純情なまま連れ去って




 ずず、と頼りない音を立てたストローから口を離して、真希ちゃんの「気にしすぎだろ」をなんとか受け止める。そうは言ったって気になるよ。


「でも……ほら、好きでしょ、大きい方が。男のひとって」
「まあ……嫌いって奴は、そういねぇだろうな」


 自分で掘り返しては何度も落ち込む私に、真希ちゃんはおそらく多少なりともイライラしている。それでも話を聞いてくれるのは、私の120円が目の前の自販機に吸い込まれて、真希ちゃんの手に握られたジュースに姿を変えているからかもしれない。

 俯いて、またため息。揃ったつま先がすぐ視界に飛び込む、見晴らしのいい胸元ですこと。
 ──そう、私は。この慎ましやかで遠慮がちな自分の胸に、ここ最近ずっと悩んでいた。


 ひとつ下の恵くんと付き合って数ヶ月、いわゆる……“そういう”経験はまだない。恵くんの距離の詰め方は慎重で、きっと私を大切にしてくれているのであろうことは伝わってきて、それでも。これからも一緒にいるのなら、いつかやってくるのだ。そういうことをする日が。

 それを意識したのは数日前、生まれてはじめてのキスをしたときから。私の部屋でそれぞれ好きなことをして、時折お喋りをしていた、そんな何の変哲もない時間に──ふと目が合ったその瞬間に空気がとろけて、甘ったるく歪んで、それから気付くと唇が重なっていた、そんなキスだった。
 触れ合う前の一瞬、恵くんは「いいですか」と訊ねてくれたけれど、だめも待っても、手の届くところにはもうなかった。ぼうっとしたまま頷いて、きつく目を閉じて受け入れて、たった一瞬がしあわせだった。しあわせだったけれど、知ったのだ。きっとキスもその先も前触れなくやってきて、こうして突然はじまってしまうのだと。

 そこからいろんなことを考えるようになって、そして。そうなったときに幻滅されないかと、胸のことが気になり始めてしまったのだった。

 もやもやとひとりで抱えていたそんな悩みを、今日初めて真希ちゃんに打ち明けた。真希ちゃんはしっかりと聞いてはくれたけれど、返事は「まあ心配すんなよ」の一点張りで、それ以上のアドバイスは望めない状況だった。


「恵は何でも好きだろ。むっつりらしいし」


 野薔薇が言ってたろ、と続けられた真希ちゃんの言葉に、いったん自分の胸から目線を外した。そして、野薔薇ちゃんにむっつりと繰り返されて怒っていた恵くんを思い出す。


「うーん、やっぱりむっつりなのかなあ……本人は怒るし否定してるけど」
「図星なんだろ」


 真希ちゃんの鋭い切り返しについ笑ってしまってから、「いや、でも恵くんはね」と彼のことを思い浮かべる。あのキスを、その瞳や熱を否応なく思い出してどぎまぎしつつも、小さく唸りつつ言葉をよりあわせていった。


「むっつりとは多分ちょっと違ってね……普段はああやってクールな雰囲気だけど、二人の時だけなんか、その……することが大胆になるって」


 ……いうか。言い切る前に後ろから肩をぽんと叩かれ、慌てて顔を上げると前にいる真希ちゃんが笑っていた。それも、とびきり楽しそうに。


「……それ、フォローになってないんすけど」
「……めぐ、みくん……こんにちは……」


 その手の主は、なんと。話題の中心にいた恵くんだった。「どーも」なんて返された挨拶のかわりに、温かい手のひらは離れて──同時に、すうっと血の気が引いていく。……この話、恵くんにどこから聞かれてた……?  
 冷や汗をかく私の横で、「なんでむっつりがどうとかいう話になってんですか」と恵くんが眉間に皺を寄せていて、あ、これは、ここしか聞かれてない、の、かな……? ぐらぐら揺れる情緒を引っ提げながら、助けを求めるように真希ちゃんを見たけれど、返ってきた笑みに私は無意識に覚悟した。──これは、よく言えば私の背中を押すときの、悪く言えば私を見放すときの表情だ。


「さぁな。まぁそれは置いといて、なまえ。さっきの話、あれちゃんと恵に訊けよ」
「さっきの話?」
「あっ、真希ちゃん!」


 私の手から空のパックを取り上げて、真希ちゃんはそれを寸分違わずゴミ箱にシュートした。
 それからあっさり遠ざかっていくから、どうしたものかと内心冷や汗をかく。思い切って訊いてみるか、いやでもさすがに、なんてぐちゃぐちゃ悩む私の横を、不意に恵くんが通り過ぎていく。そのまま彼はなんでもなさそうにミネラルウォーターを買って、私に背中を向けたまま口を開いた。
 

「……別に、なまえさんが言いたくなかったら良いですよ」
「…………良いの?」
「やましいことじゃないんでしょ」


 じゃあ、いいです。そう言って軽々と蓋を開けて水を飲む姿が、どうしてだかいっそ悔しいくらいに格好良かった。

 ……私は恵くんが好きで、恵くんをもっと知りたくて、それは怖いけど、できるだけたくさん。
 だからこうも余裕たっぷりの態度を取られてしまうと、なんというか。もうちょっと知りたそうにしてくれないかなとか、本当に内緒話に興味がないのかなとか、ひどく自分勝手であまのじゃくな気持ちがせり上がってきたりなんかして。
 あのね、と口に出すと心臓が跳ねて、ペットボトルを傾けたまま恵くんは視線だけ私に向けた。


「…………恵くんって、……胸は大きい方が好きなのかなって」
「ゴ、フッ」


 しまった、変なとこ入っちゃったのかな。げほげほと咳き込む恵くんに慌てて駆け寄って、背中をさすろうとすると手で制される。……ほんのり耳が赤いのは、むせているせいなのか、それとも。


