novel2 | ナノ
 


その日、ンドゥールの耳に届いたそれは、穏やかな音楽だった。

小川のせせらぎや波の音など、自然界が発する“ゆらぎ”
に近い周波数。
屋敷に足を踏み入れて少し経ってから響き始めたその音色に、ンドゥールの足が思わず止まる。

まるでそよ風のように肌を撫でていくそれはとても耳に心地良く、耳障りという言葉の真逆。
生体リズムと共鳴し、自律神経を整え、精神を安定させるそれは、所謂1/fゆらぎと言われているものだった。
ンドゥールはその時その呼び名を知らなかったが、音の種類に詳しかった為、それがどういう音なのかを理解していた。

人間の心を安心させ、気分をリラックスさせる癒しの音楽。
ヒーリング・ミュージックに良く似たそれは、様々な音を聴いて生きてきたンドゥールも初めて耳にする程に壮麗だった。
どこからか弦楽器や、金管や木管楽器のような音まで聞こえてくる気がする。


「…ッ?」


目の前に、暗闇以外の何かがある。
今までこんな事は一度もなかった。一体自分は何を“観て”いるのだろうか。
もしや、これが“色”かと、ンドゥールは思い当たって、唖然としてしまった。
目が見えない筈の自分に、色彩というものを想起させていたのだから。


「この音は、いったい…楽師でも招いているのか…?」

「音…?わしには何も聴こえんが…ああ、お主、耳が良いんじゃったな。
どう聞こえてるのか知らんが、我らと同じ超能力者の能力じゃ。害は無い」

「能力…」


超能力者による能力とは、それ程のものなのかとンドゥールは内心驚いていた。
確かにあの音色からは弦を弾いたり鍵盤を叩く音はしない。
音色のようなものが聴こえているだけで、音ではなく超音波に近い“音波”なのかもしれない。

ンドゥールの聴力は4km以上先の音も拾う事が出来る程に優れている。
50m以内ならば、杖を耳に当てなくても生活音の殆どが聞こえる。
建物内ならば音の反響で内部の構造すら把握出来るので、誰がどの部屋にいるのか少し集中すれば分かるし、離れた個室での会話すら正確に聴くことも容易だった。

ンドゥールは反響する音波の中で更に耳を澄ませ、能力の中心人物を探った。
その音源の人物が、鼻歌混じりに小さく歌っている。
声からしておそらくまだまだ幼い少女だ。
そしてその子供の側に更に小さな、人間の赤子だろう生命の寝息が聴こえた。

ンドゥールはそこで詮索を辞めた。
自分が忠誠を誓った主人の館にそのような幼い人間達がいる事に疑問を感じはしたが、深入りは良くないと思った。
それに、これ以上聴けば調子が狂わされてしまう。
見えない筈の色は、ンドゥールには眩し過ぎた。
くらくらと目眩がするほどに、あまりにも、優し過ぎた。














「──初めまして、DIO様からお聞きしています。貴方がンドゥールさん、ですよね?」

「ああ…そういう君は…アキノ、かな」

「はい、秋希乃・汐華と申します。これからよろしくお願いしますね」


ンドゥールは主の部屋で挨拶をし、正式に主人DIOの部下となった。
宛てがわれた自分専用の部屋で寛いでいると、挨拶前に聴いた声の持ち主が訪れた。
主人から案内人が来ると予め名前を聞いてはいたが、まさかあの音源の少女だったとは。
部屋に少女が訪れるまでの足音からおよその身長や体重は把握していたが、実際に対面してみるとかなり小さく感じた。
自分の目線どころか腰元辺りから声が聞こえるので、その小柄さがよく分かった。


「屋敷内を案内するよう言われたので、ご案内しますね」

「ああ…」


ンドゥールは少女の存在を不思議に思った。
自分と同じように超能力者であるという事は早々に理解していたが、顔を合わせた他の屋敷の住人とは違い、少女からは死臭がしない。
陽だまりに咲く花や、甘いミルクのような香りがする。
それは少女が赤子を世話しているからだろうと思い至った。
加えて、少女が発する独特な“音”からも、“こちら側”の人間の気配を感じなかった。


「…質問してもいいか?」

「はい、なんでも聞いてください。このお屋敷は広いですからね」

「そうではなく、キミの事だ」

「わたしの、ですか?」


屋敷内を案内されながら会話をしていくと、少女の事が少しずつ分かってきた。
少女の姉が主人の子を孕む母胎として選ばれ、息子が産まれている。
つまり少女は主人DIOの令息の叔母という立場だった。

