行かなくちゃ

行かなくてはならないと思った。

4年前、私はただひたすらに必死だった。君がいなくなって、初めて気付いたことがある。
生きなくてはならないと思った。
生きる為に、全て、何もかも捨てて駆け出した。
そんな私を見下ろす夜空――霧がかった真っ暗な夜の闇に、淡い星明かりがぽつぽつと浮かんでいた。月の輪郭はひどく曖昧で、霧に溶けて明るさを失っていた。

あれから4年が経った。
変わったことと言えば、昔よりも笑うことが多くなったことだろう。
今でも私は、私の生きる理由が分からない。分からないままに、今年もこの日を迎えることとなった。
君が死んだ日――10月26日。
それは君が生まれた日でもあった。



バーの扉をくぐるなり、パンパンパンッとクラッカーが弾かれた。一瞬、何が起こったのか分からなかった織田は目をぱちくりさせた。
クラッカーから飛び出した紙紐が、螺旋を描いて宙を舞う。ひらひらと落ちてきた赤い紙紐が、織田の頭にはらりと舞い降りた。
まるで写真のシャッターを切るようにぱちりと瞬きをしたら、目の前に太宰の顔があった。
その手には空になったクラッカーが握られており、にっこりと満面の笑みで太宰は笑った。
『織田作、誕生日おめでとう〜!!』
無邪気な子供のような笑顔だった。太宰がこんなふうにはしゃぐのは珍しい。
何を返したら良いか分からず、織田はしばらく太宰の顔を見詰めていた。何も言わない織田に焦れたのか、太宰はムスッとした顔で上目を向けた。
『なに、ぼーっとしてるの?』
『……いや』
どこからか、遅れてひらひらと舞い降りてきた黄色の紙紐が太宰の頭に落っこちた。織田はそれを見るなり、そっと太宰の頭に触れた。
『えっ』
織田の手が太宰の髪に触れる。途端に太宰は驚いたような顔をした。
『……ありがとうな』
みるみるうちにその顔が赤く染まっていった。
柔らかく微笑んでから、織田は紙紐を取って太宰の髪を撫でた。ふわふわと柔らかい髪をひと撫でする。太宰は困ったような、嬉しそうな、なんとも言えない顔をしていた。
『織田作も……』
少しだけ背伸びをして、太宰の手が織田の髪に触れた。付着していた赤い紙紐を摘む。太宰はやたらと目をくりくりと大きくして、織田を見詰めていた。
何かをねだるような眼差しだった。
少しだけ、そうやって見詰め合っていたら、
『お取り込み中のところ申し訳ないですが、そういう雰囲気を出すなら場所を変えて貰えませんか?』
太宰の背後から、安吾がうんざりしたような顔を覗かせた。安吾の手にも、空になったクラッカーが握られていた。
『あっ、えと……そ、そうだった!』
太宰は顔を真っ赤にして背けると、安吾の方を向いた。安吾は呆れたような溜め息を吐いてから、視線を織田へと流した。
『お誕生日おめでとうございます。織田作さん』
『……ああ。ありがとう』
『先日の僕の誕生日に引き続き、太宰君がどうしてもというので今日もここを貸し切りにしたんです』
『へぇ』
そんな会話を交わしているなか、太宰はバーカウンターに備え付けられていたスイングドアを潜っていた。安吾と話しながらも、無意識に織田の視線は太宰を追っていた。
『さあ、座って下さい』
安吾に促されて、織田はいつもの定位置に腰を下ろした。ジャケットを脱いで雑に畳むと、隣の椅子へ放り投げた。
『はい。どうぞ』
声がした方を見上げる。
太宰がカウンターの向こう側で、微笑みながらウィスキーのグラスを差し出していた。
にこっと顔を傾けると、グラスの中の氷がカランッと音を立てた。
織田はそれを受け取ると、訳が分からないといった顔をして太宰を見上げた。
太宰はやたらと上機嫌だった。
『今日は特別に私がバーテンダーになってあげるよ。氷がシャリシャリのカクテルとか、泡がシュワシュワのビールとか、なんでも作ってあげるね』
ひとつ席を挟んだ隣で安吾が「はあ」と盛大に息を吐いた。織田はこれといってリアクションを取ることもなく、太宰を見上げたまま軽く手を挙げた。
『カレーが食べたい』
よしきた!といった顔をして太宰は飛び跳ねた。ほぼ同時に安吾はギョッと顔を崩した。
『お客さんは運がいいねぇ。今日は私が腕によりをかけたとっておきのカレーを用意しておいたのだよ』
ウフフ、と笑って太宰はカウンターに背を向けた。ワインボトルが並ぶ棚の下の調理台に置かれた鍋の蓋を取り外すと、店内にカレーの香ばしい匂いが充満した。
『……いいんですか、織田作さん』
『なにが?』
『いえ……』
何か言いたげな顔で安吾はグラスに口付けた。それに倣って、織田もウィスキーを口に含んだ。
甘く苦い酒の味を喉に転がしながら、織田は太宰の背中を眺めていた。
まだまだ未成熟な、大人へなりかけている途中の少年の背中だった。太宰が身につけているスーツがスリムなデザインのものである為に、その肩と腕の細さを改めて意識した。
