足音はマリンブルー



「いやいやいやいや無理です」
「だーいじょうぶ。いけるいける」
「む、むりです……さすがにキツい……」


 折り入って相談があるんだけど……と、五条先生がめずらしく丁寧に連絡してきたと思えば。向かった先の高専の一室で、私はひたすら首を横に振ることしかできない事態になっていた。

 懐かしい教室の一角、ハンガーにかけられた見覚えのないセーラー服。紺色をベースに、シンプルなラインとスカーフが施されたそれは、いわゆるお嬢様学校の制服なのだろうと思う。そんなお上品なセーラー服を指差した恩師が、あろうことか「胡桃、これ着て」とヘリウムガスもびっくりの軽さで言うものだから、意味がわからずドン引いた。元教え子に何をさせるつもりかと。
 ……落ち着いて聞けば、これは“潜入任務”らしい。高専にほど近い場所にある女子校内の、呪物の現状確認、なんていうよくある任務だ。長らくその場に置かれている呪物は下手に動かす方が良くないとかで、ある程度の等級の術師が定期的な見回りを行いつつ、余程の問題がない限りは回収などはしないのが決まりだった。


「いや、あの、だから……どうして私なんですか」


 その見回りを、五条先生は私に行けと言うのだ。私は高専を卒業して数年、もう制服なんて着てはいられない年齢だ。制服テーマパークなんかはまだ許されるのかもしれないけれど、現役女子高生の中に混ざってしまったらそれはもう、間違いなく浮く。でも五条先生は「だって君が適任なんだもーん」なんて頬を膨らますから、年甲斐もなく泣きそうになった。


「言ったでしょ。現役の高専生で等級が足りる子は居ないし、都合も年齢もクリアしたのが胡桃ってわけ」
「いや年齢、私って……アウトじゃないですか」
「セーフセーフ。僕から見たら高校生と変わんないよ」
「うそだー……じゃあその……教師側とかで、ほら……」
「生徒の方がはるかにスムーズだからさ。ま、ほんと一日だけだから頼むよ。今ならこの制服もプレゼントしちゃうよ?」
「い、いらないですよ……かわいいけど……」
「胡桃が要らなくても恵が喜ぶから」
「……恵、くん?」


 前触れもなく、同棲している恋人の名前を出されて首を傾げると、「そ、じゃあそういうわけだから」と強引に話を畳まれて、五条先生はスマホをぽちぽちいじり始める。……どうやらこれはもう、反論の余地なく決まっていたことらしい。相談もなにもないじゃないですか、なんとなくわかってたけど。

 セーラー服を抱えて帰路につきながら、五条先生の言葉をこっそり反芻する。恵くんが喜ぶ? よ、喜ぶかな……? どう頑張っても、セーラー服を着た私とそれを見た恵くんが和やかで喜ばしい雰囲気になるビジョンが見えてこない。「……大変そうですね……」と、言葉を探した末に当たり障りのない感想をくれる恵くんが脳裏に浮かんで、もうそれだけで気まずくて身体の芯がゾワゾワしてきた。
 なんとか、なんとか目立たないよう上手くやって、恵くんにも見つからないように気をつけよう。サッと終わらせて、サッとクリーニングに出して、スマートに返却させていただこう。そう決意して、まずは帰宅後どこに隠しておこうか私は頭を捻りはじめたのだった。



 けれど、往々にして人生とはうまくいかないものである。

 まず、例の任務日の前日から恵くんは遠方に泊まりで、そして予定ではその次の日まで帰ってこないという、鉢合わせる可能性のないプランが判明した時にはつい小躍りしてしまった。こそこそとセーラー服を着込んで向かったその女子校でも、放課後の女子高生の眩しさにこそ当てられたものの目立つこともなく、呪物もきっちり現状維持で問題なし。何事もなくすんなり学校を出られて、本当に、上手く行きすぎていたのだ。


「ああ、おか、え、り……」
「あ……」


 報告書は明日にしよう、とにかく着替えよう、そう思って帰宅した空っぽであるはずの家は、空っぽじゃ、なかった。ローファーも適当に脱ぎ捨ててリビングの扉を開けると、大きな荷物を下ろしている、おそらくちょうど帰宅したてであろう恵くんと目が合って。お出迎えの挨拶が実に気まずく途切れるから、頭の中は見事にショートして、そのままの格好で立ち尽くしていることしかできなかった。お嬢様学校の、セーラー服姿のままで。



