赤い嫉妬と逃避行


「恵くんは、何色の口紅がすき?」


 見つめたさきの唇が動いて、そんなことばを形づくった。問われて、はっとする。支度を終えたばかりの胡桃さんの、いつもとなんとなく色味のちがう唇を、ぼうっと眺めてしまっていた自分に気がついたからだった。すぐには答えられなかった俺に、彼女が「急に訊いてごめんね」とやわらかな声で言った。


「いや……特に、何色とかは」
「あ、そっか」


 気の抜けたように目をぱちくりさせる胡桃さんに「いきなりどうしたんですか」と問いかけたけれど、直後のこたえに墓穴を掘ったことを思い知らされてしまう。


「今日、いつもとちがうリップつけたんだけど」


 そう言って口元に手を添えながら、「その、すごい見るから、この色すきなのかなって」とどこか遠慮がちに言われてしまえば、ふいと目を逸らすほかなかった。「すいません」なんてつぶやくみたいに謝れば、彼女はあわててぶんぶんと手を振る。


「その、別にね、悪いとかじゃなくって。もし気に入ってくれてたなら嬉しいし……」


 ゆるく弧を描いた唇はいつもより鮮やかで、目を惹かれたのはたしかだった。けれど、それを指摘されてしまうといたたまれない。
 ……それでも。こういうときに言葉にしないことが、自分の悪い癖だとよくわかっている。


「その色、いいと、思います」
「え」
「……似合ってる」


 思い切って絞りだした声はしずかに溶けてしまいそうで、それでもしっかりとそれを受け止めた胡桃さんが、照れくさそうに笑う。「ありがとう」と頬を染めるそのすがたがいじらしくて、これから出かけるところだというのに、どうしようもない衝動がわきあがってくる。


「えっと、ね。これ、お世話になってるからって、頂き物で」


 空気が甘くふやけはじめたことを彼女も感じたのか、すこし上擦った声でそんな話をはじめるから、しずかに耳を傾けた。……頂き物。相手は釘崎あたりだろうか。


「あの、前に任務関係で知り合ったひとがいるって話したでしょ、恵くんも会ったことあるよね。こないだの任務でまた会う機会があって、それで」


 ぴく、と眉がうごくのが自分でもわかった。うつむきがちに話す胡桃さんは、それに気付かない。

 ……話に出てきた、その男は。俺が見る限りだがきっと、おそらく、高確率で、胡桃さんに好意を持っていた。単に人当たりがいいだけかもしれない、と自分の勘から目を逸らしたりもしたが――こんなものを贈るなんて、もう、無視なんかしてらんねえだろ。


「恵くん?」


 顔を上げた胡桃さんと視線がかち合って、それから、唇が、つやめいて。我慢ならなかった。ずいと距離を詰めると、「え」と戸惑ったように胡桃さんは後ずさって、すぐにそのちいさな身体は壁際に追いやられる。「恵くん」とまた焦ったように俺の名前を紡ぐ唇を見遣って、強引に頬に手を添えた。
 情けない嫉妬だ。わかってる。わかっていても、他の男に贈られた口紅に、呑気に「似合ってる」なんて言ってのけた自分が許せなかった。黒いもやが心の内を満たして、その衝動のまま、唇に親指を乗せる。ぐいと雑に拭ってやれば、その色も艶も、たちどころに霞んでぼやけてしまう。


「ど、したの」


 ……俺だけでいいだろ、胡桃さんを彩るのは。そんな独占欲が渦巻いて、けれどみっともなさに口には出せなくて。淡い色にすがたを変えた唇に、噛みつくみたいなキスをした。


「ん、ぅ……」


 見開かれたたったの数センチさきの瞳が、戸惑いと、それからほんのすこしの期待を映す。

 ――何色の口紅がすき、か。何色を纏っていたって、嬉しそうに化粧をして楽しそうに洋服を選ぶ胡桃さんは、いつだって綺麗だ。そう、思っていたはずなのに。それがたったひとつ、他の男にかたち作られただけで気に食わなくなるなんて、そんな俺を知ったら胡桃さんはどんな顔をするだろうか。……きっと、しょうがないなぁなんてやさしく微笑むんだろう。



バレンタインポストに頂いた台詞をお借りしました。
20220201



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