カウンターに阻まれてしまい、距離を隔てられているが出来るなら後ろから抱き締めたい。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、くるっと太宰がこちらを振り向いた。
『お待たせしましたー!』
カレーが盛られた皿がテーブルに置かれる。想像していたよりも普通のカレーだった。
安吾が意外そうな顔をして眼鏡を押し上げた。すると、
『はい。特別に安吾にも』
『え!?僕はいりませんよ……!!』
安吾の目の前にもカレーが置かれた。
うげっとした表情の安吾の隣で、織田は何食わぬ顔でスプーンを手に取った。両手を合わせて「いただきます」の挨拶をすると、カレーを掬って口へ運んだ。
わくわく、と胸躍らせながら太宰はカウンターに両肘をついて身を乗り出した。
『どう?美味しい?』
『んー?』
もぐもぐと口を動かしながら、織田は太宰を見た。ふと、太宰の指に見覚えのない傷があることに気が付いた。指に巻かれた絆創膏。最後に太宰に会った時には無かった怪我だ。
織田はカレーを咀嚼しながら太宰を見詰めた。太宰は少しだけ緊張したような顔をしていた。
ようやく、織田は口の中のものを嚥下した。
『……ああ。美味いよ』
ぱああっと太宰の顔が華やぐ。
そんな光景を横目に見ていた安吾はおそるおそるカレーを掬った。見た目は普通のカレーだ。しかし、あの太宰が作るものだ。普通である筈がない。
そんなふうに疑う安吾の横で、織田は黙々とカレーを食べていた。その食いっぷりが嬉しいのだろう。完全に太宰は蕩けた顔をしていた。
安吾から見ると、そこの空間だけお花畑のように見えた。
『えへへ……やった。褒めて褒めて〜?』
何も言わずに織田はカレーを食べながら、太宰の頭を撫でてやった。太宰はまるで猫みたいにごろごろして、織田の手に擦り寄っていた。
その顔は完全に恋する乙女の顔をしていた。
(……甘い。甘すぎる)
そんな空気を醸し出す二人に心の中で毒突いて、安吾もカレーを口へ運んだ。一口だけ口へ含んで――
『ッ!からッ……!?』
咄嗟に安吾は口元へ手を添えた。ガタッとテーブルが揺れる程のオーバーリアクションを取る安吾。太宰と織田がそちらを振り向いた。
『良くこんな辛いもの平気で食べれますね、織田作さん……。太宰君!水ください』
『もぉ〜、安吾は大袈裟だなぁ』
呑気にそんなことを言いながら、太宰は水差しを手に取った。グラスに氷を放り込んで水を注ぐと、それを安吾へ手渡した。
安吾は勢い良くふんだくると、一気に水を飲み干した。
『こんなもの食べれませんよ!織田作さん、貴方も無理しなくて良いんですよ!』
『いや、俺は普通に美味しいけど……』
言いながら、ぱくりと食べる。見ているだけで安吾の口の中に辛味が蘇った。
『んふふ。織田作って辛いの好きだもんね。私が織田作の為に愛情を込めて作ったんだよ?織田作に美味しいって言って貰いたくて』
太宰の周辺にキラキラとしたお花みたいなオーラが見えた。安吾は水をもう一杯お願いすると、口に含んでから眼鏡のブリッジを押し上げた。
『……ところで太宰君。君、辛い物は苦手でしたよね?』
『うん』
『じゃあこのカレー、ちゃんと味見したんですか?』
『してないよ』
けろっと答える太宰。思わず安吾はずっこけそうになった。
『味見してなくてもこんなに美味しいなんて、すごいな』
間の抜けたことを言う織田に対して、ますます安吾は頭が痛くなってきた。
それでも――
『でしょでしょ!うふふ』
太宰が嬉しそうに笑う顔を見ていたら、それ以上は何も言えなくなってしまった。
そんなふうにカレーを食べたり、お酒を飲んだり、他愛のない話に花を咲かせて、気が付いたらとっくに日付を跨いでいた。
『今日はもう帰りましょう。僕はタクシーを呼びますが、お二人はどうします?』
うーん、と織田が考える。考えながらジャケットに袖を通した。
『ねえねえ、織田作。この後どうする?』
嬉々とした表情で太宰は織田に迫った。
『どうするって、帰らないのか?』
『だって……』
寂しそうな顔をして、太宰は織田の服を掴んだ。ほんのりと頬を上気させて、上目遣いに織田を見る。
『せっかくふたりきりになれるのに……』
思わず織田は息を呑んだ。頬を染めて潤んだ目をする太宰の顔。それはとても無防備に見えた。もしかしたら計算のうちかもしれない。それでも、太宰を「かわいい」と思ってしまった。
このまま太宰を抱き締めてしまおうかと思った矢先、
『帰らないんですね!お先に失礼します!!』
安吾が呆れた口調で捲し立てて店を後にした。残された太宰と織田は、安吾が去って行った方を見送ってから互いに顔を見合わせた。

