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二人きりの夏の日が


「アイス、食べたい」


 ソファの上で膝を抱え、不機嫌そうに眉を寄せた姉さんがぽつりと呟く。一口飲んだだけで放置されている麦茶のグラスはすっかり表面に汗を掻き、テーブル上に浅い水たまりを拵えている。広げられた姉さんの課題をちらりと覗き、進行度が思わしくないことを知った。姉さんの苦手な範囲の応用問題でペンが止まっている。

 さっきあれに似た問題解説してあげたばかりなのにな。本当に苦手なんだ。そう思いつつ、敢えて俺から声は掛けない。声を掛けたら最後、完全に姉さんは俺に頼ってしまうだろうから。それは何より姉さんのためにならない。

 だからずっと彼女を無視して自分の課題を進めていたのだが、それが面白くなかったのか、姉さんは膝を抱えた態勢のまま、ぽすりとソファに身体を横たえてしまった。さすがに見ない振りを続行するわけにもいかず、「姉さん」と声を掛ける。すると彼女は頬を膨らまして拗ねていることを全面に主張して黙り込む。嗚呼、完全に機嫌を損ねてしまったらしい。


「……姉さん。それじゃ夏休み中に宿題終わらないよ」


 無言。むしろその言葉が気に入らなかったのか、彼女は眸を閉じてしまった。弱ったな、と席を立って姉さんの身体を揺り起こす。その刺激に彼女はうっすらと目を開いたものの、じっと物言いたげに俺を見つめる以外のアクションを取ろうとはしてくれない。


「……今年こそは俺の手を借りずに宿題するんでしょ。ほら、起きて。アイスはノルマをクリアしてから一緒に買いに行こう。ちょっとお高いやつ買ってあげるから」

「……もう一時間も勉強したもん」

「でもノルマ達成してないじゃん。それに休憩取ったばっかりでしょ、まだもう少し頑張って」

「わたし、純みたいに頭良くないから、将来役に立たない勉強を自らやろうとは思えないの」

「大人になってからは役に立たないかもしれないけど、直近だと夏休み明けのテストのときに役立つよ」

「…………純のそういう理屈っぽいとこ、や」


 嫌、と来た。これはかなり機嫌を損ねているな、と分析するも、ここで甘やかすわけにはいかない。去年そうして姉さんを甘やかした結果、最終日には大量の宿題を手伝う羽目に陥ったからだ。

 別にそのこと自体は何とも思わないのだが、そのせいで姉さんの夏休み明けテストの結果は散々なものだった。さすがにあの点をまた取らせるわけにはいかない。そのためには心を鬼にしなければならない、と俺は夏休みが始まる前から決めていた。

 そもそも姉さんは、頭の回転はそこまで悪くない。軽く勉強すればその勉強量を軽く上回る点が取れる要領の良いタイプだ。だけど中々自分から勉強しようとしないのが問題で、彼女をやる気にさせるには俺がしっかり管理しなければならない。


「嫌でもいいよ、俺は別に。だけど姉さん、去年みたいに先生たちに叱られるのだって嫌でしょ」

「……う」

「それに姉さん、試験の成績悪かったらすごく落ち込むじゃん。落ち込まないためにも頑張らないと」

「…………純のばか、」

「馬鹿でいいよ。俺は姉さんが落ち込んだり悲しそうだったりする顔を見たくないだけ」


 暫くの間が空いて、ようやく姉さんがのっそりと身体を起こす。意地が邪魔をするのかまだ素直にはなれないらしく、軽くこちらを睨んでいるが、それが本心からのものでないのはこちらも重々承知の上だ。俺は姉さんの飲み掛けの麦茶のグラスを取り上げて水たまりを布巾で拭い、そこに氷を足してやった。

 自分の席にまで戻り、さて、と課題に意識を戻す。実はもう、俺は今日のノルマをクリアしてしまっているので、正直することがない。先に進めてしまってもいいのだが、そうすると姉さんと一緒に勉強をすることが出来なくなってしまう。だから俺は、悩んでいる振りを装って、姉さんに買ってやるアイスのことを考えた。

 何がいいかな。この間発売された、期間限定の味なんかは丁度姉さんが好きそうだけど、あのアイスなら姉さんはいつもキャラメル味を選んでいるし。ノルマをクリアしたご褒美に、アイスだけじゃなく、何か他のものを加えてあげてもいいかもしれない。喜ぶかな。

 しかめ面でシャープペンシルを構える姉さんが、ふぅと小さなため息を吐く。その手が無意識に額を拭う仕草を見て、俺は少しだけ冷房の温度を低く設定し直した。どうせ勉強させるなら、快適な空間のほうが良いだろう。姉さんの集中を乱すものは、徹底的に除外してやりたかった。

 肘を突き、すっかりぬるくなった麦茶を飲んだ。家の中に篭り切りだと蝉の声さえ聞こえない。俺も姉さんも暑さに弱い性質なので、蝉が鳴き始めてからはあまり外に出なくなった。でもそんな夏休みも悪くない。姉さんを独り占め出来るなんて、どんな体験よりずっと豪華だ。

 苦手な問題に苦戦する姉さんの背が丸くなる。屈んだせいで服の襟元部分からちらりと白い肌と下着が覗いた。さり気なく視線を逸らす。今度からはその服をあまり着ないように言っておこうと心に決める。他の奴らには絶対に見せたくない。


「――ねえ純、ここ、もう一度教えて欲しいんだけど……」

「うん、どこ?」


 ずれた眼鏡を直して身を乗り出す。いつまでも、こんな夏休みが続けばいいと思った。


二人きりの夏の日が
本当は続いてはいけないことにも、目を瞑ったのだ。

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