4月に産まれたというその赤子は生後8ヶ月程で、まだ1歳に満たない月齢らしい。
楽しげにそれらを話す少女の様子に、あの時はその赤子の為に歌を“奏でて”いたのだろうと、ンドゥールは理解した。
そして同時に、その少女の優しさや愛情に、胸焼けのようなものを感じた。

少女の超能力の使い方はあまりにも甘い。生ぬるい、とも言える。
今まで真っ暗闇の中を独りで生きてきた自分の人生には居なかった、出会った事のないタイプの人種だ。
“色彩”をも感じさせる事の出来る珍しい超能力仲間ではあるが、相容れない。
少女が奏でた旋律に感銘を受けておきながらも、ンドゥールはそう思った。

少女はきっと、光の中で生きられる人間だ。
明るく、物腰は柔らかく、丁寧で、目の見えない自分に親切に接してくる──それは善人のする事だった。
幼い頃から犯罪を平気で犯し、時には人を殺してでも生きてきた悪人である自分とは真逆の人間だ。
主人DIOと出会い、今までの人生が報われ、救われたようなンドゥールにとって、少女は存在自体が眩し過ぎた。
疎ましいとまでは思わなかったが、仲間と思うにはあまりにも自分とは違い過ぎたのだ。


──そんな認識が変わったのは、それからすぐの事だった。




















「──ぐ…ッ?!」


突如、脳味噌を引っ掻き回されたような強い刺激を感じた。
屋敷の外から帰宅し、玄関へと向かっていたンドゥールは地面に蹲った。その衝撃で杖がどこかへ転がってしまう。
見えていない筈の目が回る。三半規管がイカれていた。
前後左右が分からなくなる程、そして吐き気を催す程の不快感がする。
まるで針金を耳に突っ込まれたようなそれから逃れようと、耳を塞いだ。
どくどくと高鳴る自分の鼓動に集中して気を逸らす。


「ッ…は、…一体…?」


異常事態に少し慣れ、ようやく周囲を警戒すると、誰かの話し声が聞こえてきた。
これらの異変を感じる前にその場に居たのは、確か少女だった筈。
そう思い当たったンドゥールは、冷や汗をかき、吐き気を堪えながらも、音源の方へと向かった。


「貴方の主人は?誰かに雇われたのですか?」

「ーー…ッ!…、…」

「ああ、なるほど」


聞こえてきたのは、冷たい声だった。
曲がり角の向こう側からしたその声が、ンドゥールは最初誰のものか分からなかった。
しかし、成長途中の幼いソプラノの声の持ち主は、この敷地内に一人しか居ない。
アキノだ。そして少女のすぐ近くに、げぼりと吐瀉物を吐き出す男の存在が在る。


「それは、かわいそうに。恨むお気持ちは分かります」


呼吸もままならない男は息も絶え絶えに言葉を吐き、命乞いをしている。
そんな男に対して、少女は氷のような声色で喋りかけた。


「──だからって、許しませんけど。」

「ッ!」


ぐわん、と、脳味噌が揺れる。
壁伝いに歩いていたンドゥールだったが、立っていられない程の“衝撃波”のようなものが鼓膜を襲い、完全に前後不覚になって膝から崩れ落ちた。


「!」


はっという呼吸音がした。少女がこちらに気がつく。


──音が止まる。


その一瞬の隙に、男が走り出した。
何事かを叫びながら、そこら中にぶつかりつつ、屋敷の外へと出て行く音がする。
少女が男の後を追って走り出す。
しかしすぐに、塀の外から人体と金属の塊とがぶつかって、ベシャリと弾けるような音がした。
おそらく車に轢かれたのだろうと、ンドゥールは察した。


「大丈夫ですかっ?」


男を追いかけようと門の方へ向かっていたアキノが方向を変えてこちらに駆け寄ってきた。
うつ伏せに倒れている自分を仰向けにしようとする。
吐く一歩手前だったンドゥールはそれを静止し、下を向いたままガンガンと痛む頭を押さえていた。


「ごめんなさい…耳の良いンドゥールさんがお帰りになっていたことを気づかずにわたし…」

「いや、キミの力を知りながら、近づいた私が悪かった…」

「本当にごめんなさい…」

「謝るな…それよりあの男を…アイツは、キミの姉を害そうとしたのだろう…?」

「…ええ、はい…取り逃しかけましたけど多分車に轢かれたので…。
生死を確認したら戻ってきますので、安静にしていてくださいね」


敷地内を出た少女の足音が小さくなっていく。
ンドゥールはその間、軽く吐いていた。まともに立てないまま地面を這いずってなんとか吐瀉物から離れる。
木陰に移動し、木にもたれて身体を休めた。

