神仙魔伝−紅の節 | ナノ


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 そわそわ。どうにも落ち着かない緋豊を、春陽は眺めていた。
「圭くんってさ〜、緋豊と比べてどうなの?」
「どう……というのは?」
「いや、すっごく心配してるみたいだから、緋豊より強いのか弱いのか、どっちなんだろうなって〜」
ああ……と少しだけ考えて、断言する。
「あいつのほうが強いな」
「ええ……」
軽い驚き。あの緋豊より強いとは、一体どれほどのものなのだろう。そんなことを言いたげな月乃の表情に気が付いたのか、緋豊は付け加える。
「強いといっても、そんなものは基準による。私のほうが足は速いが、力ならあいつが上、といった具合にな。それに、場所や体調によっても変わるものだし、どちらが強い、と言われても判断はできないな」
けれど。決定的な違いがひとつある。そしてそれがある限り、緋豊は圭と同等の強さを手に入れることは叶わないのだろう。
「……私は、人を傷つけられない」
ぼそり、と誰にともなくつぶやく。聞き取れるかどうかというその声に、ふたりは耳を澄ませた。
「あいつは『手を抜いた』と言ったが、それは違う。私は自分が誰かを傷つけるのが怖いだけだ。たとえそれが、自分を殺そうとしているような相手でもな。殴られる痛みには、もう慣れた。それなのに、逆は駄目だ。まして、肉を裂いたり骨を折るなどというあの感触は……。
 あいつにはそういった躊躇いがない。自分を――――自分たちを守るためなら、容赦なく敵を傷つける。そしてそれは、多分正しい。生き残るための攻撃は本能のはずだからな」
淡々とした口調。それでも滲み出るのは、後悔と自責。
「私は結局押し付けているだけなんだろうな。人を傷つける痛みというものを」
そう言って目を伏せる彼女にかけられる言葉は、ない。きっとこれは、当人たちにしか分からない痛みだろうから。同情も共感も慰めも、今は無責任なものにしかならない。おそらく緋豊自身、そんなものは欲していないのだ。
「たっだいま〜!!」
 しんみりとしてしまった空気を容赦なくぶっ壊しにかかる陽気な声。主はもちろん、高原圭その人である。
「あれ? どうしたんだそんな暗くなっちまって。ははーん、さてはボクのことが心配で心配でたまらなかったんだろ!」
「うるさい。いいから、ほら」
緋豊が圭の胸にタオルを押し付ける。よく見れば少量ではあるものの赤い点が散っており、なるほど、これが返り血というものなのかと理解した。
「お、サンキュー!」
緋豊からそれを受け取って、ごしごしとふき取る。それを何とも言えない――――強いて言うのならば『悲しげな』というのが近いだろうか――――表情で見つめていると、その視線に気づいたのか圭がにこりと微笑む。
「大丈夫、そこまで派手にやってねえって。さすがに殺しなんてしねえしさ。つーかあいつら逃げてったからな」
「それならいいが……」
「怪我人は余計な心配してねえでさっさと治しやがれ。そうじゃねえとこっちも安心できねえからさ。ホラ、お前かなり危なっかしいし」
「お前に言われたくない。……で、なにを笑ってるんだお前たちは」
ふたりのやりとりを見てなぜかくすくすと笑っていた春陽たちを、緋豊はじろりと睨みつける。話の内容は全く笑えるものではないが、互いに意地を張っているようなその口調が、傍で聞いていてなんとなく微笑ましいのだ。
「いや別に。笑ってない……ふふっ」
「笑ってるじゃないか!」
憮然とする緋豊の頭を、圭がよしよしと撫でる。必死に背伸びをして。緋豊も決して身長は高いわけではないのだが、圭と並ぶと長身美女に見える。
「それはまあ、それとして。ひとつ提案があるんだけど」
「提案?」
訝し気に緋豊は首をかしげる。春陽が、満面の笑みで言った。
「ちょっと山を下りて、あたしたちと一緒に生活してみない〜?」