◇ ◇ ◇




 一日ぶりに会った、任務に出かけていたはずの恋人が、見覚えのないセーラー服を着て帰ってきた。

 ……いや、どういう状況だ、これ。ぽかんと立ち尽くした胡桃さんを見つめて、俺も立ち尽くしたまま頭をフル回転させていく。もちろん俺が交際しているのは高校生なんかでは断じてないし、むしろ歳上、同じ高専をたしかに卒業した人であるはずだ。だから……と頭の中をまとめようとしているのに、視覚情報があまりにも膨大すぎて、思考が散乱していくのを止められない。

 シンプルな紺色のセーラー服はきっちりとした長袖で、スカートだって規則正しく膝丈で揺れている、けれど。四角く切りとられた首元、ハイソックスとのあいだに覗く脚、ひかえめに握られた小さな手――それらの細くあどけない白さが際立つようで、何もいかがわしいものなんか見ていないはずなのに、身体の奥がずんと熱く脈打つ。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、ゆっくりと頬を染め始めるその表情にも、意識を、奪われて。


「あ、これ、ね、あの……」


 ひゅ、と息を吸った。ひとりでに呼吸が浅くなりかけていたところで、ゆっくりゆっくり後ずさる胡桃さんが上擦った声を溢し始めるから、飛びかけていた意識が返ってくるような心地がして。「は、はなせばとっても、ながくなりまして」とカタコトで話し出す胡桃さんを見遣って、小さく首を振った。


「……分かってます、から、そんな焦んなくていいですよ」
「ご、ごめんね……」
「……それ、どうしたのか、訊いてもいいですか」
「あ、うん……」


 相当気が動転しているのか、なぜか少し泣きそうな顔をしながらこちらに近付いてくる胡桃さんは、先に着替えてしまうとかそういう思考を持ち合わせていないらしい。……それならそれでいいか。着替えなくていいんですか、なんて言ってやる選択肢もあったが、だんだんと鮮明になってきたこの状況に、いやに胸が高鳴っている自分がいた。

 ソファに隣同士に腰掛けて、しどろもどろに話してくれた内容によれば、やはりと言うべきかこれは任務のための制服だったらしい。自分もかつて、他校の制服を着込んで潜入したことをぼんやりと思い出した。「五条先生が無理言うから」なんて文言がこの短い説明の中に四回出てきたので、胡桃さんが任務に向かうまでの流れはだいたい予測できたが、件の五条さんに頭ごなしに恨みを向ける気には、今だけ、なれないでいる。


「だいたい分かりました。……それで、任務は終わったんですか」
「うん……今日ちゃんと終わって、制服もその、くれるみたいな話だけど……返そうかなって思ってて」


 いや勿体ねえ。とっさに言いかけて、慌てて口を噤んだ。――先ほどからずっと、なんだか訳の分からない高揚感に包まれている。少し手を伸ばせば触れられそうな位置にある指先を意識するだけで、ぐらりと視界が揺れるような心地がして。きっちり折り目のついたスカートに、そこからちらりと見える膝に、体温が上がっていくのがわかる。……まさか、胡桃さんのこんな格好に煽られてしまうなんて、と。どうしようもなくむしゃくしゃするのに、今この瞬間に理性がギリギリを保っていて、自己嫌悪に割く意識が残っていない。

 中学、高専と制服姿は見てきたけれど、中学の頃は制服なんてもの当たり前だったし、高専だってあれはほとんど仕事着みたいなものだったから、意識したことなんてなかった。けれど大人になって制服から離れて、今までに見たことのないセーラー服という要素までぶつけられて、正常な判断能力がみるみるうちにすり減っていくのを、ひしひしと感じる。


「……返さなくていいって、言われたんですね?」
「……え? うん……でもほら、さすがに似合わないし、着る機会も、ない、し……」


 膝のうえで握り込まれていた手に、そっと自分のそれを重ねる。上質な生地のざらつきが冷たくて、胡桃さんの手はまだ少し震えていて、自分の手のひらは汗ばんでいて。ゆっくり、言葉が途切れていく。覗き込んだその先、潤んだ瞳が揺れている。戸惑いを隠せない表情に、俺が作った影が、どんどん落ちていく。


「……すげえ似合ってる」
「え、」
「可愛い、胡桃さん」


 めぐみくん、きっとそう呼ぼうとした唇を塞いで、震えた肩を引き寄せた。んん、とくぐもった声も飲み込んでしまうみたいに、口付ける。恨み言なら後で聞く。割り入れた舌で咥内を荒らしてやりながら、心の中だけでひとこと謝った。今はただ、もう、この熱さに身を任せてしまいたかった。



20210527



- ナノ -