朝涼みに立って




「伏黒くんは、恋人としっかり連絡とりたい派?」
「……いや、そういう相手、いませんけど」


 俺の素っ気ない返事に、みょうじ先輩は「もしもの話だよ」とゆるく微笑む。出会ってそんなに経ってもいない先輩、それも女子相手となんでそんな話を、なんて思ったが。嫌という訳でもなかったので、程々に付き合うことにして「まあ、時々でいいですね」と短く答えた。


「あっ、私もそんな感じなんだ」
「どうしたんですか、突然」
「えっと、私も彼氏とかはいないんだけど……イマドキな雑誌の特集見て、男の人の気持ちって実際どうなのかな、とか思っちゃって」


 なるほど、先輩本人の話なら少しやりにくいなと思ったが、そういうことでもないらしい。


「それによると、わりとね。しっかり連絡とりたい派の人が男にも女にも多いみたいで……だけど、私はあんまりそうは思わないから……」
「……へえ、そうなんですね」
「私が変なのかなって思ってたけど、伏黒くんも一緒で、なんかほっとした」
「俺が変なのかもしれませんよ」
「仲間がいると安心するんだよ」


 なぜだか楽しそうに笑うみょうじ先輩と、その後も少しそんな話を続けて頷き合った。会うのは毎日じゃなくていい。スキンシップもそれほど多くなくていい。関係自体も、緩く程々の付き合いでいい。

 ──先輩は意外とドライな方なんだなと、そんなことを思ったのは一年前の春。



・・・




 蝉が鳴いている。ヒグラシだろうか。誘われるように瞼を持ち上げると、薄っぺらいカーテンの向こうは真っ暗ではない。朝、それも早朝だなと冷静に考えつつ、懐かしい夢におぼろげに包まれたまま息を吐いた。
 ……懐かしい、は違うかもしれない。たしかにこれは随分の前のことだが、近頃はこのやり取りを思い返すことが多いから。

 まだほぼ入学したての頃、あんな話をしている時はきっとお互い思いもしていなかったことだが、俺とみょうじ先輩はつい最近、想いを通わせて付き合い始めていた。
 楽しい時は笑って悲しい時は泣いて、呪術師として生きながらも真っ直ぐであろうとするそのひたむきさに、惹かれた。本当は仕舞いこむつもりの気持ちだった。けれど他でもないみょうじ先輩が、こんな俺の存在を望んでくれたから。覚悟を決めて、一緒に歩く道を選んだ。つい一ヶ月前のことだ。

 昨夜はひどく疲れていて、メッセージの返信もしないままに眠ってしまっていた。『おやすみ!』という昨晩の挨拶に、すみません寝てました、と返そうとして、やめた。謝ったところで、きっとみょうじ先輩は気にはしていないだろうから。
 そうして代わりに送信した『おはようございます』には、なんと即座に既読マークがついた。どくりと心臓が跳ね上がって、なんとなく焦って画面を閉じようとすると──次は、先輩からの着信。


「……は、」


 だんだんと明るくなり始めた部屋にバイブレーションの音が響いて、あまりにも突然のそれは頭を混乱で埋め尽くしていく。……間違い電話か? でも、それなら直ぐに切れるはずだ。

 いや、そんなんじゃなくて。……まさか何かあったのだろうか。“みょうじ先輩から電話”なんて今までになかったシチュエーションに呆けていたが、唐突に緊急事態の可能性に思い至って、うるさい心臓を抑え込みつつも応答ボタンを慌てて押した。


「みょうじ先輩?」


 返事はない。なんとなくベッドから降りて、それから「先輩」とまた少し声を張ってみる。
 息を潜めて耳を澄ますと、電話口からか窓の外からかわからない蝉の声を掻き分けて、風が通るような音が時折聞こえる気がする。すー、すー、と鳴るそれは規則的で、……いや、ちょっと待て。


「んん……」


 ぎゅ、と心臓が握りつぶされたような心地がした。風じゃねぇよ馬鹿か俺は。寝息だ、先輩の。そしてこれはきっと、起き抜けの寝ぼけ声。
 まだ薄ぼんやりしていた視界がクリアになって、けれど頭の方はすぐにはこの情報量には追いついて来られない。覚醒し切らなくて、ちぐはぐで思考回路がまとまらない。だから、そこですぐに電話を切ればよかったと、普通なら思い至りそうなことも考えられなかった。


「ん……ぅ、あれ……?」


 布団が擦れるような音と、気の抜け切った声。可愛い──なんて一瞬思ってから、慌てて首を横に振る。ざわりと湧き上がった罪悪感が電話を切れと命令してきて、けれど、遅かった。


