novel | ナノ


3月があっという間に過ぎ、4月を目前にするとリンダの両親はついにエジプトへと旅立ってしまった。
そして彼女もまた、長年過ごした我が家を名残惜しみながら、ジョセフとスージーの元へと身を寄せた。


「ようこそリンダちゃん!」

「よく来てくれたリンダ」


ジョセフの屋敷には、スージーと執事のローゼフ、他にも数人の召し使いが働いている。
しかし、当のジョセフは会社及びSPW財団での仕事等で忙しい日々を送っているため、あまり家に長く居る事は無い。
更にホリィが結婚してからは、広い屋敷でぽつんと独りになる時間が増えたスージーは、リンダやリーシャが訪れる事を楽しみにしていた。
祖母エリザベスの侍女だった彼女には、血の繋がりは無いものの昔から大層可愛がって貰っている。
熱烈な歓迎を受けながら、リンダの居候生活は始まった。


「折角の機会だから、リンダちゃんが前から知りたがっていた料理の作り方とか、全部教えちゃうわ」

「えっ、ほんと?」

「ええ、特に貴女の好物とかね」

「わーありがとう!ケーキだけじゃなくて、他にも色々教わりたいなって思ってたの」


スージーの料理の腕は素晴らしい。
使用人がいる今でも、スージー自らがキッチンに立つ事が多く、昔からリンダ達は彼女の作るものが大好きだった。
祖母も母も、ジョセフもホリィも承太郎も、皆が笑顔になって、食卓を囲んでいた記憶が強く残っている。
ケーキの作り方だけではなく、知りたい事は山程あった。


「よろしくお願いします」

「フフ、リサリサ様お墨付きのフルコースまで伝授してあげるわ!」

「フルコース…!」


その後は毎日、とても充実した日々を送る事が出来た。
学校に通う傍ら、料理だけでなく、紅茶やコーヒーの淹れ方に至るまで、以前から知りたかった事全てをスージーから教わった。
そんな生活にも慣れたある日、承太郎のアメリカ留学が本格的に決まった事が、日本から連絡された。


「良かったね、何処の学校へ行く事になったの?」

「フッフッ、本人に聞いてみるかの?おーい承太郎、電話変わるぞー」

『ーー』

「あ、ありがとう、もしもし承くん?」

『リンダか?』


電話越しに響く低音。久方ぶりの彼の声に、思わず笑みが溢れる。
しかし、その進路についての回答を聞いた時、驚愕のあまり口がぱかりと開いた。


「……え?え!?っていう事は同じ学校?」

『嫌なのか』

「い、嫌じゃないよ、嫌な訳無いけど、びっくりした」


なんと驚く事に、承太郎はリンダと同じ学校を選択したらしい。学科は違うようだが、突然の事に動揺した。
願書の提出期限はギリギリか、過ぎていた筈だが、そこはジョセフが何とかしたのだろうか。
によによと顔を緩ませながら此方を見ているジョセフにムッとするが、何はともあれ、リンダは秋から承太郎と同じ学校に通える事を純粋に嬉しく思った。


「何だか信じられないね。でも凄く楽しみ」

『おう』


短く、けれども何処か嬉しげな声色で返事を返した彼に、声を弾ませながら祝いの言葉を述べた。







承太郎と同じ学校に通える事実に、リンダの胸は踊った。クラスメイトから「何か良いことあったの?」と聞かれてしまう程だった。
街中では、思わずスキップしてしまいそうになるくらいには、楽しみで仕方なかった。

その時ふと、手を繋いで歩いている子供達が目の前を横切り、リンダはある出来事を思い出した。
今からもう10年も前の、承太郎がまだ女子に対して苦手意識を持つ前の話だ。





「ーーりんちゃん、これ、ぼくがそだててるアサガオっていうんだ」

「わー、きれいなハナだね」

「学校でタネをもらって、せいちょうをかんさつしてるんだ」


昔から承太郎とは大型連休の際にしか出会えず、再会する度にお互いの身の回りの事、つまりは学校で起きた出来事をよく話しあっていた。
その内容は違いが多く、また、とても興味深いものだった。
話を聞く度に、日本の学校に行ってみたいという憧れを持った程だった。


「じゃあ、ぼくの学校まで行こうよ」


そして、実際に案内して貰った事もある。
黄色の通学帽子に、つるりと光るランドセル、紺色の制服に身を包んだ彼は、当時のリンダにとって全て初めて目にするものだった。


「じょうくんかっこいい!へータイさんみたいだね」

「そうかな?」

「まあ承太郎、お休みなのにどうしたのその格好?今日はもしかして登校日だったかしら」

「ちがうよかあさん、りんちゃんに学校をみせてあげるんだ」


そう言って張り切る承太郎に連れられて、リンダは通学路という物を初めて歩いた。
アメリカの小学生は通学の際、親に車で送って貰うか、スクールバスでの登校が一般的だ。
治安の良い日本と違って、都市部でも治安が悪く、子供だけで街中を歩くという事は危険なのである。
日本では近所の子供同士で纏まって登校するのだと聞いて驚き、手を引いて前をすいすいと前を歩いていく彼にリンダは目を輝かせていた。