店の外に出て夜の街を歩く。
思ったより明るい夜だった。
街のネオンとか、少しだけ肌寒い風とか。そういうものが、少しだけ心をセンチメンタルな気分にさせた。
おそらくそれは酒の影響もあるだろう。
『終電、終わっちゃったねぇ』
『そうだなぁ』
並んで歩きながら、織田は夜空を見上げた。とても良く晴れた空だった。
霧も無ければ雲も無い。星と月がとても綺麗に見えた。
『……月が綺麗だね』
やけに落ち着いた声音で太宰が言った。歩きながら、織田は太宰を見た。視線に気付いた太宰がこちらへ目を向ける。
そんなふうに歩きながら見詰め合う。織田はゆっくりと口を開いた。
『死んでもいいよ……』
ぴたり、と太宰は足を止めた。それに倣って織田も足を止めた。
向かい合って見詰め合う。誰もいない暗い夜道。二人を見下ろすのは月と星だけ。
『……どうしてだろう。私は「死ぬ」という言葉に対して身近に接してきたつもりだけれど、君の口からそれを聞くと酷く不安な気持ちになる』
遠くで救急車のサイレンが鳴り響く音がした。その音はとても遠くて、もしかしたら幻聴だったのかもしれない。
『わがままだね、私は。君の一言一言に踊らされて、苦しくなるなんて……』
『太宰……』
そっと太宰の体を抱き寄せた。腕にすっぽりと収まる感触を噛み締めながら、太宰の髪に鼻を押し当てる。いつもは甘酸っぱいシャンプーの香りがするのに、今日はカレーの匂いがした。とても美味しそうだと思った。
『ん、織田作……苦しい……』
思ったより腕に力を込めていたらしい。腕の力を緩めると、僅かに体を離して見詰め合う。片手で太宰の髪を撫でて、顔がよく見えるように掻き上げた。
『早くこの包帯が取れるといいなぁ』
太宰の頭部と顔面に巻かれた包帯を目にするなり、名残惜しそうに織田が呟いた。
『どうして?』
太宰の大きな目に星の光が反射した。きらきらと輝くそれはとても美しくて、いつまでも見ていたい気持ちにさせた。
『……知りたいか?』
『うん』
『それは……』
言いながら、織田の手が太宰の顔を傾ける。顎に手を添えて軽く掴むと上を向かせた。そのまま唇を寄せていく。
質問の返答をそのまま注ぎ込むかのように、ぴったりと唇と唇が重なった。
ただ、重なるだけの口付けだった。
それなのに、最近交わしたものの中では一番長い時間くっ付いていたような気がする。
太宰の手が織田の服を掴む。身を乗り出して、先を強請ってくる後ろ頭を撫でてやってから口付けを解いた。
『……ずるいよ。こんなの』
太宰は泣きそうな顔をしていた。その頭を撫でて宥めてやってから、織田はもう一度キスがしたくなった。
ちゅっと太宰の頬に唇を落としてから鼻の頭を噛んだ。
『んっ、や……織田作……!』
太宰の顔面にたくさんのキスを降らしていく。額と額をコツンとぶつけて見詰め合えば、互いの心臓の音が聞こえてきそうだった。
織田の顔を見上げる太宰。その、とろんとした顔が、ふいに何かを捉えた。
『……流れ星』
『え?』
織田が空を振り仰ぐ。ちょうど、一筋の星が流れ行き、それに続くようにもう一筋、星が空を駆けて行った。
星が一生を終える。
長かった生を全うし、燃え尽きて、消えていく。
その生に果たして意味はあったのだろうか?星は如何にして生きたのだろうか?
それは誰にも分からない。
星そのものですら、分かっていないのかもしれない。
『……流れ星に願い事をすると叶うって、一体誰が考えたんだろうね。星からしたらいい迷惑に違いない』
織田の胸元に擦り寄りながら、太宰も同じように夜空を見上げた。
『死ぬ時くらいはそっとしておいて欲しいよ。今まで誰も気にしてなんかくれなかったくせに』
太宰が言いたいことは良く分かった。
流れ星として消えていく運命。
今まではこの夜空に輝く無数の星々のひとつに過ぎなかった。そこにあるのが当たり前で、誰も関心を抱かなかった。それなのに、消える頃になってようやく気付いて貰えた。
今までだって、そこに居たのに。最期の最期で人々の願いを受けて――
『……俺は、別にいいと思う』
ぼそり、と織田が呟いた。
『自分が死んで、誰かの願いが叶うなら、それはとても素敵なことだと思うから』
織田の手が太宰の肩を強く掴んだ。その指は震えていた。
『……それは大切な人が居ない人が言うべきセリフだよ』
『そうかもしれないな……』
ぎゅっと抱き合ってから、再び歩き出した。手を握って、指と指を絡める。歩きながら、ふと太宰が問い掛けた。
『ねえ、織田作。織田作は流れ星に何を願ったの?』
『ん?』
何気なく見上げた空。偶然にも、もう一度だけ流れ星が過ぎ去って行った。それを見送ってから、織田は答えた。
『そのうち分かるさ』

