くなっていくのに、まだまだ明るいクリスマスイブの街を車は静かに走っていく。

 また雪が降り出しそうな雲が空には広がっていた。


 私のアパート前に到着した。

 ほんの、2時間前の私はのんきな顔でここに帰ってきたんだった。まさか、こんなことが起こるとは思わずに。

 きゅうりの方を見ることが出来なくて、それでも長い間の沈黙に耐えかねて、送ってくれたお礼を小さく呟く。

「・・・ありがとう、ございました」

「うん」

 きゅうりの声は掠れている。私の耳はその声を絡めとリ、心の真ん中へと注ぎ込む。

 本当は、理由を聞きたい。今日の事とか、さっきのキスとか―――――。

 でもその勇気もなく、ため息を押し殺してシートベルトを外した。

「おやすみなさい、楠本さん。・・・また、明日、ですね」

 ドアを開けようとしたら、左手をきゅうりに掴まれた。

 運転席から手を伸ばして、きゅうりが私をじっと見ている。

「―――――――帰るのか」

「・・・それで送ってくれたんじゃないんですか?」

「―――――」

 さっきまでの熱っぽく獲物を追うようだった黒目は、今では切なげな光が浮かんでいた。

 ううう・・・色っぽい顔しないでよ。もう私、本当にギリギリなんだから――――――・・・

「・・・あの・・・」

 とても目を合わせていられないから、膝の上においた自分の手を見つめて口を開く。

「・・・さっきのは・・・」

 きゅうりが私から手を離した。視線も外したらしく、小さなため息が聞こえた。

「・・・・急に、悪かった。我慢できなくて。・・・痛かったか?」

 低い声が耳の中にするりと染み込む。

 問いかけには首を振って答えたけど、気持ちが暴れだしそうで身動きがうまく出来ない。


 ああ、どうしよう・・・。

 握りしめた手に更に力を入れる。

 ああ、どうしよう、好きなんです。


 あなたが、好きで仕方ないんです。


 口を開いたらポロポロとこぼれ出てきそうな気持ちで私はもういっぱいいっぱい。

 平気なふりで、傷口を浅くしようと頑張ってきたけど、もう、これ以上は―――――――――

 口を、開きかけた。

 きゅうりに体ごと向き直って、私は想いを口にしようとした。

 だけど、きゅうりの言葉が先に聞こえたのだ。

「・・・青山に、嫉妬したんだと思う」

 ハッとした。

 え――――青山?・・・何で、ここで、青山さん?

 嫉妬って、一体何に?

 出鼻をくじかれた格好で、私の頭はパニックに陥る。ええと?どういうことかが判らない・・・。

 頭の中に、きゅうりに追求された場面が鮮やかに蘇った。

『青山にキスされて、『本当に嬉しかった』のか?』

『抱きしめられた?』

『告白?やっぱり青山が好きだったのか?』


 カッと全身の血が燃えたかと思った。

 青山さんが、私にキスしたから?

 それでなの?

 私が好きだとか、私にキスをしたかったから、ではなくて・・・からかって遊べるお気に入りのアルバイトに、後輩の営業が手を出したと知って、ムカついただけ?

 私はおっちょこちょいだと、認めよう。多少鈍いし、気が利くほうではないかもしれない。

 それでも、普段の冷静さをもっていたなら、この時のきゅうりのセリフも違うように解釈したと思う。その言葉の中に、私への好意や、甘い響を感じ取って、喜んだかもしれない。

 でも実際は、この2時間で起こった色々なことやキスなんかでショックをうけて蕩けてしまってた頭では、好意的には受け取れなかったのだ。

 つまり、絶望した。

 物事を悪い方へ悪い方へと考えてしまう、就職活動の弊害がぐわっと襲ってきたのだ。

 瞬間的に思考はショートし、その後、悲しみと寂しさが団体でやってきた。

 震える唇をきつくかみ締める。


 嘘でもいいから、今夜だけは、私が好きだと言って欲しかった。

 お前が欲しかったと。

 だからキスしたんだと。

 愛しかったと。

 本当の彼女になりたいなんて、わがままなことは望まないから。


 他の誰かの名前を出して、それを理由付けになんて――――――


 私の目からは涙が溢れ、丸い玉となって転がり落ちる。

 涙で霞んだ視界で、ゆっくりときゅうりを振り返った。

 きゅうりは驚いた顔で凍り付いていた。

「瀬川・・・?」

「・・・・もう・・・」

 声を出すと、嗚咽が出てきそうになる。口元を両手で押さえた。

 きゅうりの前では笑うと決めたのに。

 そんなこと、もう出来そうもない。


「・・・もう、私で・・・遊ばないで」

 いつものように、顔は真っ赤だっただろう。しかも涙をガンガン流していて、唇も腫れてる上にマスカラも全部流れていたハズ。

 世にも酷い顔で、私は車を飛び出した。

 後ろできゅうりが何か叫んでいたけど、聞こえるのは自分が漏らす嗚咽と早い鼓動だけ。

 凄い勢いで階段を上る。

 廊下を疾走して―――――――――――


 私の避難所、部屋へ逃げ込んだ。


 鍵をかけ、携帯の電源を切って投げ捨て、部屋の真ん中で服を脱ぎ捨てる。

 バスルームに飛び込んで、頭から熱いシャワーを浴びた。

 バスタブの中で白い湯気に包まれて、私は顔をあげてシャワーを受け止めていた。

 これでもう安心してちゃんと泣ける。

 やっと、声も出した。

 今はとにかく、体から感情を全部出してしまおう。

 辛いときはいつもそうしてきたように。

 狭いバスタブにうずくまり、頭の上からお湯を被りながら、へとへとになって考えれなくなるまで泣きに泣いた。

 そしてフラフラと上がって、ザッとだけ全身を吹き、布団に倒れこみ、深い深い眠りについた。



 夢も見なかった。





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