先程までのアキノの放つ音波は、普段のそれ以違い過ぎた。
まるで別人だった。少女から出る音全てが耳を劈くような苛烈なものだった。
普段の音がそよ風ならば、先程のは雷鳴のようだ。
耳の良い自分があれを至近距離の正面から食らえば、鼓膜など簡単に破れるどころか脳を破壊されていた。
それ程の威力だった。

ンドゥールは冷や汗を拭った。
深く息を吸って吐いてを繰り返し、呼吸を整えていると、トタトタと軽い体重の人間が地を蹴る音がした。
アキノだ。男が死んでいる事を確かめてきたらしい。


「お水を取ってくるので、待っていてくださいね!」

「いや、私は…」


引き留めようとしたが、アキノは立ち止まる事なくそのまま自分の横を通り過ぎて、屋敷の中へと駆けて行った。





 





「──もうご気分は悪くありませんか?」

「ああ…」


その後、すぐに戻ってきた少女から水を貰い、ンドゥールは逆流した胃液で荒れた喉を潤した。


「…本当に申し訳ありません…今後は近くにンドゥールさんが居るのを想定して能力を使いますね…」

「いや、キミが力を使っていると知りながら近付いた私が悪い…いざと言う時は私の事など気にするな…」


ンドゥールはアキノに介抱されていた。
杖代わりになると言って肩を貸し、屋敷の客間まで付き添いをしてくれた。
少女のそんな甲斐甲斐しさは、いつも遠くから把握していた親子の世話を焼く時の様子と同じだった。

自分が尽くされる側となると、少し落ち着かなかった。
あれこれと気を使い動き回るアキノを制し、座るように言うと、少女はようやく動きを止めた。


「キミの能力が攻撃に使われるとあれ程とは…。私と相性が悪いのは確かだな…」

「う…ですよね…すみません…」

「もう謝らないでくれ。
…そうだ、私と同じく耳が良いDIO様が側に居る時はどうしているんだ?」

「それは…そうですね…えっと、DIO様のお側でわたしが誰かを攻撃した事は無いです…
わたしが行動する前にDIO様が相手を殺されていますし…」

「なるほど…確かに」

「今回のような事は最近増えてきたんです…ンドゥールさんやDIO様に不快な思いをさせない為にも対策をしないと、ですね」


主人DIOの令息、ハルノ・シオバナやその母親を狙う輩は時々現れる。献上した娘を殺されたと恨む親や、その関係者のようだった。
その事を喋っている最中のアキノからは、異様な雰囲気を感じた。
先程男を拷問している時と同じ、“こちら側”の住人の匂いと“音”。

普段の暖かさとは真逆の、色の無い冷淡な声で話す様子。
少女が宝物のように大切にしている存在に危害が加えかけられたのだから、当然と言えるのかもしれない。
伝わってくるぴりぴりとした音の波動を間近で感じながら、ンドゥールはアキノ・シオバナという人間がどういう人間なのか、少し理解した。


「…屋敷の警護は私も任されている。ハルノ様の事は勿論だが…その母君の周りも、少し注意しておこう」

「!…姉さんの、周りも」

「ああ」


アキノは少し驚いたようだった。
この屋敷内で、主人の子息とその母親の両方、その二人共を全力で守ろうとしている者は、アキノだけだ。

子息の方は仕える主人の息子という事で皆が積極的に世話を焼き、警護している。
母親の方も一人目を孕んだ女として目をかけられているし、産後も主人DIOの寝室に招かれている様子の彼女が二人目を孕むかも知れない為、丁重には扱われている。
が、しかし、主人の子を宿しているわけでは無い現状で、配下達が彼女を全力で死力をかけて守るかと言われれば、そうではない。
他の母体候補と同じく殺される事は無いが、糧となる女との区別が付きにくいのかスルーされてしまう事もあるようだ。


「屋敷内で不審な事が起これば、私が察知するのが一番早いからな…今日のように外出中は流石に難しいが」

「それはそう、ですが」

「二人にもしもの事があれば、DIO様もそのお心を乱されるだろう。」

「…ご負担で無ければ、ありがたいことです」


アキノの鼓動音が少し早まっている。
いつもの“音”とは少しだけ違う“節奏”を感じた。


「あの…改めてですが、よろしくお願いしますね、ンドゥールさん」

「ああ…よろしく、アキノ」


少女の感情が揺れ動いたのを、耳で感じた。
その顔が見れなくて残念だと思うくらいには、ンドゥールは少女に興味を持ち出していた。
















「最近、アキノと仲が宜しいんですか?」

「…まあ、悪くは無いと思うが」


屋敷の住人達と当たり障りの無いコミュニケーションを取っているアキノの周りには、いつも誰かしらが集まっている。
作業中の少女と共によく居るのはテレンス・T・ダービーという男だった。
その彼にそう話しかけられて、ンドゥールは首を傾げた。