この時はまだ信じていた。
来年もこうして、いつもの店でお酒を飲んで、笑っていられることを。
また君とこうして星を眺めて身を寄せ合うことを。
信じて疑わなかった。
大切なものは手に入れた瞬間、失うことが約束されている。
私は自分にそう言い聞かせて生きてきた。大切なものを作るだけ無駄だと。苦しくなるだけだと。生きづらくなるだけなのだ、と。
けれど私は臆病だった。
臆病の裏側に、自分の生に対する背徳感を抱いて常に生きていた。私は私の存在そのものが罪であり、私は私の存在理由(レーゾン・デートゥル)を見失っていた。
翌年の10月26日――
大切だったかけがえのないものを私は失った。

君が居なくなってから一週間。
私はかろうじて生きているだけの廃人になった。どんな言葉も、音楽も、決して音を持たず、絵画も骨董も美女も色を持たなかった。
3日くらいして、ようやく君の死を受け入れることが出来た。本当に悲しい時、人は泣くことが出来ないのだと初めて知った。
4日目に食べ物を口にして吐いた。何も受け入れられなかった。
5日目にカレーを食べたくなった。食欲からではない。ただ、君に会いたくなっただけだ。何の気なしにカレーが食べられるお店に立ち寄った。甘口のカレーを頼んで、口に含んだ瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
おかしい。ちっとも辛くなんかないのに、鼻の奥がツーンッとして目頭が熱くなった。ぽろぽろと涙を零しながら、私はカレーを食べた。
ただひたすらに、私は君に会いたかった。
6日目に君の家に行った。もうすぐここにあるものは全て処分される。処分された後に、この狭苦しくて何も無い部屋は引き払われる。
ベッドにそっと腰を下ろす。シーツをひと撫ですると、君との思い出が蘇ってきた。この部屋で、私達はたくさん愛し合った。この部屋には何も無いけれど、君との思い出がたくさん詰まっている。その事実を知るのは、今はこの世に私しか居ない。
私はベッドから立ち上がると、部屋にあったあらゆるものを手に取った。コップとか、灰皿とか。灰皿には煙草の吸殻が転がっていた。
クローゼットを開くと、中には数着だけ服が掛けられていた。いつも君が着ていたのと良く似たデザインのジャケットだった。その中のひとつに、あまり馴染みのない外套を見付けた。
ハンガーに掛けられたそれを手に取って、おもむろに取り出す。それは君の体躯には少しばかり小さく思えるデザインの外套だった。
砂色をした丈の長い外套だった。
私はそれをまじまじと眺めた。もしかしたら、過去に君が着ていたものかもしれない。
私は着ていた黒のジャケットを脱いだ。
そして、その砂色の外套を羽織ってみた。
ふわり、と裾が広がる。何かに包まれるような心地がした。

