おたがいさまの攻防戦



「口内炎?」
「うん……今日のお昼ご飯の時に噛んじゃって、たぶんそのせいで……」


 ちょうど下のくちびるの裏側、小さく膨れた口内炎のきっかけを恵くんに告げると、少し呆れたような顔をされてしまう。しょうがないなとでも言いたげに、それでも心配そうな色を滲ませて「大丈夫ですか」と訊ねてくれるから、「結構いたいかも」と正直に答えてみる。こうして私が軽いドジをやらかした時、恵くんが世話焼きっぽい表情をみせてくれるのが、実を言うとすごく好きだった。恵くんには、言ったことはないけれど。


「さっきご飯食べてる時も、実はちょっとしみてたんだよね」
「……どの辺りですか?」


 話しつづけていると、洗い物を終えた恵くんがふと水を止める。そうして軽く手を拭いて、ソファに座る私のところへずんずんと歩いてくるから、これから起こることを勝手に想像して少し、心臓がふるえた。


「えっ……と、下くちびるの……裏のあたり」


 灯りがくらく遮られて、私の前で屈んだ恵くんとばちりと目があって。おもむろに手が伸びてきて、それはやましいことなんか何もはらんでいないのに、どきどき鼓動を打つ胸が顔にゆっくりと熱をあつめていく。はじめに指先は頬に触れて、少し濡れたそれについ目を瞑った、とき。「なんつー顔してんですか」なんて、恵くんが笑う声が耳に届いた。
 ……なんつー、顔。私、どんな顔してたんだろう。「……や、なんか、だって」なんてもごもごと口ごもると、また恵くんは少しだけ笑った。


「見るだけですよ。口内炎」
「……う、ん」


 そうは言ってもやっぱりなんだか恥ずかしくて、一度交わった視線をまた目を閉じて断ちきってしまうと、親指がそっと下くちびるに触れる。きっと刺激を与えないよう、ずいぶんとやさしく慎重に、柔らかくくちびるが押し下げられて。
 ああだめだ、リップ塗り直してないからかさかさだ、なんてしょうもないことを考えながら、ソファについた手をぎゅうと握りしめていた。

 ……そうして。ぱっ、と閉じたままの瞼の外が明るくなって、恵くんの香りと感触がふわりと離れて、解放されてしまったことを静かに悟る。恐る恐る目を開けると、腕を組んだ恵くんがそこにはいて、情けなくもまだ少し私の心臓はどくどくと音を立てていた。


「……結構ひどいですね」
「あ、うん、そ、そかな」
「薬ありましたっけ」
「どうだっけ……」


 ぼうっと返事をする私に、ふっと目元を緩めて笑う恵くんのあれこれはきっと、……わざとだ。からかわれたり、恵くんが一枚上手なのはもういつものことでも、なんだかちょっとだけそのしてやったりな顔に仕返しをしたくなったりなんかして、「あのね」と恵くんを見つめる。少し眉を上げて私を見る恵くんのまつげが、小さく揺れていた。


「わりとなんでもしみちゃうから、その」
「はい」
「……しばらく、キス、できない、かも」


 わずかな沈黙のあと、恵くんのまばたきが速くなって、「ああ……」と返ってきたのはぼんやりした声。ふいっと顔を逸らした恵くんは、気付きたくないことに気付いてしまったような残念さを滲ませているように見えて、口元が尖っているのはきっと、私の気のせいじゃない。……もうちょっとだけ、からかってみてもいい、かな。


「恵くん、……さみしい?」
「……何がですか」
「……キス、できないの」


 ぐっと眉間にしわを寄せて、ふう、と小さく息を吐く。怒っているわけじゃなくて、これは照れ隠し。言うと本当に怒るから言わないけれど、ちょっとそれがかわいくて、だから「そう言うそっちは」なんて質問に、すぐに反応できなかった。


「……え?」
「……だから。アンタは寂しくないのか、訊いてんですけど」


 軽く首をかしげた恵くんの、黒く艶のある前髪がさらりと目にかかって、そうやって見つめられてしまえばもう、絡んだ視線はほどけない。


「……さ、さみしい、けど……」


 ぐん、と身体の右側が沈む。恵くんがソファに置いた手でかけた、その重みで。
 頬にやわく触れたそれは、ごくごく小さなリップ音をのこして離れて、かと思えば、次はおでこに。とっさに目を瞑ると、まぶたにまでくちづけが落とされて、思わず引き結んだくちびるの裏側で、ぴりりと口内炎が痛んだ。


「こら、痛いでしょ。力抜かねえと」


 恵くんの指先がすっとくちびるを撫ぜて、耳のふちへの軽いキスといっしょに囁かれた声が、じわりと身体の奥の奥に沁みていく。
 ゆっくり、ゆっくり目を開けると、ぱちぱち瞬きをくり返してしまう視界のなかで、少しだけ頬を赤くした恵くんが、私をまっすぐに見つめている。……照れるくらいなら、こんなことしなきゃいいのに、なんて。そんなことを思ったけれど、それはお互いさまだ。どきどきしながら、照れくささを押し込みながら、どこか期待を滲ませながら、さみしいかどうかなんて、私のほうだって訊ねてしまったのだから。


「俺は寂しくないですよ」
「めぐみくん、」
「……ここじゃなくても、できんだろ」


 また。くすぐったいくらいゆるく柔らかに、恵くんの親指が私のくちびるをなぞっていく。それからそっと髪を撫でた恵くんの手は、だらりと垂れた髪を耳にかけて、その指先の熱にもう浮かされはじめていた。髪にくちづけた恵くんが、小さく、低くかすれた声で、「胡桃さん」とささめく。


「ちゃんと、寂しくないようにしてあげますよ」



20210824



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