あれからアキノと距離感が縮まったのは確かだった。
しかし何故それを屋敷の執事である彼に指摘されているのかがよく分からない。
まだお互いの事をよく知らないのだから当然ではあったが、それにしても、テレンスから敵意のようなものを感じる。


「アキノの業務に介護は含まれていません」

「は?」


ふんと鼻を鳴らした彼は、そのままその場を立ち去っていった。
失礼な事を言われたのは分かったが、ンドゥールはその内容に少し面食らっていた。

屋敷に留まっている間、アキノは部屋の片付けやベッドメイキングや食事の準備などをしてくれていた。
他にも色々と細かな世話を焼く少女に最初は遠慮していたが、それらが少女の業務内容に含まれているならば仕事を奪うのは良くない事だと思って、断りはしなかった。
が、もしかしてあれらはアキノが自発的に行なっているだけのボランティアだったのだろうか。

だとすれば、少し心外である。
介護のような事をしてもらうのも、させていると思われるのも遺憾だった。






「──ボランティア…?
いえ、この間のお詫びと、二人を守って頂いているお礼です」

「ああ、そういう事か…キミらしいな」

「ンドゥールさんは特に欲しい物が無いとの事だったので…身の回りのお世話でお返しのつもりだったのですが…」

「正直なところ助かってはいるが…キミのそれはいささか過剰だな…いや、ハルノ様達には普段からそれ以上だったか。本当に世話好きだな…」

「わたしに出来る事はそれくらいしかないので…ご迷惑でしたか?」

「いや、そうではないが…やはり、キミは考え方が真面目だな。」


アキノの行動原理と実行力とその躊躇の無さはンドゥールも納得できるものだったが、やはり善性が強いと思った。
ただ、少女のそれが家族に関してのみ適応される事をもう理解していたので、それ以上は言わなかった。

だがもし、自分が対価に無茶なものを要求したらどうするのだろうと、ふと思った。


「…仮にだが、私が金や女を要求していたらキミはどうするつもりだった?」

「勿論お支払いします。
女の人も、ご希望を聞いてから街で吟味してお部屋に連れてきますね」


さらっと言われた言葉に嘘は無かった。
連れてくる=攫ってくる、という意味合いで使われている事は明確だった。
アキノは本当に二人に関する人間以外に容赦が無い。そこが奇妙であり愉快なところではあったが。


「どんな女性がお好みですか?」

「フフ…冗談だ」

「…やっぱり、ンドゥールさんには特に欲しいものが無いのですね。
DIO様からお聞きしていますが、お仕事の報酬も受け取られていないのですよね?」

「ああ、私はDIO様のもとに居る事が出来れば、それだけで充分幸福だからな」

「そうなのですね…」


主人DIOの配下は、肉の芽の入れられた者達を含めるとかなりの数になる。しかし、その内超能力者であるのは自分を含めて今現在10名以下だ。
エンヤ親子、ダービー兄弟、シオバナの妹のアキノ、そして自分より少し前に配下となっていたグレーフライとデーボ。
主人の為にその能力を使うと誓った能力者達には、組織からの報酬として給金が渡されている。
しかし、ンドゥールはそれを辞退していた。
初めて自分の価値を認めてくれた救世主相手から、金銭を貰うのは憚られたからだ。
見返りは金ではなく、主人に見捨てられないこと──嫌われないこと。ただ、それだけだった。


「話は戻るが…私の仕事内容にキミの願いが被っているだけだから、礼は要らない」

「でも…」

「それに、キミが能力を乱発する事態になるのは遠慮したい…また吐きたくは無いからな」

「それは…確かに」

「だから私に過度な世話は必要無い。キミはキミの仕事を優先しろ。」

「…分かりました」


アキノはようやく納得したようだった。


「あ、ですがあの、またお部屋にお邪魔しに来てもよろしいですか?」

「構わないが…何をしに?」

「新しく仲間になった方々の顔を初流乃に覚えて貰うために最近屋敷内を散策しているのです。ンドゥールさんのお顔も覚えて欲しくて…」

「ハルノ様か」

「はい。人見知り気味でわたし達やテレンスさん以外だと泣いちゃうんですけど…少しずつ人慣れさせたくて。」

「なるほど、そういう事なら構わない」


アキノによると、今まで主人DIOの御令息は屋敷どころか室内からもあまり出されていなかったらしい。
主人は吸血鬼の為陽の光に弱い。その子供である彼も同じ体質かもしれないという事から、慎重に経過を観察されてきたという。
最初は太陽に平気でも、日数が経って変化がある可能性もある。
陽の高い内に外に出て消滅してしまう事が無いと確信できるまでは要観察だったらしい。
今はその状況は緩和され屋敷内や敷地内の散策なら許されているようだが、基本的には子供部屋で眠っている事が多いようだ。
そんな状態の為、毎日顔を合わせていない者や最近仲間になった者が子息に顔を覚えて貰える訳もない。
ンドゥールが前に顔を合わせた時彼は就寝中だった為泣かれはしなかったが、その後は積極的に関わってはいなかった。
耳で存在を感知し護衛はしていたが、子息からすれば初対面のままだ。