「え、ん……? えっ、え……?」
「……みょうじ先輩、」
「っ、わぁぁ!?」


 ガチャ、ゴトン。気付いてしまった様子のみょうじ先輩に声を掛けた途端に、響いた叫び声と衝撃音。……そうだよな、そりゃそうだろ。心当たりのない誰かと起き抜けに電話が繋がっていれば、とてつもなく驚いて当然だ。
 ……多分。みょうじ先輩は、ただ寝ぼけて電話を掛けてしまっただけだった。けれど俺はそれを受けてしまった上、呆けたまますぐに切らずにいたのだから、これは俺の配慮が足りなかった故の事態だ。一言謝ってから切ろうと、「みょうじ先輩、聞こえますか」と控えめに声をかけた。


「ごめん、あ、びっくりして落として、スマホ、」
「大丈夫なんで、落ち着いてください」
「うん、うん、……ごめん」
「……すいません、俺こそ」


 不思議がるみょうじ先輩に、とりあえず正直にことの次第を話す。それから「本当にごめんね……」とまた謝る声は消え入りそうで、俺まで申し訳なさに押し潰されそうになってくる。
 それから代わる代わる謝り合って──でも、これでは埒があかない。「とにかく」と少し語気を強めると、みょうじ先輩は押し黙った。


「……本当にこれは、俺が悪かったんで。……すいません、そろそろ、切りますか」
「いや……あ、うん……」


 何とも言えない空気が流れる。どろりと重たいそれは、さっきまでのそれとは僅かに違っていた。

 そもそも俺たちは、こうして私用の電話をしたことがなかった。任務関係で電話をしたことはあれど、互いにプライベートな時間には連絡すらあまり取っていない。おはよう、おやすみといった挨拶ぐらいのもので。

 ──連絡は時々でいい。会うのも毎日じゃなくていい。スキンシップもそれほど多くなくていい。関係自体も、緩く程々の付き合いでいい。
 そう思っていた。あのときは全て、本当の気持ちだった。恋人がいた経験があったわけじゃないけれど、いや、だからこそ。誰かからの連絡が欲しくなって、毎日だって会いたくなって、できれば触れたくなって……そんなことを考えてしまう俺がいることを、俺だって知り得なかった。


「じゃあ……また、訓練の時にでも」


 ……情けねぇ。ハプニングで始まって、きっとみょうじ先輩に恥ずかしい思いもさせたけれど、この電話を切るのが惜しいと思った。でも恐らくそれは俺だけで、この人は、違う。

 あのとき俺と同じだと笑っていたみょうじ先輩は、俺とはその言葉の通りの付き合い方をしていた。それで良かったはずだった。
 みょうじ先輩が俺と一緒に居たいと言ってくれて、お互いの唯一になった。はっきりとした関係になった。俺は、確かにそれだけで良かったはずなのに。ひどく欲張りになることを止められない自分への苛立ちは日々募って、それでもまだ膨らんでいく恋い慕うような気持ち。

 スマホを耳から離す。言いたいことはまだあった。もう少し話したいとか、今から少しだけでも会えませんか──なんて、随分な我儘まで、ぐちゃぐちゃになって絡まって。


「まって!」


 ──微かな声だった。でも確かに、赤いボタンをタップしようとしたスマホから響いたそれ。軽く肩が跳ねて、それでも慌ててスマホを耳に当て直すと、「伏黒くん、ちょっと、まって」と今度ははっきりと告げられた。


「き、きこえてる?」
「……はい」
「あ、ごめん……」


 言い忘れたことでもありました? ……なんて、予防線を張りかけて、すんでのところで辞めたとき、


「もうちょっとだけ、だめかな」
「……え、」
「あと……ちょっとでいいから、話し、たい、な……」


 弱々しいみょうじ先輩の声が、ぐらぐら、揺れて滲んで溶けていく。「だめなら、言って」なんて慌てて追いかけてきた言葉に、見えるはずがないのに首を横に振っていた。


「……駄目なわけない」


 みょうじ先輩が息を呑んだ気がした。それでも、「うん、ありがとう」なんて聞こえてきた声はまだ不安定に揺れている。唇を軽く噛んで、目を閉じた。より一層ざわめき始めた蝉の声が、もたもたと時間を追いかける俺たちを急かしている。


「……俺は、」
「……ん?」
「もう少し……みょうじ先輩の声、聞きたいです」


 もしかしたら、なんて思った。彼女もこの電話を切るのが惜しくて、もしかしたら、俺と同じように。
 ……けれど期待を引っ提げて発した言葉は、電話の向こう側の沈黙に呑まれていく。ああくそ、失敗したかもしれねぇ。すいませんだとかそんな言葉で追いかけようとしたところで、「私も」と上擦った声で突っ返される。ぐっと息が詰まった。


「私も、聞きたい、伏黒くんの声」


 呆然と立ち尽くしたまま受け止める。じわじわと広がるみたいな安堵と、それから、嬉しさ。声を聞きたいと思ってくれた。俺と、同じように。

 みょうじ先輩と俺の間にあった、壁にも似た何かが静かに静かに崩れていくような気がした。俺たちを隔てていたそれは、いざ叩いてみれば薄く頼りなくて、簡単にひびが入るような代物で。
 ……いや、初めから。勝手に俺が考え込んで作り上げてしまっていただけで、そんなものは存在すらしていなかったのかもしれない。


