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 バイトの就業時間の5時前、仲間さんが手伝おうかと声をかけてくれたけど、ここで甘えたら何にもならないと丁重に断る。

「私、サービス残業で片付けますから、どうぞ先に上がってくださいね」

「駄目よ、時給制なんだからサービス残業なんて言葉はありません。そこまであなたがしなくても」

 仲間さんは言うけど、これはどうしてもやってしまってから帰りたいと押し切った。

 頑固よね〜、と苦笑して、結局は部長の許可も取ってくれた。仕事のためということで、何とちゃんと時給を払ってくれるらしい。

 恐縮して頭を下げる。

「でもな、もう冬で日も早く落ちるし、外は冷えてくる。9時には上がれ」

 霧島部長の念押しに、はいと頷く。

 よかった、何とかやってしまわないと。

 最近のぐだぐだが祟って、今日までこれだけ仕事を増やしてしまったのは私だ。しかも、今日も使い物にならなかった。凹んでる暇はない!頑張ってやりきらなくちゃ!!

 次々と社員が退社する中で、一人黙々と仕事を続ける。

 時給がつくという事態に責任感が伴って、部長の許可が出てからはいいペースで片付けていけている。よしよし、これだったら9時まではかかんないかも。終了の目処が立った時には8時過ぎ。まだ2,3人の営業さんは残って仕事中だけど、事務や他部署は既に全員が帰宅していた。

 一息つこうとコーヒーを入れて、給湯室の壁にもたれ掛る。

 そうだよね・・・。営業さんは、普通に皆終電まで働いてるもんね・・。

 生命保険の契約は、家の次に高い買い物と言われている。家族が出来て責任が増えただの、子供を出産しただの、旅行前のお守りだのと、とてつもない種類の保険が存在する。自動車保険や火災保険、日本ならではの地震保険も扱っているから、その数は膨大だ。

 契約にはもちろん本人の直筆が必要であるし、契約に伴う重要事項の確認や、しおりの交付などもあって、サラリーマンの契約を頂くには契約者が帰宅したあとを狙うか、休日しかチャンスがないのだ。

 昼間、会社に出入りさせてもらって、昼休みなどをつかって保険の喚起をしたり、現在の加入状況を聞いたりする。

 会社に戻ってお勧めしたいプランをつくり、アポをとる。

 そしてうまくいけば、夜か休日に契約を頂くことになる。

 やり手の営業であれば自分であちこち動くことはせず、信頼を得ている顧客に、新たなお客様を紹介していただくのだ。そして、輪を広げ、繋がっていく。その人の輪は無限大だから、いい仕事をし続けていれば、契約を取ることに終わりがないのだ。

 そしてずっと続けていて、勤続20年目には、顧客数500人越え、などになる大ベテランさんもいる。そうなれば、もう何も苦労はない、といわれている。黙っていても紹介で仕事が入る。そうやって独立して、自分の事務所をもつ人もいるのだ。

 ぼんやりと窓の外を見る。

 こんな時間に会社にいるの初めてだなあ・・・。事務所が静かな時なんてあるんだ。営業さんて、ほんと大変だな・・・並大抵の努力ではないよね・・・。

 ・・・きゅうりも、まだどこかで頑張ってんのかなあ・・・。

「って、違うでしょ」

 また思考がそっちにいく自分に突っ込みを入れた。

 駄目駄目、仕事やりきってしまおうっと。

 自席に戻って、ほっぺを叩く。

 よし、気合いれたぞー!