「護衛してくださっている皆さんの顔と不審者の区別がつくようにはしておきたいんです」

「確かにそうだな。出会う回数を重ねればハルノ様も覚えてくださるか…」

「はい。でも慣れるまでは多分泣くと思うので、そうなったら素早く離れますね。
赤ん坊の泣き声は大きいですし…」

「………まあ、今もこの位置から聞こえるくらいだからな」

「…えっ!初流くん泣いてます?」


ンドゥールがそう言うと、それまで落ち着いた鼓動を繰り返していたアキノの心臓が跳ね上がった。
慌てた様子で立ち上がり、部屋の出口へと向かっていいく。


「わたし、戻りますね!失礼します、また来ます!」


そう言って部屋を飛び出していく少女の足音は危なっかしく、乱れたリズムをしていた。


「………、転んだな…」


案の定途中で転倒した少女の痛そうな声が耳に届き、ンドゥールは小さく笑ってしまった。

アキノからは常に音が聴こえる。
まるで効果音のようだが、決して不快では無いそれを、ンドゥールはつい耳で追ってしまう。

サウンドエフェクトのようなファンタジーなものではなく、やはり初めて耳にした時の楽器のような音だった。
少女の超能力のビジョンは鈴のような形をしていると聞いた為かもしれないが、まるで踊り子達が足首にグングルを付けて舞っている時のように、しゃらり、というような音がする──気がする。
飛んで、跳ねて、舞って。
少女が一歩踏み出す度に起こる音の波紋は、それに似ていた。

きっと、自分と主人DIOだけにしか聴こえないそのアキノの音を、ンドゥールは気に入っていた。








「──え…?本当ですか?そんな…あの…ごめんなさい、うるさかったですか?」

「…いや、煩くはない」


ある日、アキノから鳴る音の調子がいつもより良かったので、ンドゥールはついにその音について尋ねた。
すると、酷く驚かれて謝罪をされてしまった。
その反応的にどうやら音は少女が意識的に出していたものではなく、無意識的に出てしまっていたものだったらしいと分かった。
超能力者が能力を自覚するまでにはよくある現象だ。かくいうンドゥールも、昔は手当たり次第に“水”を浴びせていた事がある。

無意識的な行動や行為というものは、その身を生かす為に起こる現象だ。
人間が無意識下で行える最たる行為が呼吸だろう。
空気中から酸素を取り入れて二酸化炭素を吐き出すという、生命を維持する為の生体の機能。
呼吸の仕組みを完璧に理解していなくても、その複雑な機能や動作を意識の無い睡眠時でも続ける事が可能だ。

能力者の無意識下での力の発動もそうだと、ンドゥールは考えていた。
アキノのそれもきっと、呼吸をする事と同じように当たり前になっていたのだろう。


「どうして…えっと…もしかして今も聴こえているのでしょうか?」

「ああ、」

「そんな…気が付かずに申し訳ありません!」


アキノの超能力者としての実力は高く、コントロール不足で起こっている事だとは思えなかった。
しかし、ンドゥールが指摘してしまった事で、その現象を自身の未熟さ故だと思ってしまったらしい。
少女の鼓動が更に早まった。音の止め方がわからず焦っているようで、動きに落ち着きがない。
ンドゥールの耳には聴こえているが、能力者本人であるアキノには聞こえていないのだから、混乱するのも当然ではあった。


「あの、わたし、部屋に戻りますね…っ
きっちりと能力をコントロール出来るまでンドゥールさんにもDIO様にも近付きませんので!」

「いや、違、」

「失礼しま…わ!」

「落ち着け」


ンドゥールは遠ざかろうとするアキノの腕を“水”で捕まえた。


「そ、そんなにお怒りに…」

「違うと言っているだろう…」

「でも…ゲブ神まで出されて…」

「これはキミを引き留めるために仕方なく…」

「そ、そうですか…」

「……」

「…?」


少女を引き留めたまま、ンドゥールは口籠もってしまった。
自分の考え、思っていることを伝えるだけだというのに、口が重い。
相手を面と向かって褒めたことなど今まで一度も無いからかもしれない。
主人DIOにすら、褒め称える言葉を内に秘めたまま伝えていないのだから。