そして翌日。
私は何もかも捨てて駆け出した。

行かなくてはいけないと思った。
君の願いを叶える為に。
私が生きて、行く為に――


――――――――――

朝の時間は忙しい。
けたたましく電話が鳴り響き、それに応対する声が複数重なる。更に、コピー機が稼働する音や、誰かが誰かに報告を行う声、誰かが書類を床にぶちまける音――色んな音が入り乱れていた。
特に、世の中の会社において大部分が期初にあたるこの時期。その忙しさは、探偵社も例外ではなかった。
外部の会社からの依頼が相次いだ。おそらくどの会社も、期初だからといって予算の使い道に困っているのだろう。「そんな仕事に本当に探偵社の手が必要か?」と思えるような簡易な依頼に、驚くほどの札束を積んで交渉にくる。
社長の福沢はそういった依頼のひとつひとつに、引き受けるか否かの審判を下した。そして、その返答を探偵社の社員が行う。
まだまだ新人の敦は、今朝も電話応対に忙しかった。
「で、ですから……今回は大変恐縮でありますが、依頼を引き受け兼ねます……――ヒッ!あ、あのですから、その……えっと――――……あ」
一方的に電話が切られた。受話器のスピーカーからはツーツーという音が聞こえた。
「はあ……」
溜め息を吐いて、敦は受話器を置いた。ボールペンで手元のファイルにチェックを打つ。
敦の手元には「依頼応諾の可否」を記したファイルが置かれていた。上からずらっと並んだ依頼人の名前。そのひとつひとつに返答をしていく。
この作業だけで、だいたい昼過ぎまでかかる。最近はいつもこうだ。出社するなり電話を掛け、怒られ、ファイルにチェックを打つ。
その毎日の繰り返しだった。
働くというのは、同じ事の繰り返しだ。
敦は単純にそう思った。
けれど、その同じ事を繰り返していくなかで、如何にして自分が生きていくべきか、向き合う機会のようにも思えた。
お昼過ぎ、ようやく敦は本日の電話応対を終えた。
「ふぅ」
一息吐いて伸びをする。緊張が解れたのか、「ふぁ」とあくびが出た。
「おい、敦」
声を掛けられて飛び跳ねる。びっくりして振り返ると、国木田が怪訝そうな顔で敦を見下ろしていた。
「あっ、く、国木田さん……その、今のあくびは決して退屈しているとかそういう訳ではなくて――」
「太宰を見なかったか?」
あたふたと咄嗟に言い訳を並べる敦に対して、思ったよりも冷静な声音で国木田は言った。
「……太宰さん、ですか?」
「ああ。出社しているのは確かなのだが、それから後のあいつの行方が分からん」
「本当に出社されているのですか?」
疑い深く敦は尋ねた。
「それは間違いない。タイムカードは押されているし、しかも太宰の奴、今日は俺が出社した時には既に会社にいたから間違いない」
珍しいこともあるものだ。
いつもは遅刻ぎりぎりの常習犯である太宰が、朝早くに出社なんて。
「珍しくやる気なのかと思ったら、このザマだ。忙しさに紛れて気が付かなかったが、いつの間にか姿を消していた」
忌々しさを吐き出すように、国木田は言い捨てた。大袈裟に溜め息を吐いてから、国木田は眼鏡を押し上げた。ちらり、と視線を流すと壁に掛けられていたカレンダーが目に留まった。
そして、何かを思い出したかのように国木田は真剣な表情になった。
「……今日って」
「?」
敦もカレンダーを見遣る。今日は10月の最終週――
「10月26日、ですね」
週の中日の何もないただの1日。
敦が笑いながら告げると、国木田は何かを思い詰めた顔で顎に手を当てた。
「……敦。すまんが太宰を探しに行って来てくれないか?」
「いいですけど……。いつもしていることですし」
仕事をサボっていなくなった太宰を探しに行く、それも敦にとっては仕事のひとつと同じだった。
「悪いな」
国木田の声を受けながら、敦は席を立った。ついでに何か食べていこうと考えていたら、ふいに国木田に肩を掴まれた。
そのまま国木田と向き合う。背の高い国木田の顔を見上げて、敦はぱちくりと瞬きをした。
「……『昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか』」
「え?」
「ニーチェの有名な言葉だ。良く覚えておけ。そして太宰にも良く知らしめてやれ。誰もお前の事なんて分からないって」
国木田が何を言っているのか、敦には分からなかった。それでも敦は「はい」と返事をすると、探偵社を後にした。


空を見上げる。雲ひとつない快晴だった。
真っ青な空はどこまでも澄んでいて、心地良く感じられた。
すうっと息を吸い込む。そっと目を閉じる。瞼の裏側に光がチカチカと明滅した。
――太宰さんに会いたくなった。
太宰さんは今、この空の下で何を思って、何をしているのか。
「……『昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか』」
呟いて反芻する。
そして、再び太宰のことを考えた。

