ハンカチと追憶




どうか握っていて と同一設定の教習所パロです。教習生目線で、伏黒教官に振られるお話。前作の夢主が最後に登場します。





 ひとつ、心に色濃く残った恋がある。「悪い、大事な人がいるんだ」と──ひどく優しい声色をさいごに、ゆっくりゆっくり枯れ落ちて、近頃やっと、抱えていけるくらいに軽くなった恋。そうだ、あの時たしかに私は、魔法にかかっていた。



◇ ◇ ◇




「伏黒教官ってさ、めちゃくちゃガード堅いらしいよ」


 ……ガード? すぐ近くできゃいきゃいと話す女の子三人組の会話を、スマホをいじるふりをして密かに聞いていると、「めっちゃ愛妻家みたいなんだよね」なんてたしか隣の学部だった子が言った。

 大学に程近いところにあるこの教習所は、前述の“伏黒教官”と、それから“虎杖教官”がかっこいいなんていうもっぱらの噂で、同じ大学の女の子で溢れ返っている。
 ……かく言う私も、せっかくならイケメンに教わりたいなんて、そんな願望を引っ提げてここに通っているわけだけど。ただ、この子たちのように騒ぎ立てたいわけでもなく、教官たちとどうこうなりたいわけでもなく、目の保養をさせてもらいたいというだけの話だ。だから別に、既婚だろうとなんだろうと構わない。まだお目にかかったことはないけれど、一体どんなイケメンが出てくるのだろうか。


「サークルの先輩、去年コクって振られたって言ってたよ」
「聞いた話、伏黒教官ってまいにち愛妻弁当らしいしね〜」
「えっでも結婚指輪してなくない?」
「……なんの話してんだお前ら……」


 高い声に突然混じった質のいい低音に、どきりと心臓が跳ねた。「伏黒教官〜!」と見事にハモった声に、さらにどきどきと鼓動が速くなっていく。うわわ、まさに噂の人。なんとなく顔が見られなくて逃げるように肩を縮こめると、いちばん声の大きい子が「伏黒教官、奥さんいるってホント?」なんてずけずけと訊くから、なぜか私が冷や汗をかいてしまう。


「プライベートについては答える気はない」
「お堅い〜」
「うるせえよ。喋ってる暇があったら勉強しろ」


 厳しそうな人だな……なんて、足元しか見えていないのに、謎の緊張で背筋がずんずんつめたくなっていく。そうしてあれこれ喋り込んでいたかと思えば、女の子たちはあっさり立ち上がってどこかに行ってしまって――遠ざかる足音に、肩の力を抜いた時だった。


「……あ、」


 膝の上からすべっていったハンカチが、はたりと無機質な床に落ちた。あわてて拾おうとすると、いきなり黒い靴が視界に映り込む。……さっき、穴があくくらいに見つめ続けた足元だった。


「落としたぞ」


 ハンカチを拾った手は、軽くほこりを落とすみたいにそれを払ってくれる。それからずいと差し出されて、落ち着きかけていた心臓がまた騒ぎはじめた。大きな手に乗っかった私のハンカチは、なんだか不釣り合いで――恐る恐る手を伸ばしながら、そっと、目線を上げて。

 ……落っこちた。

 もうそれは、信じられないくらいに格好良かった。いや、かっこいいとか格好良いとか、なんだかそんな言葉じゃ到底たりない。深く混ざりあったような色をした瞳が私を見つめて、それだけで目の前がぐらぐら揺れた。沸騰したみたいに上がりきった体温、きっといま私の顔は真っ赤で、まだ離れたくないのに逃げ出したいような感覚にとらわれる。


「……どうした」
「あ、……」
「お前のじゃなかったか」


 ゆっくりと退かれていくその手を追いかけたくてもできなくて、とにかくぶんぶんと首を横に振った。すると、ぴたりと手が止まる。私のです、まちがいなく。そんな言葉も喉につっかえてどうしようもないのに、当の伏黒教官は「良かった」なんてほんの少し目元を緩めるから、もう、これはだめ。ハンカチを手渡されて、指一本触れてなんかいないのに、受け取った手がじんじんと熱くて溶けてしまいそうだった。