道すがら、彼は沢山の事を話してくれた。
近所の公園、変わるのが遅い信号、優しい駄菓子屋のお婆さん、夏休みの宿題、学校の先生やクラスメートの事。


「りんちゃんこっち、こっちだぜ」

「ここ通るの?」


公園の近くの竹藪に手招きされて、小さな秘密基地を見せられた時は興奮した。
クラスメートの男の子達と一緒に、こっそり物を持ち寄って作っていたらしい。
タイヤやレンガを積み重ねて、その上に木の枝を張り、大きめの葉で覆われた簡素なものだったが、リンダにとっては立派な秘密基地だった。
そしてたどり着いた小学校。校舎内には入れなかったが、その周囲の飼育小屋の兎、いつも遊んでいるという裏山、校庭を案内して貰った。
その場にあった遊具で遊び尽くした帰り道、承太郎がポツリと呟いた。


「今日みたいに、まいにちこうしてりんちゃんとあそべたらいいのになあ…」


握った掌にぎゅうと力が入った。
通学帽の鍔の下で、エメラルドグリーンが寂しげに揺れている。
同じ気持ちだったリンダは「わたしも」と答えて、掌を強く握り返した。

けれども、承太郎の学校へ訪れたのはその一度きりだった。後日再び学校へと向かったが、途中で彼のクラスメートに見つかり一悶着起きた。
その日はそのまま帰宅し、次の日に行こうと試みたのだが、また同じように騒ぎが起きてしまい、自然と止めてしまった。





「(ーーなんて事もあったな)」


あの日の承太郎の輝いた笑顔、そして、その後の悔しげな顔。
自分の足で学校へ通う事が許され、友人達と登下校を共にするようになったが、あの思い出は色濃く残っている。

まさかその彼と同じ学校に通えるなんて、夢にも思ってなかった。
アメリカと日本、遠く離れた異国の地でそれぞれ学業を全うし、社会へと旅立ち、時々は親戚同士で集まって、顔を合わせる。
そこで互いの成長を祝い、身の回りの出来事を話す。
承太郎とは、この先もずっとそんな関係を築いていくのだと思っていた。

ーーけれども違う。
これからはこのアメリカで、彼のすぐ側で同じ空気を吸い、天候に一喜一憂し、街に流れる音楽を聴き、同じ大学に通い、苦楽を共にする。
共通の体験だけで無く、共通の話題も出来るようになる。
それは心の何処かで憧れ、そして諦め続けてきたものだった。
だからこそ、楽しみで仕方なかった。


「…あれ?」


ジョセフの家を目前にした時、リンダはふと、屋敷を取り囲む柵の前に大柄の男性が立っている事に気が付いた。
その姿を目にし、たっと駆け出す。


「承くん?」

「リンダ?」


その人物ーー承太郎はリンダの姿を目にし、驚きから目を見開いた。


「何故お前がジジィの家に…」

「え?えーと、私は今伯父さんの家に居候中で…承くんこそどうしてここに?」


現在は4月。大学が始まる9月にはまだ時期が早い気がするが、承太郎はこれからアメリカで暮らす事になる。
その下見か、引っ越しの準備か何かのついでにジョセフの自宅へと寄ったのだろうか。
そう疑問を口にすると、彼は眉を寄せ、リンダの手を取って歩き出した。


「ちょ、ちょっと承くん?」

「ジジィに会って話す方が早い」

「えー…」


何やら苛立った様子の承太郎は、「ジジィ!」と声を上げて入口の柵を押し除け、玄関までの道をぬしぬしと歩いていった。
インターホンを先に鳴らしていたのだろう、程なくして玄関から出てきたスージーは顔を輝かせ、ジョセフは此方を見て笑いを堪えるかのように口元に手を当てた。
それを目にした承太郎が、小さく舌打ちする。


「ジジィてめぇ…黙ってやがったな」

「ハッハッハ、久しぶりじゃな承太郎!ってOh〜…そんな怖い顔せんでも良いだろ…」

「いらっしゃい承太郎!これからよろしくね〜」


そこでリンダは初めて、彼が大学に通うまでの間、アメリカでの生活に慣れるためにジョセフの家で居候する事になった事を知らされた。
そして同じく承太郎も、リンダが同じような状況である事をこの場で聞かされ、驚きから怒気を納めていた。
それを見てジョセフは胸を撫で下し、スージーは「サプライズ成功ね!」と言ってきゃらきゃらと笑っていた。


「やれやれだぜ…」


自然と離された手とその呟きにリンダはハッとした。
祖父と祖母だけだと思っていた母親の実家に居た同年の女の先客。
これから暫く慣れないアメリカの地で暮らす事になるというのに、例え親戚といえども自分は厄介な存在ではないのか。
そう思い、彼の女嫌いを知っていたリンダに申し訳無さが込みあげた。


「ごめんね、私も今の今まで知らなくて……でも安心して、私平日は学校行くし、殆ど家に居ないから」

「…いや、違う。驚いただけで俺は…」


小さく否定したが、視線を彷徨わせて口籠る承太郎に、リンダはやはり、なるべく彼のためにも接触は控えようと思った。


「そう?でも落ち着かなかったら遠慮無く言ってね」


そしてそっとその場からジョセフの方へと向かい、ただいまとハグをした。
背後で承太郎が手を伸ばしていた事も、リンダを抱き締めたジョセフが承太郎に憐れみの視線を向けていた事も、彼女は知らない。


こうしてリンダは、承太郎と一緒に居候生活と、残りのハイスクール生活を謳歌したのである。









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