行かなくちゃならないと思った。
太宰さんのところへ。

これといった心当たりなんか無かったけれど。
敦は街を駆け出した。


爽やかな風だった。
緑の芝生。青い空。白い墓標。
そのどれもが鮮烈な色を放っていた。
今日はとても天気が良い。それなのに、吹きすさぶ風はどことなく冷たく感じた。
「……やぁ、ひさしぶり」
とある墓標の前。
背の高い、細身の男が立っていた。砂色の外套の裾が風に吹かれて靡く。ぼさぼさの髪がその端整な顔立ちに影を落としていた。
男はその場に膝をつくと、手に抱えていた花束を墓前に置いた。墓参りには相応しくないように思われる、真っ赤な花束だった。
男は柔らかい表情で墓を見詰めた。そこに掘り刻まれた文字を目で追って、男は悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね……」
そう言って墓標を撫でる。長い指先が名前の刻まれた痕をなぞるようにして撫でていく。一通り撫でてから、男はそこへ腰を下ろした。
芝生の上で軽く膝を抱えて、手に下げていたビニール袋から缶のお酒を取り出した。
プルタブを開けると、プシュッと泡が弾ける音がした。男は缶をもうひとつ取り出して開けると、それを墓前に置いた。
真っ赤な花束の隣。コツン、と男は手にしていた缶を軽くぶつけた。
「乾杯」
そうして男は酒を呷った。ぐいっと上を向いてから前を向く。目の前には変わらず真っ白な墓標が立ち尽くすだけだった。
しばらくの間、そうして無言で酒を飲んだ。男は何も言わなかった。何も言わずに、ただ静寂に身を任せた。
そのうち缶の中身を飲み干すと、男は膝を抱えて蹲った。静かな風が吹いていた。
やがて風が吹きやむ頃、男はそっと口を動かした。
「……会いたいよ、織田作」
震える声で呼んでも叶わない。
そんなことくらい分かっていた。
それでも男は求めた。
ここに来ればきっと、会えると信じていたから――


『……太宰』
名前を呼ばれたような気がした。
それでも、呼ばれた本人である太宰は顔を上げなかった。膝を抱えて蹲ったままだった。それはもう一度、名前を呼ばれることを待っているようにも見えた。
困ったように微笑んでから、織田はその場に片膝をついた。そっと手を伸ばして、太宰の肩に触れた。
太宰の肩は、昔知っていたものよりも幾分か男らしくなっていた。まだまだ織田の手には物足りなさを感じる感触ではあったけれど、頼りなさは無くなっていた。
ゆっくりと、太宰は顔を上げた。
顔立ちも、あの頃とはだいぶ変わっていた。大人の顔をしていた。
「……おだ、さく……?」
確かめるように呟いて、太宰は目を瞠った。その顔を見詰め返しながら、織田は優しく笑い掛けた。
「織田作……なの?」
呆然とした顔で尋ねてくる太宰。織田はそっと頷いた。
「っ、……!」
途端に太宰の顔が、ぐしゃりと歪んだと思ったら、織田の胸に目掛けて飛び込んだ。織田はしっかりと太宰を抱き留めた。
「…………会いたかった……!」
『ああ』
太宰は強く強く織田に抱き着いた。離れたくなくて必死に縋り付いた。織田の手はどこまでも優しく太宰を抱き締めてくれた。
「織田作……!おださ、く……ぅ…!」
『どうした?』
「私……、私、は……」
涙が溢れて止まらなくなる。泣き濡れた顔を擦り付けながら、太宰は震える喉を抉じ開けた。
「……私、がんばったよ……?君に言われた通り、生きてきたよ……?」
『ああ』
織田の手が太宰の肩を掴んだ。やんわりと体を引き剥がして見詰め合う。
『よく頑張ったな』
大きな手が頭を撫でる。
まるで、太宰の髪の感触を確かめるかのような手付きだった。そのまま耳の上を撫でた手が、そこにかかる髪をくしゃりと握った。
そうやって撫でてもらえるのが懐かしくて、嬉しくて、太宰は涙に濡れた目を細めた。
「織田作……」
織田の目はどこまでも優しかった
空の色と同じ色をしていた。
あの頃――闇の中では気が付かなかった。とても澄んだ、綺麗な色をしていた。
その色が眩しくて、涙が余計に溢れて止まらなくなった。
そんな太宰の頬の涙を、織田は指先で拭ってやった。
「おかえりなさい、織田作……」
へにゃりと笑う太宰に対して、織田は黙っていた。黙ったまま、ただ静かに目を伏せた。
「織田作?」
太宰が首を傾げる。織田は太宰を見詰め直すと、哀しそうな顔をして微笑んだ。
『……悪いな、太宰。俺はもう、行かなくちゃならない』
「え……?」
太宰の顔がみるみるうちに青ざめた。
「や、やだ……」
ゆっくりと小さく首を振る。目を見開いたまま、太宰は真っ直ぐに織田だけを見ていた。
「行かないで……、いなくならないで……織田作……!」
織田の手がもうひと撫で、太宰の髪を撫でてから離れた。そのまま身を引いて、織田は立ち上がった。
「ぅ、……や、お、お願い……!行っちゃやだ……!」
手を伸ばしても、どうしてか織田には届かなかった。その場に手をついて、前のめりになって織田を求めても、その手は宙を掠めるだけで何も掴めない。