「本当は、」
「ん……?」
「……もっと連絡取れた方が、嬉しい、です、俺は」


 言葉を選び取る。ひとつずつ慎重に。探り合うみたいに恐る恐る、けれど渦巻く期待に背中を押されながら。するとみょうじ先輩も「うん、私ももっと、やり取りしたい」と控えめに返事をくれるから、突っ立っていた部屋の真ん中から無意味に足を動かしてしまう。


「用がなくても、……会いたいって思ってます」
「うん……うん、私も……会いたい。伏黒くんとの時間、ほしい」


 まだ日が昇りきっていないカーテンの向こう、染み込んでくる光を目に力を込めて見つめる。少しずつ、少しずつ繋がっていくような気がしていた。


「『みょうじ先輩』じゃなくて、」
「うん」
「……名前で、呼びたい、です」
「……うん、」


 夢を見ているみたいに朧げな気分だった。足元が覚束ないような不確かさ、けれどきっと夢じゃない。何度も頭の中で繰り返して、スマホを握る手に汗を滲ませて──それから出来る限りに優しく大切に、どうしたって震えてしまう声で、名前を呼んだ。「なまえ、」と初めて口に出したその響きは本当に綺麗で、転がり落ちたままにしておくにはあまりに勿体なくて。慌てて“さん”を追いかけるみたいにくっ付けると、さっきと同じように「うん」と短く言った先輩は、それでもその短さの中に確かな感情を乗せてくれた。泣きそうにも聞こえるその返事が、ゆっくりゆっくり心に熱を広げていく。


「あ、あの……」
「……はい」
「私はまた、今度でも……いい?」


 ちょっとキャパオーバーで……と続く言葉に、つい小さな笑いが溢れる。「いいですよ」そうすかした風に答えながら、次から次に現れる知らない彼女の姿に、俺の方だって心臓が早鐘を打ちっぱなしだった。

 紛れもなく恋人だったはずだ。でも名前ばかりだったその関係に、水彩が滲むように少しずつ色が付いていくような心地がして、湧き上がってくる充足感。


「……あのね……伏黒くんの声、好きなんだ」
「……っ、」
「だから声聴けるのも、名前呼んでもらうのも、って、あ、ごめん……まって……めちゃくちゃ恥ずかしいこと言って……」


 突然ぶつけられた言葉に動揺は隠せなくて、でも、ごめん忘れて、そう慌てて上擦った声を可愛らしいなんて思う余裕はあった。そんなこと、初めて知った。恥ずかしさとか色んな感情が綯交ぜになって、でも言葉にして貰えることは嬉しくて。
 ……好き、な、ところ。ふわりと脳裏に思い浮かんだのは、花が綻ぶみたいな笑顔だった。


「俺は……なまえさんの笑った顔が、好き、です」
「……んん、う、嬉しいけど、言い返してくれなくっていいよ……」
「……なんで、俺だって嬉しかったですよ」
「伏黒くん、ずるい」
「ずるいのはアンタだろ」


 もう、と呆れたみたいな笑い声がして、つられるみたいに少し笑った。幸せで、どうしてだか息苦しい。喉元がぐっと詰まるような感覚が、それでも少しも疎ましくはなかった。


「……ねえ、伏黒くん。ちょっとだけ、わがまま言ってみてもいいかな」
 

 ふと、なまえさんがそんなことを言う。楽しそうにも聞こえるその声に、なんですか、と問い返しながら、弱々しく揺れていた先刻の声が嘘みたいで口元が緩んだ。本当に短い時間だったはずなのに、この電話が繋がる前までとは、まるで関係が違っているみたいで。


「……学校、はじまる前に……少しだけ会いたい」


 さすがに、だめ? まだ僅かにふらつく言葉を捕まえるみたいに、また、見えはしないのに小さく首を横に振っていた。駄目なわけない。だって俺も、なまえさんと同じ我儘を抱えていたから。



・・・




 電話を切って、それから画面を覗き込む。黙り込んでしまったスマホにはそれでも確かに履歴が存在していて、さっきまでの時間が夢ではなかったのだと教えてくれていた。そっとポケットに仕舞って、小さく息をつく。
 カーテンを滑らせてから窓を開けてみると、壁を隔てなくなった蝉の声が少しだけ煩かった。ゆるく入り込む風からは、はっきりと夏の匂いがする。いつしか滲んでいた汗を冷やすみたいに通り過ぎたそれは、まだ涼やかな朝の温度を連れて部屋の中を吹き抜けていく。約束の時間まで、あと30分。

 全部はまだ無理かもしれない。でも出来る限りに沢山、もっと、本当のことはきっと言える。だから、伝えられる限りに伝えよう──なんて、思う。あなたと二人、朝涼みに立って。




20200331
Twitterの相互さんからいただいた素敵なお題で
書かせてもらったお話でした〜!

song by「ロマンチシズム」/ Mrs.GREEN APPLE



prev next
back


- ナノ -