「あの…ご気分が悪いのでしょうか?ひょっとしてまた私の音のせいでは…」

「いや、違う」

「そうですか…」

「……」

「……」


アキノは混乱しつつも、静かにこちらの言葉を待ってくれているようだった。


「………私が言いたかったのは…キミの音が、嫌いではないという事だ」

「…耳障りとかでは…なく?」

「耳障りはむしろ良い。耳に心地良い」

「そう…なんですか?」

「ああ…もっと聴いていたいとすら思う…それくらいに、好きな音色だ」

「…ンドゥールさんには、どんなふうに聴こえているのですか?」


ンドゥールは、自分が今まで聴こえていた音を伝えた。
耳にも脳にも身体にも何の影響もあるわけでは無く、ただずっと聴いていたくなる音だという事を、言葉を選びながら伝えた。
次第に、アキノの鼓動は落ち着きを取り戻していった。だがそれでも、いつもよりは早いままだ。
脈拍からもそれを感じ──その時ようやく手を握っていたままだと気がついたンドゥールは、慌てて能力を引っ込めた。


「すまない、大丈夫か」

「はい、痛くなかったので」


空気を伝って届く少女の鼓動はとくとくと早いままだった。
その後、お互いに一言二言会話し、その日はそのまま解散となった。
ンドゥールは伝えるだけの事を伝えられた、と思っていた。




──しかし、やはりというか、生真面目な少女は、それ以降無意識の音が出ないように気をつけ始めた。
いつも足音と共に聴こえていたそれが、聴こえなくなってしまった。
無理に抑えつけなくても良いものをと思いつつ日々を過ごしていると、あの日以来久方ぶりにアキノが部屋にやってきた。


「実は、ンドゥールさんに言われてから自分でも無意識下の能力が気になって、それを意識しているうちにコントロールのコツを掴めたのです。
能力の微細な調整が以前よりも出来るようになりました」

「…そうか」

「力の使い方というか、応用の仕方で閃いた事もあって…それが形になってきたので、聴いて頂いても良いですか?」

「よく分からないが、やってみてくれ」

「では…」


そう言って能力を使い出したアキノに、ンドゥールは驚いた。


「!これは…空中に?音が固まって…??」

「流石ンドゥールさん、分かります?」


ンドゥールは音の跳ね返りや振動で物体の形を認識する事が出来る。
砂を巻き上げて、砂粒がぶつかる反射音で空中を飛ぶ鳥や気球やヘリなどの位置を把握したり、雨音の反射音でもそれらの形を正確に把握できる。
だから近距離の、それも自分の目の前に“物”ではなく“音”の塊のようなモノがある事にも簡単に察知出来た。


「…アルファベットのG?」

「そうです!ンドゥールさんの聴力はやっぱりすごいですね」


それは音波の具現化だった。勿論普通の人間には分からない代物だが、ンドゥールならそれを形として認識出来る。
超能力を具現化する事が出来る自分達能力者の中で、アキノの超能力は物理的には弱いがとても多様性に優れている。
ンドゥールはそれを改めて実感していた。


「G、E、B…ゲブ?」

「はい、ンドゥールさんの超能力のお名前です」


空中に浮かび上がっている文字の場所に手を伸ばすと、そこには何もなく、ンドゥールの手は空を掴んだだけだった。
ンドゥールの眼(耳)には確かに観えているのに、存在しない。
まるで点字のように、否、いくつもの音の点が重なって音の線になっているかのような。
そんな、実物が無いのに輪郭が観えるというのは初めての事だった。


「すごいな、キミの能力は…。だが、これは私とDIO様にしか分からない、よな?」

「そうなんです。でも、お二人に助けて欲しい時にはHELPって秘密の合図が出来ます」

「そんな切羽詰まった状況に陥っていたなら叫んだ方が早いだろう…」

「あ、確かに…でも良いんです。
こうして空中に音を集中させる事で、微細な音波の操作も出来るようになってきました。色々と新しい能力も考え中なんです」

「そうか…」

「あと、こんな感じで」

「?…これは…人の顔?」

「DIO様です」

「!ほう」


それはンドゥールが耳で観ていた主人の顔だった。それも、いつも自分が感知しているものよりも正確なものだった。
音の反響で主人の姿を認識する事は容易い。しかし、細かな顔や身体の凹凸までもを調べるとなると、一定のリズムと間隔で鳴る音が必要となる。
会話によって発生する音の波紋は均一ではない為、石壁に硬いものを等間隔で当てたり、舌を鳴らすか手を鳴らす事で音の波紋を作る必要がある。
しかし、主人の前で何度も音を鳴らせば不愉快にさせてしまうし、小麦粉や砂をぶっかけてその反射音を聴く訳にはいかない。不敬過ぎる。
直談判すれば良い話だったのだが、主人とそこまでの関係性はまだ築けていなかった。
だからンドゥールは主人DIOの顔を正しくは知らなかった。けれども、それが今目の前に在る。