自分が酷く、無力だと思い知った。
絶望に打ちひしがれた。
とっくの昔に嫌という程に味わった。
君がいないという事実――

掴もうとしても届かない。
その手の先で、寂しそうに織田は笑った。
『お前は、もう立派に生きているよ』
織田の声、言葉のひとつひとつが耳から心臓へと突き刺さる。
『誰もお前をひとりになんかさせない……』
だんだんと、織田の存在がぼやけていった。声が遠くなる。輪郭が不確かになっていく。
弾ける光の中で最後に太宰が見たのは、いつも見ていた優しい織田の笑顔だった。


どれだけの時間、こうしていたのだろう。
気が付くと空はすっかり暗くなっていた。
「……ん」
瞼がぴくりと痙攣した。ゆっくりと目を開ける。温かい涙の雫が頬を伝った。
どうやら、太宰は墓石に凭れ掛かって眠っていたようだった。墓前に手をついて、体を起こす。目の前の白い墓に刻まれた名前をぼんやりと眺める。
しばらくの間、何も考えられなかった。ただ、そこに刻まれた名前を記号のように眺めていた。だんだんと頭が働いてきた頃、目頭が熱くなった。
じわじわと灯る熱。行き場を失ったそれが形を持って、目から溢れ出た。
「……ぅ、くぅ」
その場に項垂れると、喉を鳴らして泣きじゃくった。
ぽたぽた、と涙の雫が雨のように墓石を濡らした。
赤い花が所在なさげに揺れる。
構わずに、ただ太宰は墓に縋り付いて泣いた。泣くことしか出来なかった。

会いたいと思った。君に。
君はもういないと分かっているのに――

「太宰さん……!」
背後から呼ぶ声に、ハッとした。
ゆっくりと太宰は後ろを振り返った。そこにいた人物を見上げるなり、太宰は目を丸くした。
「敦君……」
敦は息を切らして立っていた。肩を上下に動かしながら、すうっと息を吸い込んだ。
「もう!なにやってるんですか!?」
ずかずかと大股に歩いて近寄って来る。そのあまりに快活な立ち居振る舞いに、思わず太宰は涙が引っ込んだ。
ぱちぱち、と瞬きをして敦を見詰めた。
「酔っ払ってお墓で寝るなんて、呪われても知りませんよ?」
「呪い……」
「そうですよ!死んだ人がお化けになって出てきますよ?」
ふと、太宰は墓標を振り返った。不思議と織田の視線を感じたからだ。
太宰に倣って敦も墓を見遣った。そこに刻まれた名前を見るなり、敦はゆったりと唇を動かした。
「……『織田作之助』」
「織田作。私の唯一無二、かけがえのない人だよ」
呑気な口調で言ってから、太宰は「はは」と笑った。
「最期まで馬鹿な男だった……本当、馬鹿すぎるくらい真っ直ぐで、純粋で……今時、小説の主人公にもなれやしないくらい人の良い男だったよ」
敦はただ、黙って太宰の話を聞いていた。
「……本当に、ただの馬鹿な男だ」
何かを堪えるようにして語る太宰の横顔を、敦は真っ直ぐに見詰めていた。
二人を見下ろす夜空には、薄い雲がかかっていた。それはまるでベールのように、そこに輝く星々と月を隠した。
温い風が吹くと、その雲は呆気なく流れていった。
「……貴方はとても優しい人です」
月明かりが世界を照らす。
「昼の光に夜の闇の深さは分からないけれど、夜の闇は昼の光の寂しさを分かってあげることが出来ますよね」
夜空に輝く月を見上げながら敦が言った。太宰はただ、目を丸くしたまま敦の顔を見上げていた。
月の下で、白銀の髪が輝いて見えた。
「何故、分かるの……?」
敦は太宰を見下ろした。そして、照れ臭そうに破顔した。
「分かりますよ」
――『判るさ』
太宰の脳内に映像が重なる。
それはあの日以来、忘れていた思い出だった。
「だって、僕は……」
――『俺は』