 それが、短い恋のはじまり。


 教習所に通っているあいだ、伏黒教官とした話はそう多くない。緊張してまともに話せなかったり、そもそも彼の口数も少なくて。……それでも、技能教習が伏黒教官だとほんとうに嬉しかったし、冷たく聞こえても的確な指導が私は好きで、教習後にすこし優しい表情で「頑張ったな」なんて言われるたびに、どんどんと想いが募っていった。

 ……真偽が確かでない既婚問題については、本当、だと思う。すれ違ったり同じ車に乗ったり、そんな時には伏黒教官からは柔軟剤の香りがする。身だしなみがとってもきれいで、お茶はいつも水筒で飲んでいて、それからお昼はお弁当らしい。これは虎杖教官が「俺よくここで昼食べてんだけど、伏黒は弁当だから付き合ってくんなくてさぁ」と、教習コースの牛丼屋さんを指差していたことで知った。そしてこれを社会人のお姉ちゃんに話したら、「既婚か、もしくは同棲ね」とのことだったので。

 別に構わなかった。どうこうなりたいわけでもなかった。なかったのに、膨らみきった気持ちは行き場をなくして、抱えきれなくなって。卒業したあと、その想いをぶつけるみたいに伝えてしまったのだった。


「悪い、大事な人がいるんだ」


 一瞬目を閉じて、深く息を吸い込んで、それからまっすぐに私を見て、ひどく優しい声色で伏黒教官は言った。
 泣いて、泣いて、たくさん泣いた。あの日に拾ってもらったハンカチが、手渡されて花ひらいた想いが、ぜんぶくしゃくしゃになってしまうまで。



◇ ◇ ◇




 教習所マジックなんて言葉を知ったのは、つい最近だ。初心者マークも取れて、ひとりで高速道路にも乗れるようになったころ。ぜんぶ魔法のせいにしてしまうつもりはないけれど、どこか腑に落ちたような気持ちで、懐かしむみたいにあの時を思い出していた。

 あの時は涙を堪えるのに必死だったけれど、今ならわかる気がする。伏黒教官はまっすぐで、単なるいち教習生である私の言葉ですら、決して蔑ろにはしていなかったこと。……それから。伏黒教官の言う「大事な人」のことが、彼は本当に本当に大切で、きっと心から愛しているであろうこと。


「……よかったなぁ」


 そう、よかったなぁ、と思う。ベンチに腰掛けたままこぼしたちいさな独り言は、休日の街並みのざわめきに溶けた。
 私が好きになった伏黒教官は、最初から最後まで思い通りのひとだった。仕事に真摯に向き合っていて、教習生とは一線を引いていて、ひとりだけをとびきり大切に愛している、誠実なひとだったのだ。はじめこそ一目惚れだったけれど、きっと少しずつ知ったそんな魅力たちに、ゆっくりゆっくり惹かれていったのだから。

 ふと、顔を上げた。ほとんど無意識だった。視線が吸い寄せられるみたいに雑踏に飛び込んで、見間違えようのないすがたを捉える。──それは、今まさに思考の中心にいたそのひとだった。

 出そうになった声が、喉元で詰まる。立ち上がりかけた膝が、固まる。遠くにみえる彼の表情に浮かぶのは、私が見たこともないあたたかな微笑みだった。となりには、きらきら輝くまぶしい笑顔。並んだふたりを包む柔らかで朗らかな空気は、つい息を呑んでしまうほどだった。「大事な人」。忘れられない声がこだまして、胸のいちばん奥の柔い部分がしめつけられて、でも不思議と苦しくはなかった。
 いっぱいに息を吸い込んで、思い切り吐き出して。立ち上がったその時、膝に乗せていたハンカチが、街を彩るタイルに舞い落ちていった。ひらり、軽やかに、静かに。


 ああ、魔法がとけた。



20210513



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