「こら! またベッドを抜け出して!」
「ひゃう!? ロ、ロゼリアさん……」
こっそりとベッドを抜け出して本を読んでいたシルファナは、突然の声に持っていた本を取り落とした。
「ただでさえ魔力の使い過ぎで衰弱してるのに、ちゃんと休まないでどうするの?」
「ごめんなさい……」
と言いつつちゃっかり本は抱えたまま、ふたたびベッドに潜り込んだ。そんな彼女にため息を吐いて諦めを表すと、ロゼリアはテーブルの上にスープを置いた。
 身体と魂が別離するのは、本来『死』の時のみである。それを無理やり引き剥がすのだから、それは世界の理に背く禁術に近い大魔法になる。また、魂というのは不可視のもの。その姿を人に見えるようにするのだから、これも上位の魔法である。これを重ねて使ったうえで、媚蘭屋敷の結界を解いたのだ。もちろん彼女たちの結界が簡単なものであったはずがない。魔法というのは、存外体力と精神力をすり減らす。このように高度な魔法を同時に使えるという時点でシルファナが優秀という言葉では足りないほどの魔法使いであることは明白なのだが、それでも消耗が激しかったのだろう。体に戻るとそのまま倒れてしまった。それを介抱しているのが、母親代わりと言っても過言ではないこのロゼリア=アレクトゥールである。
「あなたの気持ちも分かるけど、あんまり無理しちゃだめよ? これ以上ここの人が減るのは寂しいわ」
「シーナも、さみしいです」
受け取ったスープに目線を落とす。ふう、と息を吹きかければ揺れる液面。そっとすくって口に運んだ。のだが。
「あちっ、あちちっ」
「ちょっと大丈夫? 作りたてなんだから熱いに決まってるじゃない!」
慌ててひっくり返しそうになったスープ皿を支え、水を渡す。もう少し冷ましてから渡すべきだったかと、少し反省した。
「……兄様の居場所は、分かってるんです」
今度は水の入ったグラスを持ちながら、シルファナはぽそりと呟いた。
「でも、行動の真意が読めなくて。確かに兄様は、雇われると道具であろうとします。それでも、引っかかるんです」
「というと?」
「ヒトミ様、とおっしゃいましたか。あの方に危害を加えるというのは、媚蘭様と敵対することにつながります。ヒトミ様は媚蘭様にとって、大切な存在のはずですから。それを兄様が自分の意思で攻撃するとは思えませんし、そんな依頼を受けるはずがありません。なにより、今のヒトミ様はただの人間に過ぎない。わざわざ兄様を使ってまでどうこうしようというものでもありません」
「ということは、あの女狐側の誰か……もしくは彼女本人が関わっていると見ていいわね。それにしたって、真意はつかめないけれど」
しばしの静寂。それを破ったのはロゼリアだった。
「調べてみましょうか。私の情報網があれば、もう少し詳しいことは分かるはずよ」
「ロゼリアさんが?」
「ええ。商人の武器は情報と交渉術だもの。ここは本職に任せておきなさい」
そう言うと彼女は、軽くウインクをしてみせた。





 一緒に星を眺める。ただそれだけのひと時を、どれだけ待ち望んでいたことか。
「お前があの提案に乗ったのは意外だった」
「そうか?」
「私に『人と関わるな』とくどいほど言っていたのはお前だろう」
「あー、まあ……」
妙に歯切れが悪い。彼等の関係はそう浅いものではない。言いたいことは互いになんの遠慮もなく言う。それが彼等のはずだ。
「なんつーか、もういいのかなって。ほら、あれからもう随分経つしさ」
「お前がそう言うなら、それでいいんだろう」
圭の意思は緋豊の意思であり、逆もまた然り。重い話は打ち切って、圭の膝を枕にころんと横になる。せっかく久しぶりに会えたのだ、暗い話ばかりではつまらない。
「ひ、ひひひ緋豊!? なんで急に膝枕!?」
「お前こそ、なんで今更この程度で動揺するんだ……」
自分からは首に絡みついたりあちこちぺたぺたと触ってきたりするというのに、たまに緋豊からなにかすると、途端に顔を真っ赤にしてたじたじとなる。そんなところが愛しくないわけがない。
「こういうときは、黙って頭でも撫でておけばいいんだよ」
「お、おう……」
言われたとおり、本当に頭を撫で始める。傷んでいるとはいえさらさらとした細い髪に嫉妬しながらも、どこか満足気に緋豊の顔を眺めた。
 せせらぎの音と、僅かな風に木の葉が擦れる声。空にぼんやりと浮かぶ月が、互いの顔を薄く照らし出す。
「月が綺麗だな」
「そうだな」
ふたりは夏目漱石の言葉など知らない。口からこぼれた言葉は、ただの感想にすぎない。そもそも、わざわざ声に出して伝えなくても、互いの気持ちはよく知っている。ともすれば、自分の気持ちよりも。
 穏やかな時間が流れる。この時、緋豊はまだ、こんななんでもない時間がずっと続くのだとなんの根拠もなく信じていた。

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