とある少女が及ぼした反響
side.×
「そうか。……ご苦労だった」
名前の手術が終わり、忍田は少女の眠る病室を訪れていた。
中で諸々の作業を終えた救護班から名前の状態を聞きた忍田は、静かに眠る少女の近くに丸椅子を移動させるとそこに腰を下ろした。
「……よく頑張ったな、名前」
彼、忍田にとって名前とはどのような存在なのか。
忍田にはかつて、相棒と呼べる少年がいた。その少年の名は苗字香薫。苗字の通り、名前の兄だ。
名前と香薫は現在のボーダー基地が創設される前からの付き合いである。忍田にとって香薫は所謂師弟関係なのだが、弟子の才能が開花してしまいいつの間にかボーダー内で誰もが認める強さを手にしてしまったのだ。師匠である忍田は弟子である香薫の強さに誇りをもっていた。
相棒であった香薫と妹である名前とは書類上親の立場である忍田。だが、子供というよりは年の離れた弟と妹のような感覚だった。香薫も名前も、年の離れた兄のように忍田を慕っていた。
「……ありがとう、香薫」
名前の兄、香薫は故人である。
なのに今なぜ忍田は亡き人の名を口にしたのか。それは名前の所持するブラックトリガーが関係していた。
名前のブラックトリガーは香薫が成り果てた姿であった。だが、それだけではとどまらなかった。このブラックトリガーには秘密があった。その秘密とは、名前がブラックトリガーを起動した後のことだ。
ノーマルトリガーでもブラックトリガーでも、起動後はトリオン体へ換装される。そこは名前のブラックトリガーも同じだ。だが、もうひとつ加えられているものがあった。それは、ブラックトリガー起動後、名前は香薫へと変化しているということ。二重人格とは別の概念である。
何故ブラックトリガーを起動すると香薫へと変わってしまうのか。それはブラックトリガーに香薫の魂が封印されていることが影響していた。
前例がないため、市民は勿論ボーダー隊員にも混乱を招く可能性があった。そのため、この秘密を知る上層部は、名前がブラックトリガーを使用している姿を目撃されないようにしてきた。
「よくあの場でブラックトリガーを起動した。……良い判断だ」
忍田はベッドに眠る名前の頭に手を伸ばし、そっと撫でた。その表情は親にも兄にも見えた。
「忍田本部長!」
忍田と名前だけが存在する病室に2人のものではない声が聞こえた。忍田が振り返ると、そこには嵐山隊がいた。
「嵐山隊じゃないか。名前の見舞いか?」
「はい。手術が終わったと聞いたので」
苗字は元嵐山隊である。特別な事情で入隊したが、所属してしばらく経った頃に名前にとある出来事が起こった。その出来事の責任をとる形で名前は嵐山隊を脱隊した。短い間ではあったが、嵐山隊のメンバーとは今でも交流があるほど関係は深い。
「それで、苗字の容態は……」
「まだ意識は戻っていない」
嵐山隊の視線は自然と名前に向く。彼らの視線に映った名前は整った容姿を保ったまま眠っている。見る人によっては眠っているのではなく、そのまま息を引き取っているのではないかと認識するほど、静かに目を閉じている。
「忍田本部長。一体苗字先輩に何があったんですか」
眠る名前から忍田へと視線を移した木虎が問いを投げた。
忍田は隠す事でもないだろうと判断し、ブラックトリガーに関する内容を省いて嵐山隊に説明をした。
太刀川と別れた後、大量のトリオン兵と接触し、ブラックトリガーを起動したこと。
ブラックトリガーから生身へと戻った直後に捕獲目的で近界民に襲われたこと。
その近界民と交戦後、また別の近界民と交戦したこと。
向こうが捕獲することを諦めてくれたことで難を逃れることができ、敵から身を潜めていたということ。
そして……身を潜めていた名前を迅が発見し、本部まで連れて帰って来たこと。
上記の内容を忍田は嵐山へと話した。その話を聞いていた嵐山は、忍田へ疑問の声をあげた。
「この事について一つ、疑問があるのですが……迅にはこの未来がみえていなかったのでしょうか」
嵐山が問いかけた言葉に忍田は考え込む。
忍田から見て、迅が名前を気遣っているのは良く分かっていた。そして、普通以上の感情を抱いているであろうということも。
そんな存在であれば、きっと迅は事前に忠告するはずだ。なのになぜ、名前はこのような姿で帰ってきている?
……そんなこと、考えるまでもなかった。
「どうだろう。本人に聞かなければ分からないな」
忍田は嵐山の問いに対し、そう答えると病室を後にする。その後ろ姿を嵐山は見えなくなるまで見つめていた。
「……きっと迅には見えていなかったんだ。この未来が」
誰もいない廊下でポツリと零れた声。
忍田が口にした言葉は彼にとって予想でしかなかった。しかし、限りなく事実に近かった。そして、なぜ迅に名前の未来が見えていなかったと浮かんだのか。その理由も彼には想像ついていた。
迅が名前の未来を見えなかった理由。
それはブラックトリガー……香薫が影響しているのではないかと。
忍田の予想は、少し先の未来で判明することになる。
2022/5/1
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