「貴方と似ているから……」

敦の姿に織田が重なって見えた。
何も言えずに、太宰はただそこに居ることしか出来なかった。そんな太宰に合わせて、敦はその場にしゃがみ込んだ。
「太宰さん、貴方の過去に何があったかなんて分かりませんし、別に聞かなくても良いです。でも、これだけは言わせて下さい」
遥か頭上、空の彼方で光が流れる気配がした。
「今の貴方は、探偵社の仲間です」
流れ星が空を駆けて行った。
一筋の星をスタートに、次々と星々が流れていく。
「……わぁ!すごい」
「流星群……」
きらきらと真上を流れていく星たち。
圧巻だった。とてつもなく美しい光景だった。

『自分が死んで、誰かの願いが叶うなら、それはとても素敵なことだと思うから』
『……それは大切な人が居ない人が言うべきセリフだよ』
『そうかもしれないな……』

ゆっくりと、太宰は敦を見た。
敦はただ、目をキラキラさせて流れ星を眺めていた。
食い入るようにして夜空を眺めた後、すぐに敦は何かに気付いたようにハッとした。
「……って、こんなことしている場合じゃなかった」
「?」
ガシッと敦の手が太宰の腕を掴んだ。
「行きましょう!早く戻らないと国木田さんに怒られちゃいます」
ぐいぐいと引っ張られて、太宰はその場から腰を上げた。
「もう!太宰さん!!早く行かないと――」
「……敦君」
星は輝く。
空と空をどこまでも繋ぐ。
あの日と今。私と君を――
「どっちが先に着くか、競争だ!!」
「えっ!?あ、ちょ、……待って下さいよ!!!!」

駆け出す。何もかも捨てて。
君に逢いたい。逢いたかった。
でも、私は行かなくちゃいけないんだ。
何故なら私は生きている。
私は私として生きる為に、存在すべき理由を求めて彷徨うだろう。
けれど、もう怖くはなかった。
私はひとりではなかった。

『ねえ、織田作。織田作は流れ星に何を願ったの?』
『そのうち分かるさ』

迷い犬(ストレイドッグ)に、乾杯――。

――――――――――

本当を言うと死ぬのは怖い。
誰だってそうだ。
死ぬ為に生きている人間なんていない。
たとえ、全ての生が死に収束するとしてもだ。
人は死ぬ直前になって自分の生きる意味が分かるという。そんな話を聞いた事があった。
「――……く、織田作!」
ああ、太宰。
どうしてお前がそんな哀しい顔をするんだ?どうしてそんなに、痛そうな顔をするんだ?
俺は自分が何を言ったのか覚えていない。酷く喉はカラカラだったし、体は鉛みたいに重くて全身が痛かった。
ただひとつ、どうしても最期にお前に伝えたかったことがある。
「聞け……!」
よくお前にそうしてやったように。
俺の手は最期までお前を求めてしまった。俺はお前の髪の感触が好きだった。柔らかくて心地良い。この髪が好きだった。
必死に口を動かしてみても、喉を抜けていく空気の塊。果たして俺の声は、音を持っているのだろうか?
「……私はどうすればいい?」
太宰は相変わらず、切なそうな、今にも泣きそうな顔をしていた。
そんな顔が見たかった訳じゃないのに。
ただでさえ痛い胸のあたりが、余計に締め付けられて苦しくなった。もうほとんど、俺は生きていないに等しかった。
俺はお前に伝えることは出来ただろうか。
お前が生きていてくれさえいればそれでいい。
それでもただひとつ、どうしても死ぬ間際に叶えておきたい願いがあった。
最期の言葉を告げた時、自分の命が燃え尽きた音がした。
全てが消える。何もかも。
ぷつりと切れた生命の糸。力なく振り落ちる手が、最期の最期で想いを剥ぎ取る。
太宰の顔面を覆っていた包帯が、旋律を奏でるが如く、ひらりと解けて宙に舞った。
その白い螺旋の向こう。
最期に見えたその顔は、俺が最も見たかった顔だった。
それを見て安心した。

人は自分を救済する為に生きている。
死ぬ間際にそれが判るだろう。

俺が死んで誰かの願いが叶うなら。
ましてやそれが大切な誰かなら。
それはとても、幸せなことに思えた。


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