 9時13分前。

「あ・・・・・良かった、終わった・・・」

 ため息をついて、凝り固まった肩をほぐす。

 ああ〜・・・・疲れた。

 書類を片付け、引き出しに鍵をかけて、机に突っ伏した。

「・・・・・お腹すいたあああ・・・・」

 よく考えたら、今日はこの仕事の山を片付けるために、お昼も短縮してたんだった。そりゃあお腹もすくよね〜。いつもなら晩ご飯終わってる時間じゃん。

 鞄を手に、立ち上がる。

「よし、帰ろうっと」

 事務周りの電気や鍵を確認して、営業部に挨拶をしてエレベーターホールに出る。

 肩は凝っていたしお腹も空いていたけど、仕事をやり終えた充実感が体中を駆け巡っていて気分が良かった。

 晩ご飯のメニューを考えながら、ビルを出る。

 ざざーっと風が吹いて、今日はおろしている長い髪をかきあげた。

 11月に入って、朝晩の気温は確実に下がってきていた。トレンチコートの前をかき合わせて、つい呟く。

「ううーっ・・・寒い・・」

 歩き出したところで、声をかけられた。

「瀬川さん!」

「へ?」

 振り返ると、青山さんが近づいてくるところだった。

 重そうな営業鞄をもっている。ニコニコ笑って言った。

「何でまだここにいるの?5時退社じゃなかったっけ?」

「青山さん、お疲れ様です」

 隣においついて、青山さんは息をついた。走ってきたみたいだ。

 鼻の頭が赤くなっている。

「仕事が溜まってて・・・霧島部長に許可いただけたので、残業してたんです。青山さん、今、帰社ですか?」

「うん、そう。今日は何かうまくいかないくて。あっちも駄目、こっちも駄目で、ちょっと凹んで戻ってきたとこなんだ」

 確かに、疲れた顔してるかも・・・。暗くてよくは判らないけど。

 長めの髪はいつもちゃんとセットしてあるのに乱れてるし。うまくいかない・・・きっと、それも色々あったんだろうな。

「大変でしたね。まだ事務所も何人か残られてますよ」

 明かりがつくビルの窓を見上げて、青山さんはため息をついた。

「・・・来月分、皆必死なんだよな・・」

 また風が通って髪を揺らす。ううう・・寒い。立ち話には厳しい季節になってきた。

「じゃあ、私は帰りますね、お疲れ様でした」

 ぺこっと頭を下げて、駅のほうへ歩き出そうとしたら、また呼び止められた。

「-――――瀬川さん!」

「はい?」

「あの・・・良かったら、晩ご飯一緒しない?まだ食べてなければ」

 青山さんが鞄を持ち直して言う。

 実は、ちょっと困惑した。大井さんはじめ、また色んな人に冷やかされるのは面倒くさい・・・。でもこの時間から帰って何か作る気力も、確かにない。しかししかし、月の中ごろ、財布の中身を考えれば気軽に外食出来る身分でもない・・・うううーん。

 黙って突っ立っていたから、嫌がっていると解釈されたらしい。

「・・あ・・ごめん、別に無理にでは・・」

 青山さんの申し訳なさそうな表情を見て、つい、言ってしまった。

「あ、いえいえ、勿論ご一緒させていただきます」

「え、いいの?」

 ぱっと嬉しそうな顔になったところで、沈黙時間に考えてた折衝案を、一応提案してみることにした。

「ご一緒するんですが・・・マクドナルドでも、いいですか?」

 一瞬ぽかんとした表情をして、それから青山さんは笑って頷いた。

「勿論オッケーだよ」

 駅前のマクドナルド。

 9時過ぎともなれば、そんなに混雑もしていない。

 財布の中身と、誤解も立ちにくい場所であろうと判断してマクドナルドに誘ったが、青山さんは嫌がりもせず、笑って快諾してくれた。良かった〜、いい人だ。

 それぞれの食べ物を持って、席に座る。

「・・瀬川さんて、ファーストフード好きなの?」

 青山さんは、さっそくビックマックに齧り付きながら聞く。

 私はビックマック頼む人を初めてみたので、多少興奮していた。・・・あんな大きいの、食べる人いるんだ・・・。まあ、居るからあるんだよね、そりゃそうなんだけど・・・。

「・・・いえ、特に好きとかではないんですけど・・・財布の中身と相談した結果が、これです。すみません、簡単なご飯に付き合わせちゃって」

 恐縮していると、あははと笑われてしまった。

「俺が誘ったんだから、ご飯代、気にしなくても出したのに。まあ、俺も懐あったかいわけじゃないから、正直助かったんだけど」

 二人で笑う。こういう気遣いは、嬉しいな。この人は優しい人だ。

 いただきます、と手をあわせて、私もチーズバーガーを食べ始める。

 さっさと別々に並んだので、お金を払わせなくて済んだ。

 ご飯の代金を出されるのは、好きではない。自分の食べた分くらい払いたいし、青山さんは、そりゃあ私よりはお給料もいいとは言え、同じくまだ新卒の扱いなのだから、奢られるなんてとんでもないと思っていた。

