半透明のアンコール


「なんか……まだ、寝たくないかも」


 俺のとなりで歯みがき粉をしぼり出しながら、ふと、胡桃さんがそう言った。洗面台の鏡越しにみえる視線は、じっとりと歯ブラシの先を見つめている。


「……眠くないんですか?」
「うーん、それもあるけど、寝たくない……かな」


 はい、と手渡された歯みがき粉を受け取って、それをしぼり出してしまう前に考える。……すこし、わかる気がする。俺もそういうことはあって、真夜中まで本を読んだり、ぼんやりソファに座っていたことがあった。眠れないのではなく、眠りたくないとき。この夜にすこし、身を預けてしまいたいとき。気持ちがわかったからこそ、深く問い詰めずに「そうですか」と返すと、胡桃さんはどこか寂しそうに微笑んだ。


「……って、ごめんね変なこと言って」
「付き合いますよ、明日休みだし」
「えっ」
「夜更かしするなら、俺も付き合います」


 途端、つぎは鏡越しでなく見つめた瞳がかがやいて、「いいの?」と返された声にはあきらかな嬉しさが滲んでいた。まるで夜更かしを許された子どものようで、年上の彼女が時折みせる幼さについ俺の方も頬がゆるむ。「ちょっとだけですけどね」と照れ隠しを付け足せば、「うんうん、わかってるよ、ありがとう」とまっすぐな返事が飛んできた。


「あっ、じゃあ歯みがきは後にしよ」
「え、なんか食うんですか」
「……だめかな」
「……まあ、いいんじゃないですか、今日だけなら」
「やった、恵くんが優しい!」


 ……別にいつも厳しくしてるつもりねぇけど。まあ多少なりとも世話を焼いてしまう自覚があるのも確かで、程々にしておこうとこっそり決意する。そんな俺の横で胡桃さんはそっとコップに歯ブラシを置いて、「歯みがき粉には待っててもらお」とよくわからないつぶやきを残して洗面所を出て行った。





「まず何しようかな」
「本読むとか……映画とかどうですか」
「映画! そうだ、こないだ借りてきたのがあるんだ」


 そう言って胡桃さんが持ってきたのは恋愛映画のパッケージで、一緒に観ようと誘われていたのを思い出した。ちょうどいいタイミングだったのかもしれない。


「夜だしロマンチックにいこう」
「……楽しそうですね」
「なんかテンションあがってきちゃった」


 そうして、深夜の映画鑑賞会がはじまった。冷蔵庫にあったコーラと、戸棚に眠っていたうすしおポテトチップスが駆り出され、電気を落とした部屋でふたり、ソファで大きなブランケットにくるまってテレビ画面を見つめる。

 もぞもぞと動く身体を抱き寄せたり、手持ち無沙汰に髪を撫でたり。そんなことしながら観賞して一時間が経つころ、胡桃さんの動きがなんだか怪しくなってきた。
 どう見ても、舟を漕ぎはじめている。それなのに、「眠い?」と訊いても「ううん、大丈夫」の一点張り。……そうしてそのうち、質問にことばが返ってこなくなり、しっかりと俺の肩にもたれかかって、完全に彼女は眠りに落ちていた。すこしずり下がっていたブランケットを、引っ張り上げる。


「今からいいとこじゃないですか」
「んー……」


 頬を軽くつついてやれば、目の前のテレビでは、すれ違っていた男女の想いが通じ合うシーンが流れはじめる。どうしたものかと画面を見て、それから寝顔を見つめていると、身じろいだ胡桃さんが擦り寄ってきた。


「……めぐみくん……」
「な、んですか……って、寝言かよ……」


 かるく頭を引き寄せてやると、寝やすくなったのかその表情はより穏やかになっていて、これ以上動かすのも可哀想になってきた。……それに。満足してくれたのだとしたら、もうそれで充分だろうとも思った。みじかくても、ふたりで夜を過ごしたこの時間に意味があって、胡桃さんが満ちたりた気持ちで眠りにつくことができたのなら、それで。

 すうすうと寝息を立てている姿を見ていると、睡魔がうつってくるような心地がする。片付けねえと。ベッドいかねえと。そんな気持ちはあったけれど、まあ、こんな日もたまにはいいか──なんて気持ちに、ゆるく押し流されてしまう。あした起きてからやればいいだろ、なんて。
 ソファに背中を預けて、頭はかるく胡桃さんの髪に寄せて、たゆたう眠気の波にしずかに身を任せてゆく。落ちてしまうまえ、薄くひらいた視界にうつる鮮やかなキスシーンは、ひどくまぶしかった。



20211009



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