さみしがりやの唇に




 好きな人から微かに香るそれを、もっともっとと追い求めてしまうのは、至極当然のことではないだろうか。

 一虎くんは、時々たばこを吸う。居酒屋に飲みに行った時とか、あしたがお休みの日とか、した後とか──二日に一本くらい、喫煙所とか換気扇の下とか、匂いの残りにくい場所でそっとたばこを吸う、そんな一虎くんが私は好きだった。
 それから、おそろいの柔軟剤の洋服に時折たばこの匂いが混ざってしまうのも、抱きしめられた時にそれが微かに香るのも、どうしてだかたまらなく好きなのだ。


「たばこ、私も吸おうかな」
「なまえはだーめ」
「えー、なんで?」
「だめなもんはだめ」


 素っ気なくそう言ってたばこを押しつけて火を消す手元を、一虎くんが使う灰皿を見つめながら思い出す。
 目の前には、一虎くんのたばこと、ライターと、そして灰皿。一虎くんは、まだお仕事中。またとないチャンスだと、背徳感と高揚感のはざまで考えた。
 こっそりとたばこを箱から一本抜き取って、果たしてどちら側に火をつけるのかまじまじと見つめてみる。そうして、一本のたばことライターと灰皿を引っさげて換気扇の下に向かうあいだ、心臓はどくどくとうるさく跳ねまわっていた。

 かち、かち。ぎこちなく咥えたたばこに火をつけようとライターをいじれば、無機質な音がふたりの部屋にしずかに響く。ほどなくして揺らめきだした炎が、ふらつくたばこの先端に触れる。うすい煙がたばこの先端から立ちのぼったとき、なんだか少し一虎くんに近付けたような気がして、ライターをぎゅうと握りしめてしまった。
 そういえば私は、たばこをどうやって吸うのかもよく知らなかった。とりあえず軽く吸い込んでみれば、視線のさきの先端があかく光って、煙があつく喉を灼く。つい咳き込みそうになって、けれどなんだか咳き込むことは負けな気がしてしまって、それを必死で堪えていた、ときだった。


「ただいまー」


 ……一虎くんが帰ってきた。とっさにどうしようと思ったけれど、よく考えれば別に悪いことをしているわけでもなし、堂々としていればいいのだ。灰皿にとんとんと叩きつけてみると、思ったよりも少ない灰がさみしげに落ちていった。


「……なにしてんの」
「たばこ、吸ってる」
「なんで」
「えっと、吸いたくなった……から?」


 そう言ってからふかしてみると、一虎くんが「ヘタクソじゃん」なんて声に笑いを滲ませた。言い返そうとしたそのとき、ずいと距離を詰めてきた一虎くんが、軽い手つきでたばこを奪いとっていってしまう。


「もしかしてオレの真似?」
「…………そう」
「ふ、カワイーね」


 たいして歳が変わるわけでもないのに、目を細めて笑う一虎くんはなんだか、ずっと歳上に見えてしまう。それくらい、たばこの煙をゆるく吐き出す一虎くんは色っぽくて、心臓のずっと奥が深く震えているのがわかる。平静を装いつつ目を逸らせば、一虎くんはすこしだけ笑った。


「かえしてよ」
「オレんだろ、これ」
「……それはそうです」
「ばーか」


 ついむっと口を尖らせてしまうと、まるで。そのタイミングを見計らっていたみたいに、ほんの一瞬、唇の温度がかすめ取られていった。


「オマエはこんなもん吸わなくていーの」
「……だから、なんでなの」
「なんでも」


 そんな理不尽な。言い返そうとするもすこし遅くて、口をひらくより先にまた唇を奪われる。今度はかすめるだけじゃなくて、ゆっくりと溶けあって、柔らかなぬくもりがしみ込んでくるようだった。ちゅ、とかるく下唇を吸われて、応える間もなく次はぺろりと舐めとられて。思わずぎゅうと目を瞑ると、たちこめるたばこの匂いが身体の奥まで入りこんでくるような心地がした。


「かずとらくん、」


 すぐ目の前で、一虎くんの淡い瞳がきらめいている。私をうつして細められたそれに、また鼓動がはやくなる。だめ、だってこの仕草、きっと、もっと、キスされる。


「そんなに口さみしーなら、いくらでもキスしてやるよ」
「ちが、っん……っ」


 ──そしてこのあと、息も絶え絶えになるまでキスされたのは言うまでもない。もう二度と吸うまいと、ぜんぶ終わったあとにたばこを吸う、一虎くんの満足げな背中を見ながら誓うのだった。



20210925



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