ぜんぶ雨のせい



「ぜんぶ雨のせいですよ」


 雨音をくぐり抜けてきた、短く、でも柔らかな優しい声。きっと私を慰めるための言葉だった。ベッドに腰掛けた恵くんが、あったかい手のひらで私の額に触れる。かるく頭を撫でてから離れていったそれは、たしかな体温をのこしてくれた。

 お休みが重なった今日、本当はお出かけするはずだった。恵くんの本とか私の服だとか、ふたりでお買い物に行こうと昨夜話し合っていた、のに。
 低気圧にめっぽう弱い体質の私は朝からどうにも体調が優れなくて、「顔色悪いですよ、大丈夫ですか」なんて恵くんにまで言われてしまえば、もう。頭を揺らすような痛みに、知らんふりをしてはいられなかった。
 そのまま宥められてベッドに戻れば、気だるさでまた瞼は落ちて、起きればお昼を過ぎたころ。体調だけはずいぶん回復したけれど、もうこんな時間だし、恵くんとの予定もなくなってしまったし。悲しくて申し訳なくて、泣きそうな声で謝った私に、恵くんは言った。ぜんぶ雨のせい、と。


「体調はよくなったんですか」
「……うん、だいぶ……」
「じゃあ、それでいい。謝ることないですよ」


 そう言ってベッドから立ち上がった恵くんが、「どうですか、食欲は」と、布団を目元までかぶった私と目を合わせてくれる。どうだろう、ちょっとお腹は空いていて、でも食べたいと思うほどでもなくて――それ、より。


「……ご飯は、いいから」
「ん?」
「いっしょにいて、ほしい……な」


 ちょっと、らしくないことを言った自覚はあった。気を遣いすぎて正直に言えないことも多い私だから、恵くんもそう思ったのか、ほんの少しだけその目が見開かれる。けれどすぐにふっと緩んで、ぎし、と程なくしてベッドが沈んだ。また同じように腰掛けた恵くんが、枕に流れた私の髪をひと束掬う。向けてくれる視線がとろけているのは、きっと自惚れなんかじゃない。


「……今日は素直ですね」
「たぶん……雨の、せい」
「そうですか」


 一瞬だけ笑った恵くんは、その手でやさしく髪を梳いてくれて。か思うと、くるくると指に絡めて、はらりと落としてしまって――しばらくそうしていて、つい目で追っていたそんな動きが、ぴたりと止まる。
 すると、ばっ、とおもむろに布団をめくられて、突然のことにすぐに反応できなかった私に構わず、恵くんはするりと私の横にすべり込んできた。「恵くん」と呼べばそのままぐいと引き寄せられて、つむじに軽く口付けまで落とされてしまって。なんだかとくべつ優しい、というか――恵くんはいつも優しいけれど、今日はそれが一段とわかりやすくて、甘い。普段そうお目にかかれない甘ったるさに、くらくらする。


「どうせ一緒にいるなら、……いいでしょ、この方が」
「う、ん……」


 とん、とん、とゆるく背中を叩かれながら、どきどきと照れくささを飛び越えてきた嬉しさが、ぱっと花ひらくみたいな心地がした。暗く重たかった身体に、こころに、少しずつゆったりと陽がさしはじめるような。


「……恵くんも、……雨のせい?」


 恵くんの身体が、ちいさく揺れる。笑ったのかもしれない。そうして「そうかもしれませんね」と背中を摩られて、だったらもうぜんぶ雨のせいにしてしまおう、なんて、思って。身体にぐっと力を込めて、ほんの一瞬だけ恵くんのくちびるを奪って、また逃げるみたいに胸元に顔を埋めた。


「わるいことばっかじゃ、ないね」


 ん、とごく短く返ってきた声と、頬に添えられた手に、今からのことを考えてつい口元がゆるんだ。このまま寝てしまってもいい。そうじゃなくても、いい。
 窓のそとではしきりに雨音が響いて、雨粒はどれも冷たくて、けれど。恵くんのとなりは、こんなにも暖かい。雨はまだ止みそうにないけれど、今日はこれでいいね、きっと。


20210824



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