「そうか…DIO様はこんなお顔をされているのか…素晴らしいな…美しい造形だ…」

「ギリシャの彫刻のようにくっきりとした目鼻立ちをされていますよね」

「ああ…」


腕を伸ばしてもやはり指先が何かに触れる事はなかったが、ンドゥールは主人の輪郭に掌を沿わせるように手を伸ばし続けていた。
その間、アキノが肌の色や眼の色、眉の形や髪の毛の質感などを詳しく教えてくれていた。
すると、そもそも色など分からない筈のンドゥールに、“色”が観えた。
やはり、初めて少女の音を聴いた時に感じたものは勘違いでは無かった。
アキノの能力には共感覚、つまり、音を聴いて色を感じる知覚、“色聴”を目覚めさせるような効果がある。
それは少女が強く色を意識している時にのみ限るようだ。
あの時ンドゥールが“観た”のは咲き乱れた花々だった。後に尋ねたその歌の名はチューリップ。
ンドゥールはあの時生まれて初めて赤、白、黄色といった色を認識出来たのだ。

そして今、敬愛する主人の姿形を知ることが出来たンドゥールは、感嘆のあまりほうと息を吐いていた。


「…ありがとう、アキノ…」

「喜んで頂けたなら良かったです」

「本当に感謝する…が、何故ここまで私に…?」

「ンドゥールさんにはいつもお世話になってますから」

「ああ…なるほど」


少女にとって、これもまたお返しの一つなのだろう。
能力の向上に自分の助言が役立った事や、子息の人見知りの改善を手伝っている事への対価のようだった。
分かりやすくて、それがまたおかしくて、ンドゥールは小さく笑った。


「アキノ」

「はい?」

「キミの顔もよく知りたい」

「わたしの顔ですか?えっと…ちょっと待ってくださいね…DIO様のお顔は練習したのですけど自分のは…」

「こんなに近くにいるんだ。直接触って知りたい」

「え?……い、良いです…けど…」


やはりというか、アキノは断らなかった。
日本人は押しに弱い。加えて、少女は自分やテレンスには甘い。
アキノは家族を守る為に全力だ。だから、それを手助けしている者とそうではない者との対応に差がある。
好意的に思う相手の基準がそうなっている為仕方がないのだろうが、少女のその甘さには危なっかしさを感じてしまう。
しかし、ンドゥールはあえてその甘さにつけ込む事にした。


「小さい顔だな…片手に収まってしまいそうだ」

「あの…ンドゥールさん…ちょっとくすぐったいのですが…」

「すまない」

「…あの、目、目ですそこは…」

「瞑っていてくれ。形がよく分からない」

「ええ…?」


ンドゥールは掌全体を使ってアキノの顔の輪郭をなぞった。
人間の肌に触れるのは按摩の仕事をしていた時以来の為、久しぶりだった。
殺しの際や女と情を交わした時に触れた事はあるが、片手で数える事が出来る回数のみだ。

にも拘らず思い切りが良過ぎたというか、強引過ぎたというか、突拍子も無い事をしているという自覚はあった。
だがそれでもンドゥールはアキノに触れたいと思った。少女の事をもっとよく知りたいと思ったのだ。
そしてその申し出を断らなかったのはアキノだ。許可を得ているのだから良いだろうと、ンドゥールは開き直る事にした。
少女のまろい頬を撫でつつ、小鼻や耳にまで手を這わせる。


「っ?ん、んどぅ、さ…っ」

「すまない」


唇を指の腹でなぞると、少女は戸惑ったような声を出した。
その感覚と反応に高揚感を感じつつ、ンドゥールは少女の形を覚えていった。
しかし、流石に不満そうな音が聴こえてきたので手を離し、子供をあやす様に頭を撫でてみると、アキノは大人しくなった。
その胸の鼓動は決して不快感を表してはおらず、とくりとくりと緩やかなリズムを奏でていた。
ンドゥールは穏やかな気持ちで、暫く少女の頭を撫でていた。















