泡沫の夢に溺れて

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とある病室。
その部屋の中心に設置されたベッドには少女、名前が眠っていた。近くに設置されている長椅子には忍田が座っていた。


「忍田本部長。お疲れ様です」

「……風間か。ああ、お疲れ」


病室のドアが音を立てて開く。忍田の名を呼びながら入室してきたのは、小柄な男性……風間だ。


「忙しい中、来てくれてありがとう」

「いいえ。……こちらの病棟に移されたと聞いたので」

「そうか」


名前の手術の結果は……成功。運ばれてきたときは、生きているのが奇跡といえる程の重傷で、失った血が多すぎるため輸血の必要があったがその血を提供してくれた者がいた。それは名前にとって身近な人物である。そのことに彼女が気づくのはいつになるだろうか。

その人物が血を提供したお陰で名前は命を繋ぎ止めることができ、容態が段々と回復したと医師から判断され、集中治療室から病棟へと移動されたのだ。あとは彼女の意識が戻るのを待つのみである。


風間は一度忍田から視線を外し、名前を見つめた。彼の視界に映った名前は、ただ静かに眠っていた。


「……あの、聞きたい事があるのですが、よろしいでしょうか」

「構わない。何だ?」


風間は眠る名前から再び忍田へと視線を移した。その表情はいつも冷静な雰囲気を纏う彼にしては珍しく、焦りのようなものを浮べている様に見える。


「……ご存知だとは思いますが、先日の大規模侵攻で香薫と会いました」


風間は忍田にそう言葉を告げながら、香薫と出会った当初の頃を思い出していた。



***



香薫が生きていた当時、風間は彼と同じ時間を共に過ごすことが多かった人物であった。母親の本性を目の当たりにして、父親を失って……頼る親戚がいなかった香薫は名前に楽させるために自分の身を削っていた。

当時の香薫は誰に対しても強気の態度だった。母親の影響で苦手意識をもってしまった女性は勿論、同性である男性に対しても常に警戒心を持っていた。あらゆる方向に対し壁を張り続けながら人と接していた香薫は、モデル活動による疲労で倒れてしまった。

綺麗な容姿を持つ香薫は、運動も勉強もできる成績のいい生徒だった。そのため女子から非常に高い人気を持っていたが、男子からはそこ高スペックを持つ所や女子からの向けられる目などを理由で嫉妬を向けられる対象だった。

しかし、必要最低限のなれ合いしかしてこなかった香薫は学校で1人だった。普段の態度も相まって彼に近付く存在はいなかった。だから、自分が倒れたからと手を差し伸べる存在がいるはずがないと香薫は思っていたのだ。


『大丈夫か、苗字』


その考えを覆した存在が風間だった。
今まで誰に対しても冷たい態度で接していた。風間もその対象の1人だった。なのになぜ、自分を助けてくれたのか。香薫はそう風間に問いかけた。


『確かにお前の態度は、周りから見れば近寄りがたい存在であるのは確かだ』

『だったらなんで……』

『苗字が何を抱えているのかは知らん。だが、お前のそんな姿を見て悲しむ奴がいるんじゃないのか』

『……!』


名前の存在を大切に想うがあまり、妹の気持ちを考えていなかった。そのことに気づかせてくれた風間に、香薫は誰にも緩める事の無かった警戒心を解いてしまった。今まで誰にも心配の言葉を掛けて貰えなかった香薫にとって、風間が掛けてくれた言葉は心に響いた。