「……アンタ、いきなり何言って……」
「ごめん……」


 口元を押さえる恵くんにハンカチを差し出すと、別にこぼしてはいないんで、と断られてしまったけれど。ジュースじゃなくて水でまだよかったなと、現実逃避にも近いことをぼんやり考えた。


「……そういう話、してたんすね」
「まぁ、そうなるかな……」


 絶妙な居心地の悪さに、勢いで口に出したことへの後悔がじわりと広がる。「あの、ほら私、スタイル良くないから、気になって」なんて上擦った声でくっつけた言葉を聞きながら、恵くんはまだ少し頬を火照らせつつキャップを閉めている。


「俺は、別に」
「……うん」
「気に、しないですけどね。そんなこと」


 残念ながら素直じゃない私の心はその言葉を受け止めて、まぁ本人の前ならそう言うよね、なんてかわいくない答えをはじき出してしまって。けれどさすがに口に出すわけにはいかなくて、どう答えたものかと俯きがちに逡巡していると、恵くんが突然「いや、すいません」と謝ってくる。意図が分からず顔を上げると、真っ直ぐに私を見据える恵くん。自然と肩が強張った。


「……その、悩んでた、んですよね。それに対して、『そんなこと』って言い方は失礼でした」
「……え、そんな、いいのに」


 恵くんは少しばつが悪そうに目を逸らして……けれど私はそんな、こんな細やかなことまで気にしてくれていることが嬉しくて、胸の奥がぎゅっと苦しくなるような心地がして。そうだ、恵くんはそういう人だ。優しくて繊細で、私のことをたくさん考えてくれる人なんだ。
 滲むように恋心が広がって、そんなところを好きになったんじゃないか──そう気持ちを噛み締めて、「あのね、恵くん」と呼びかける。恵くんの手元で、ペットボトルがちゃぷんと鳴った。


「……ありがとう。恵くんがそう言ってくれるなら、悩むことないかなって思えてきちゃった」
「……いえ」
「そもそも、恵くんのために悩んでたようなものだしね……」


 清々しいような照れくさいような、そんな気持ちをごまかすためにも苦笑いしてみせると、恵くんはどうしてだか随分と複雑な顔をしている。口をむずむずさせて、目線は逸らしっぱなし。
 どうしたのかなと口元に手をやったところで、恵くんの方からずいと距離を詰めてきた。突然のことに反応が遅れて、口元の手まで握られて「わっ」なんて可愛くない声がこぼれる。じっと私を見つめるその瞳には、熱がこもっているような気がして。どうしてだかわからないままに、私の体温もつられていとも簡単に上がる。


「……それ」
「え、」
「アンタ、それ。自分で言ってる意味わかってんですか」


 数回、まばたきを繰り返して──けれどその後に、恵くんの言わんとするところを唐突に理解してしまった。目の前で握られている手に力が込められて、一気に顔に熱が集まってしまって、待って、どうしよう、こんなの。……恵くんとのそういうことを想像していましたって、そう言ってしまったようなものじゃないか。


「……ち、ちが、えっと」


 慌てて首を振る私の前で、恵くんも少し頬を染めているような気がする。でもそれを指摘する余裕なんてなくて、唇を引き結びながら……ふと思い出す。あのキスだって突然で、逃げ場なんて見つからなくって、じゃあ、今だって……

 びく、とふたり同時に肩が揺れた。吹き込んだ強い風に、落ちていた缶が転がって音を立てたから。から、ころ、なぜかゴミ箱からはぐれてしまったその缶が虚しく音を響かせて、やっと、ここが外であったことに思い至った。風と一緒に熱を上げた空気が洗い流されて、毒気を抜かれたような心地になって……恵くんも、きっとそう。
 握られていた手の力がすこし弱まって、それでも離されないままに恵くんは息をつくから、どうしたらいいのかわからないままに立ち尽くしていた。すると恵くんが、そっと口を開く。何度目かの「すいません」だった。


「あ、いや、ううん……」
「……焦るつもりは、ないんです。本当に」
「…………うん」
「……俺は。ただそういう事をしたくて、なまえさんと付き合ってるわけじゃないんで」


 頷きながらほっとした……のも束の間、一瞬だけふせた瞳をまた恵くんが私に向ける。視線が甘く絡まって、「……でも」と小さく掠れた声に、さらに鼓動が速くなっていく。


「あんまりそういうこと言われると、……抑え、利くかわかんねぇんだよ」


 ひゅ、と息を呑んだ瞬間に手を離されて、吹き抜けた風に上がっていた体温が奪われていく。いつのまにか浅くなっていた息を深く吐き出しながら、「わかっといてくださいね」なんて小さく呟くみたいに言う恵くんを、呆然と見つめていた。


「それにさっき言った事も、適当じゃねぇから」
「……さっき?」
「大きさ、がどうとか、本当に気にしません。……アンタならなんだっていい」


 どっ、と静まりかけていた心臓が跳ね上がった。いつまでも私を落ち着かせてはくれない恵くんは、「戻った方がいいんじゃないすか、そろそろ」なんて言ってから背中を向けてしまって、けれど。その耳はしっかりはっきり赤いままだ。

 好きだなって、思う。きっと、これからも悩むことはたくさんある。でも恵くんが今みたいに、あんな事を言いながらもまっすぐに向き合って、ドキドキさせつつも安心させてくれるんだろうなって、そう思うから。──そうだね、私も、恵くんならなんだっていいよ。少し丸まった背中を、ゆっくりと追いかけた。



20210405
Twitterでのリクエスト作品でした。



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