愛に窮する夜明けまえ




 りん、とピアスがかすかに揺れる。「なあ答えて、なまえ」すこし震えた声は、怒りか悲しみか不安か、そのどれもか、感情を滲ませながら私に向けられている。


「ほんとに、なにもないよ。大丈夫だから」
「じゃあなんでちゃんと連絡しなかったんだよ」
「立て込んでたの、ほんとにごめんね」


 一虎くんの声とは対照的に、私の声は不安定にぐらつくことなく、薄暗い玄関にひびいている。そうしなければいけないと思った。だって、一虎くんを安心させてあげなければいけないから。

 私たちのあいだには、いくつか約束ごとがあった。一虎くんはひどく心配性で、それから不安を抱えてしまいやすかったり、自己肯定感の低さを思わせるところがあったりして、だから約束ごとのほとんどはそんな一虎くんのために決めていた。ふつうではないのかもしれないと、そう思ったことは一度や二度ではないけれど。すべてきっと、私のことをほんとうに好きでいてくれているが故のものなのだ。


「一虎くんきいて」
「やだ。別れねぇ」
「別れ話なんてしないよ」


 こうやって、一虎くんの暴走はときどき起こる。私がうっかり約束を破ってしまったせいでこうなることがほとんどで、今日は数十分の残業をする連絡が遅れてしまったことが原因だった。ゆっくり諭すか、最悪手酷く抱かれるまで落ち着かないこの状況に弱ってはいたけれど、私は自分のことよりも、一虎くんがつらい思いをしているほうがいやだった。
 私のせいで一虎くんが疑心暗鬼になっていること、どうしようもない不安を拗らせ苦しんでいること、落ち着いてからも自己嫌悪に陥る一虎くんを見ること、そのどれもが、自分がどうなってしまうよりもつらかったのだ。


「オマエまで見捨てんの、オレのこと」
「違うよ」
「違わねぇだろ」


 ばん、大きな音がして壁が揺れる。ぼんやり翳った目で私を見下ろす一虎くんが、顔のすぐ横に手をたたき付けたせいだった。

 感情は、いつだって思いどおりにはいかない。目の前の一虎くんも、そして私も。一虎くんが私に手をあげることはなくて、けれど、身体の奥底からこみあげる恐怖は抑えきれはしないから、かすかに視界が歪む。そんななかで私の名前を呼ぶ声はやっぱり震えていて、だめだ、きっと一虎くんのほうが怖くて不安で仕方ないだろうに。


「ひとこと連絡すんのがそんなに難しいかよ」
「……かず、」
「っ、なんで、……泣いて」


 一虎くんが目を見開いて、そうして気付く。視界を歪ませていた涙が、とうとうこぼれ落ちていたことに。今まで、こんなときに泣いたことなんか、なかったのに。
 瞬間、一虎くんは私に覆い被さるみたいに抱きついてきて、私はかるく壁に頭をぶつけてしまった。けれどそれに気付かなかったらしい一虎くんは、「ごめん」と焦燥がいっぱいに込められた声を絞りだしていて、それはきっとこんな些細なことへの謝罪なんかではなかった。罪悪感と安心感が綯い交ぜになって、酸素がうまく吸い込めない。

 
「ごめん、おれ、怖がらせたいんじゃないのに、」
「わかってる、わかってるよ、ごめんね一虎くん」
「ごめん、ごめんな」
「ううん、怖いんじゃないんだよ」


 ずるずる、壁にもたれかかりながら崩れおちる私たちは、重力になさけなく負けてしまったみたいに座りこむ。とじこめるように抱きすくめられて、腕をまわした背中は震えていて、一虎くんはしきりに荒い呼吸をくりかえしていた。止めたくても止まらない涙があふれて、一虎くんの胸元を濡らしている。私もまた、ばくばくとうるさい心臓を持てあましながら肩で息をしていた。


「すき。好きだよ、なまえ」
「うん、私もだよ。大好き」


 何度も、何度も一虎くんは私の名前を呼ぶ。たしかめるように、縋るように。その声にも、私を抱きしめて離さない腕にも、はかりしれないほどの愛が込められていることを、私はよく知っている。だからまた、好きだと伝えて、これでいいんだよと笑って、なによりも大切な一虎くんの手を、決して離すまいと生きていくのだ。



20210927
共依存が似合いますね



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