泡沫の夢に溺れて
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「ほんっとう、苗字先輩無事で良かったよなぁ」
名前が病棟へ移動されて2日目。彼女に割り当てられた病室へ続く廊下を歩いているのは、米屋、出水、緑川だ。
「お前、苗字先輩の容態聞いてホッとしてたもんな〜」
「あ、当たり前だろ! 重傷だって聞いてたから……」
からかい口調で投げられた米屋の言葉に出水は少しだけ頬を赤く染める。どうやら図星だったらしい。
「素直な出水に対して、緑川は冷たかったよなー」
「そうそう。忍田さんの前であの態度は流石にダメだと思うぞ」
「良いじゃん別に」
米屋と出水の真ん中を歩く少年、緑谷は2人の言葉にそっぽを向く。その表情はムスッとしている。
「オレより強いくせに負けてんじゃん、あの人」
「素直に『無事で良かった』って言えばいいのに」
緑川は名前に対し態度が冷たい。普段は子犬のように誰に対しても人懐っこい態度を見せる彼が、名前にのみ冷たい態度を取るのは、初めて見る人なら驚くことだ。しかし、その理由を知る人からすれば「だよな」と言った感じだ。
その理由というのが……。
「迅さんと名前さんは昔からの知り合いなんだ。それなりに仲が良くて当然だろ」
「ふんッ」
緑川が大好きでたまらない存在、迅である。
彼は迅に助けられたことで憧れを持つと同時にボーダー入隊を決めた。使うトリガーも一緒、隊服とは別に設定されているトリオン体の格好に迅を真似た衣装を設定したりと、所々で迅の要素を明らかにしている。因みに緑川が迅の事が大好きであることはほぼ周知の事実に近い。
というわけで、緑川は何かと一緒にいることの多い名前が気に入らないのである。彼には迅と名前が仲良くしている様に見えており、その光景が羨ましかった。相手に認知されていても尚、だ。
モヤモヤとした気持ちを晴らすべく、名前に模擬戦を挑んだことがある。だが、一度も勝てなかったそうだ。そんなわけで、緑川は名前に対してずっと敵対心を抱えているのだ。
「せめて忍田さんの前だけでもいい顔しろよ……。明らかに気を使わせたじゃん」
「無理なものは無理」
「それに、名前さんと言えば迅さん嫌いで通ってんじゃん」
緑川が迅のファンであることが多くの者に認知されているように、名前が迅のことが嫌いということも多くの者に認知されていた。その多くの者に出水や米屋も含まれている。
しかし、緑川にはそのように見えなかった。彼にはこう見えていたのである。
「それ本当に言ってる?」
「ちげーの?」
「違うでしょ。どう見てもあの人の目は迅さんのこと好きだよ」
ファン故に迅を見る目が他と違う事を見抜いていたのか、元々視察眼が鋭かったのか、定かではないが、緑川は名前が迅に対しそれ以上の感情を持っていると思っていた。
「はぁ? 前に本人から聞いたけど、すっごい嫌そうな顔してたぜ」
「……いや、でも前会った時、冗談でからかったらさ、苗字先輩ちょっと照れてたぜ」
出水は緑川の言葉をすぐに否定したが、米屋は肯定に近いことを口にした。米屋が言っている場面は、緑川と三雲がランク戦をしていた時である。
「それがなんだよ。照れると好きはイコールじゃないだろ」
「そうだけどさ、でも大体当てはまんじゃん」
「そ、それはそうだけど……」
「いずみん先輩、嫌なんだー? へぇ〜?」
「うっせ!!」
出水の明らかな態度に緑川と米屋は察する。どうやら出水は名前に関する話で、このような話題は自分以外聞きたくないらしい。
「しかし、苗字先輩モテるよなー。なのに自覚なしって言うか自分に対する評価厳しすぎるっていうか」
「それは分かるわ。でもそこがいいんだよ」
「あ、認めた」
「そもそも隠してたつもりねーし」
名前に好意を持って話しかけてくる隊員は少なくない。その中で出水は割とオープンな方だ。因みに本人は気づいていないが、迅と全く同じである。
「名前さん、早く起きないかな。大丈夫だって聞いてても、どうなるかわかんねーし……」
「それは言えてるわ。寝てる先輩、言っちゃ悪いけど、静かすぎて……なぁ?」
運ばれた当初より顔色は良くなっているが、その表情はこのまま起きないのではないかと言うほどに静かに眠っていた。出水に限らず、米屋も不安はあった。口には出さなかったものの、緑川も同じだった。
「そういうのはさ、待つしかないんじゃない?」
「……そうだな。名前さんを信じて待つしかないよな」
「珍しく良い事言うじゃん、駿」
「オレはいつでも良い事いうもーん」
「え? おれ幻聴が聞こえたかも」
「いずみん先輩!?」
いつもの調子に戻ってきた三人。彼らは名前が目を覚ますことを信じ待つことを決めた。いつかまた、普段通りに会えることを願って。
2022/5/5
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