香薫にたいし投げられる言葉は上辺だけのものや、自身の容姿に関するものばかりだった。香薫自身を見て掛けてくれた言葉が初めてだったのだ。


『お前に言われるまで、そんなこと考えた事なかった。俺、彼奴に辛い思いをさせたくなくて……でも、今思い返したら最近ずっと暗い顔したところしか見てない』

『……初めてお前がちゃんとした人間だって思えたよ』

『え……?』

『誰に対しても貼り付けたような態度だったからな、苗字は』


風間は香薫が他人と距離を置いていることは分かっていた。だが、その理由は知らなかった。それが今、本人から断片的に語られた。

彼の言う『彼奴』が誰なのか風間には分からなかったが、香薫にとって大切な存在であることだけは分かった。


『俺にはお前の苦悩を救う事はできない。だが、聞くことはできる。ずっと溜めておくのは辛いだろ』

『……そうかもしれない』

『だったら俺に全部話せ。お前が嫌なら共感も同情もしない。ただその言葉をぶつける相手になってやる』

『どうしてそこまで……』


香薫には風間の行動原理が分からなかった。向こうにとって良い事など一つもないというのに、どうしてここまで自分に関わろうとしてくるのか。不思議であると同時に緩んでいた警戒心が再びわき上がっていた。


『人として当たり前の事をしただけだ』

『ひとと、して』

『それに、誰かの為に頑張っている奴を嫌うのは違うだろ』


香薫がモデル活動をしていることは、彼が生前所属していた学校では周知の事実に近かった。なので風間も香薫がモデル活動をしていることを知っていた。その理由が先程判明したことで、むしろ好感度が上がっていた。


『……じゃあ、今聞いてもらってもいいか?』

『構わない』


風間は知らない。
彼が思っている以上に香薫が信頼を寄せていて、救われていたことを。

自身が語った言葉が、後に香薫の後輩となる少年へと向けられることを。
そして……あの日、風間が香薫に手を差し伸べたことをきっかけに、人との関わり方に変化があったことを。
忍田と出会い、ボーダーへ加入するきっかけを作っていたことを。


だが、これは香薫にも言えることであった。



***



「香薫を見て、どう思った」

「……香薫を知らない人からみれば、雰囲気の違う名前に見えたでしょう。ですが、俺も香薫を長い間見てきて、同じ時間を過ごしています。……顔付きも、態度も、話し方も、すべて俺の知る香薫でした」


香薫自身も自覚がないだけで風間を救っていた。
自分の兄が近界民ネイバーに殺されたと聞いて、兄の仇を討とうと思ったことはないと風間は語っているが、少なからず殺意は抱いていた。その殺意を静めさせたのは香薫だった。


『進さんがそれを望んでいると思うか? 危険を冒してまでもお前に仇を討って欲しいと思っているのか?』


肉親を失う辛さは、過程が違えど香薫には理解出来た。それは仲間を失う辛さに近かったのかもしれない。
それでも、自身を救ってくれた風間を今度は自分が救いたいと思う一心で、自分と同じような苦しい気持ちを抱えて欲しくないという気持ちで香薫は風間へ手を差し伸べたのだ。

その行動は、香薫が気づいていないだけで風間を救っていた。


「……上層部はいつから香薫の存在を認識していましたか」

「私はこのボーダーが創設された頃だ。上層部ともう1人、迅には2年ほど前に認知してもらった」

「……迅も、ですか」


風間は香薫と迅がどのような関係であったのかしらない。ただし、妹である名前との様子を見れば、当然香薫と交流があったのは間違いないだろうと思っていた。
少しだけ悔しいと思ったのは気のせいか、自覚のない本心なのか。今の風間には分からなかった。


「忍田本部長。無理を承知でお願いがあります」


風間の脳裏に流れるは、数日前の大規模侵攻ですれ違い様に聞こえた香薫の言葉。



『次会えたら。空白の時間を埋めよう』



今まで上層部が頑なに明かそうとしなかった名前のブラックトリガーの姿。それが親友であった香薫であったこと。
そのことを知り風間はこの4年半という長い間、もう二度と流れることのない時間が、共有する事のできない時間が再び動き出す感覚がしたのだ。



「___もう一度、香薫と会うことは可能でしょうか」



これは風間隊を率いる隊長の言葉ではなく、香薫の親友としての言葉だった。
その言葉を告げた本人の表情は、いつもの真剣さはなく、ただただ苦しいそうだった。





2022/5/2


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