「──マーキング?」

「はい、DIO様にはまだ内緒なんですけどね」

「そんな事を私に話すんじゃあない…」


年が明けて少し経った頃、アキノから話された内容にンドゥールはため息を吐いていた。


「ンドゥールさんにだからお話しているのです。多分、音でばれちゃうので」

「それならばDIO様にもバレると思うが…」

「…ンドゥールさんの方がお耳が良いので…DIO様にはぎりぎり聴こえないかなーと」


それは事実だった。聴力に関して言えば、ンドゥールの方が主人よりも優れている。


「……まあ、私の方が多少耳は良い、と思うが…。それで、いったい何だ?」

「以前から姉達には目眩しのマーキングをしていたのですが、不審者の接近を許してしまったりでかなり不安定で…。
けれど、最近はより正確な効果を得られるようになったのです。実証もできました」

「ああ…ハルノ様達の身体の一部分に変わった音がすると思っていたが…あれか」

「やっぱりお気付きでしたか」


流石です。と言うアキノからは、喜んでいる時のリズムがした。


「もう少し確かなものになったらDIO様にもお話しするので、暫くはわたしとンドゥールさんの秘密にしてもらっても良いですか?」

「構わないが…なぜわざわざ私に話したんだ?私からDIO様に告げ口をされるとは思わないのか?」

「それは全然構わないのですが、説明をしたかったんです。
今までフォローして頂いていた姉達の警護を緩めてもらって大丈夫だと伝えたくて」

「…ああ、なるほど。」

「ンドゥールさんにも少し気を休めて頂きたくて…元々予定されていた滞在期間はもう過ぎていらっしゃるでしょう?
最近不審な輩が減ってまた落ち着いてきたので、そろそろ大丈夫かなと」

「私はDIO様の為に仕事をしていただけだが…まあ、お役御免という事かな」

「言い方はあまり良くないですが、そういう事です。
なのでンドゥールさんも、一度お家に帰られてはどうかなと…」

「私“も”?」

「はい、実はわたし、日本に一時帰国しなくてはいけなくて…」


アキノは初等教育を受けている最中、つまり、小学生だというごとだった。
数ヶ月前に12歳になったばかりだという。
身体が小さいだけでもう少し年齢が上だと思っていたンドゥールは少し驚いた。


「義務教育なので通わないと逆に面倒な事になるんです…」

「そうか…いつ戻ってくるんだ?」

「3月にはまた戻ります。お土産買ってきますね。何かご希望とかはありませんか?」

「無い…と、言いたいが…そうだな…キミが以前に言っていた菓子が良い」


アキノが日本の菓子について伝えてきた際、よっぽど好物だったのか、再び共感覚が刺激されてしまったンドゥールはそれの見た目だけでなく味まで知ってしまっていた。
口に入っていないのに味だけ感じるという不思議な体験をしていたので、実際に食べてみたいと思っていたのだ。


「それってずんだの事でしょうか?うーん…生菓子なので難しいです…けれど、似たような味で保存の効くお菓子を持ってきますね」

「まあ…キミの選んだものなら何でも良いが」

「たくさん買ってきますね!」

「…キミが帰国してからも暫くハルノ様達の様子は見ておくよ」

「…ふふ、ありがとうございます、ンドゥールさん」






そうして、アキノは日本に帰っていった。

その後、ンドゥールは屋敷に残って少女の姉達の警護を続けていた。
しかし、アキノの言っていた通り二人に不審人物が接近する事はなくなった。代わりに屋敷外で不審死が増えたので、そういう事だろう。

そんな状態が一月半程経過し、一時帰宅をしようかと考えていたところ主人DIOも屋敷を開ける事が分かった。
国外へ行くと聞き、同行を願ったが断られてしまった。


「いつ頃戻って来られるのですか?」

「そうだな…アイツが土産を持って帰ってくる頃には戻るさ」

「左様ですか」


その返答に、ンドゥールは意外だ、とは思わなかった。
何度か主人DIOと会話する内に、耳の良い者にありがちな世間話をしていると、少女の事が話題になった事があった。
主人の意見も概ね自分と同じだった。かなりアキノの事を気に入っている様子の主人は、少女の日本土産も楽しみにしているらしかった。

屋敷に居る他の者達は、アキノが帰国してから少し落ち着きがなかった。
テレンスと少女の姉は露骨にイライラしているし、子息はよく泣くようになってしまった。
エンヤも肉の芽で操られている無能力者の配下を死体にする事が増えた。

あの小さな少女がここエジプトに残す影響は少なからず存在する。
当人は何故か自分自身の価値を低く捉えているようだったが、少女に側に居てほしいと願う人間は多い。
ンドゥールもその一人だった。

全てを包み込むように、強く大きく、そして美しい存在である主人DIOがンドゥールにとって一番の存在だ。
しかし、一度知ってしまった色とりどりの輝きもまた、酷く恋しい存在となってしまっていた。





それから暫くしてやってきた春の季節に、ンドゥールはまた色彩を観た。




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