 前のお礼は別として。

「おお、美味しい。実は、マクドナルドも久しぶりなんです」

 疲れた体には判りやすいくらい濃い味付けのものが美味しく感じる。わかる〜と二人で盛り上がる。

 最近の事務所のこと、営業部の噂、霧島部長の失敗話、話は盛り上がる一方で、全然尽きることがなかった。

 こんなに笑ったのは久しぶりだ。

 思い返しても、ここ最近の私はかなり暗かった。

 惹かれていると判った人から告白されたと思ったら、「冗談」だといわれたこと。

 きゅうりがくれたここ7ヶ月の色んな言葉を思い返して、そこに好意のニュアンスを嗅ぎ取ろうと必死になって、くたくたになる夜から朝。

 なのに面とむかって話せなくなってしまった自分。

 あのからかわれて怒っていた時間が、今では遠く、きらきら輝いて見える。

 思考にハマって、少しぼーっとしていたみたいだ。

 青山さんが前から心配そうに見ていたのに気がついた。

「大丈夫?疲れてきた?」

 時計をみると、もう10時半を回っていた。明日も仕事だと思い返し、一瞬で現実感がよみがえる。

「ああー、もうこんな時間なんですね。あまり面白くてつい・・」

「お、本当だ。もう俺今日は会社戻るの、やーめた」

 青山さんも時計をチェックして、ため息をついた。

「大丈夫なんですか?帰社しなくても」

 トレーにごみを集めて立ち上がる。

「うん、部長も今日はもういないから。ゴミ、ありがとう」

 トレーも片付けて、並んで店を出た。

「瀬川さん、家どこ?遅くなったし、送るよ」

 改札に向かって歩きながら青山さんが言うから、ビックリした。

「え、いえいえ、大丈夫ですよ。うち駅前なんで、暗い道もないし」

「いや、でも・・・」

「大丈夫です。友達と遊んだりしたら、いつももっと遅いんだし」

 笑って言うと、しばらく迷ってるようだったけど、判った、と言ってくれた。

 その時、何でこんなことを言ったのかは、私にも判らない。

 ただ、流れるように、言葉が口から出てきたのだ。

「あ、青山さん、今日、長谷寺さんのお嬢さんが事務所においでになりましたよ」

 きびすを返しかけてた青山さんの体が止まって、え?と振り返った。

「長谷寺さんのお嬢さん・・・ああ、先月の契約に関して何かあったのかな?」

 心配そうな顔で聞いてくる。

「私も用件伺ってないので知らないんですけど・・・。楠本さんに会いにきたって言ってました」

 途端に、青山さんの表情が晴れた。

「あ、成る程・・。楠本さんか。そうだろうなあ〜」

 一人で合点している青山さんに突っ込まずにはいられない。

「え、え、何ですか?一人で楽しんでないで教えて下さいよ」

 まだニヤニヤしながら、青山さんが話す。

「楠本さん、凄い格好いいから、女性客が夢中になっちゃうことがよくあるんだって。他社にかけてるのも全部あなたに回すから、私と付き合って、とか迫られることも多いみたいだよ。本人はほとほと困ってるみたいだけど、口の悪いヤツなんかは、ルックスで契約取れりゃ苦労がなくていいよな〜とか言うやつもいてさ」

 はあ、と私は頷く。

 やっかみってわけね・・・。まあ、それはどこの世界でも多少はあるんだろうけど・・・それにしても、色んな意味で災難かも・・・。格好いいとかって、本人にとってはいいことばっかじゃないんだ・・・。

 青山さんは続ける。

「そういわれるのが嫌だからと、もうずっと女性客の契約は取り扱わないようにしてたみたいだよ」

 え。本当に?それは・・・凄いかも。

 青山さんの話を聞きながら、一瞬今まで扱ったきゅうりの新契約を思い返す。確かに・・・男性ばかりだったかも。契約者も被保険者も。

「俺は中身で仕事してるんだって言いたいって。でも今回、俺の件でついて来てもらっちゃったからなあ〜・・・。やっぱりあのお嬢さん、そうだったのか〜。楠本さんばっか見てたもんな〜契約内容ちゃんと判ってんのかな、とか思ったよなー」

 身振り手振りで契約を貰った当日、いかに長谷寺様のお嬢さんが楠本さんに擦り寄ろうとしていたのかを説明する青山さん。

 聞いてるうちに、私はどんどん息苦しくなってきた。

「外国で慣れてるからかな〜、やっぱり積極的だよね、あのお嬢さん。楠本さんは何回も、担当は青山ですって言ってたけど、あなたが担当者になってって食い下がってたもんな〜。ま、俺が貰っちゃったんだけどね」

 へへへ、と頭をかいて笑った。

 そしてふと私の表情に気付き、眉を寄せる。

「・・・瀬川さん?大丈夫?」

 実際は大丈夫じゃなかったけど、無理やり笑って、頷いた。

 青山さんはちょっとほっとしたみたいに、私に問いかける。

「瀬川さん、見た?可愛い子だったよね、確かに。いつもは楠本さん、下心のある女性客には絶対携帯の番号とか教えないって言ってたけど、お嬢さんの勢いに負けて教えてしまってたもんね。結構好みだったのかなー」

 青山さんの言葉が次々私の頭を駆け抜けていく。ふらふらしないように、立つのが精一杯だった。

 全身に大波を受けたかのようなショックを覚えていた。

 ・・・・教えたんだ、ケータイ番号・・・。

「ねえ、瀬川さん?」

 はっとする。そうだ、今はまだ青山さんが目の前にいるんだ。ショックは部屋に戻ってからゆっくりと片付けて――――――――――

「お似合いだと思うんだよね、俺的には。どう思った?」

 にこにこと悪意ない笑顔で青山さんが私を見ている。

 頭の中には今日会ったばかりの長谷寺様のお嬢さんの映像。

 人形のように可愛らしい彼女と、整った顔立ちの長身のきゅうり。

「瀬川さん?」

「・・・大変、お似合いですね・・・」

 そうだよね、やっぱそう思うよなー・・・能天気な青山さんの声がすり抜けていく。

 どうやって挨拶して別れたかは覚えてないけど、次に意識がハッキリした時には、いつもの電車の中で一人揺られていた。

 電車だ、と思った。

 無意識に手の平を胸元に持っていく。


 ・・・・・くそう・・・胸が、痛い・・・・。





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