きっとそろそろ37℃




 こっち、来ますか。悩んだ末に選びとった言葉に、見つめた先の双眸が数回瞬いた。きらきら小さく輝く期待を集めたみたいな眼差しを受けて、ほんの少し体温が上がる。


「……ほら、ここ」


 俺からこんなことを言い出したのが珍しかったのだろう、少し戸惑いも覗かせるなまえさんを促すみたいに言葉を継いで、ぽんぽん、と真横を叩いてみせる。ぱっ、と表情はすぐに明るくなって、嬉しそうな首肯がひとつ返ってきた。それから俺が何か言う暇もなく、腰掛けているソファが柔らかく沈んで、穏やかな香りがふわりと広がった。


「……よく、頑張りましたね」
「ん?」


 ……聞こえなかった、らしい。なまえさんを労うために絞り出した言葉はきっとあまりに小さくて、ソファに沈んで消えてしまった。「恵くん、なんて?」と純粋に不思議そうになまえさんが首を傾げるから、ひとつ短くため息をつく。情けなかった。

 単なる言い訳だが、慣れていないし向いていないのだ。褒めるとか甘やかすとか、そういう類のことをしてやりたいと思っても、どんな顔をしてどんな言葉をかけてやればいいのか解らない。そして、それが本当になまえさんの心に届くのかどうか、なんてことも。考えて考えすぎて、その上乗っかってくる照れなんて感情にも邪魔されて、このまま“なんでもない”と口を噤むのがいつもの俺だった。
 それでも、やっぱり。してやりたいと、そう思っているのは本当だ。疲れてくたびれて帰ってくるなまえさんを褒めて、それから甘やかしてやりたい。なまえさんがいつも、こんな俺にもそうしてくれるように。火照り始めた顔が赤くならないことをひっそり願いながら、息を吸い込んで俯いた。


「……なんか……怒ってる?」
「怒ってねぇよ、……よく……頑張りましたねって、言った、だけです」

 
 誤魔化すみたいに咳払いをくっつけると、一拍置いて。えっ、と歓声のような明るい声が隣から上がる。身体がかっと熱くなって、そのうえ勢いよく飛んできた彼女が腹のあたりにしがみ付くから、どくどくと心拍数が上がっていく。くそ、やっぱ、慣れねぇ。


「ねえ、すっごくうれしい」
「……そうかよ」
「うん。恵くんに褒めてもらうの、嬉しい」


 ちらりと見遣ると、言葉通りにとびきり嬉しそうな笑顔が視界に映って──堪らなくなって、つい目を逸らした。けれどもうなまえさんは、怒ってる? なんて訊いてはこなかった。


「ありがとう、恵くん」
「…………ん」


 追い討ちをかけるみたいな甘ったるい声に、なんとか返事を絞り出す。髪をかき混ぜるみたいに撫でてやりながら、こっそり心の中で舌打ちをした。むず痒くなる心臓がもどかしかった。どうしようもなく。もっと素直に甘やかしてやれたら、なんて思うのに。



20210406
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