あの恋を忘れない




「忘れなくてもいいんだよ」

 みょうじ先輩のよく通る声が俺を突き刺した。


 中学生の時、恋をした。当時はそうだと認識していなかったが、あれはきっと恋だった。同じクラスだった女子となんでもない話をして、時々一緒に帰って、やたらと目が合って、姿をみとめるだけで視界が晴れた。津美紀のことがあった時も、何も話せない俺の傍に黙って居てくれた。そのときの安堵や傾慕、苦しさまでもを俺はまだ覚えている。
 でもその女子とは、何も起こらないままに会わなくなった。何も起こさなかったからだ。俺は呪術師、彼女は呪いの見えない一般人。どうしたって交わらない俺たちの道を、諦めにも似た感情で見つめていた。そいつもどうしてだか何かわかっているような顔をして、東京へ行くと言った俺に、頑張ってねとだけ言った。卒業式の前の日のことだった。



「未練があっても、いいんだと思うよ」

 みょうじ先輩を振ったとき、初めの言葉で俺を突き刺してから、みょうじ先輩はこうも言った。


 信頼している先輩に告白された。ごめんなさいと応えた俺に、せめて理由を教えてほしいとみょうじ先輩は言った。先輩のことは嫌いではなくて、むしろ好きだった。恋愛感情かはさておき。だからこそ想いには誠実に応えたくて、掻い摘んでこの話をした。恋をして、でも一般人とは一緒に居られなくて、俺には未練があるのだと。
 みょうじ先輩は泣きそうな顔で笑って、あのね恵くん、と初めて俺を名前で呼んだ。そうして件のふたつの言葉で俺を突き刺して、「だから、付き合ってくれないかな」と、とんでもなくちぐはぐなことを言うから、俺はすぐに返事が出来なかった。




 あれから5年が経って、俺たちは付き合って5年になった。俺は頷かなかったのに、みょうじ先輩は「決まりだね」なんて言って、そのまま逃げてしまうから、成り行きで付き合うことになったのだ。
 不誠実なことはしたくなかった。だから何度も訴えかけたのに、私のこと嫌いじゃないんでしょ、お試しでいいから、私はそれでも恵くんと一緒にいたいよ。そんな言葉を返してくる先輩に少しずつ育ち始めた気持ちがあった。受け入れてもらえて嬉しい、本当は寂しかった、温もりが恋しかった、幸せが欲しかった。流されて絆されて、先輩の優しさに付け込んで、それから俺たちはずっと恋人だ。かたちだけの、恋人だった。指一本触れやしない、俺からは名前を呼ばない、好きだとも言ったこともない。時折会って食事をして、たくさん話をするような仲だった。誰かに話しにくいことも先輩には話せて、先輩もたくさん俺を頼ってくれて、薄い信頼を少しずつ重ねていった。




「恵くん、あんな始まりかただったけど、これからもよろしくね」

 初恋を思い出したのは、実に1年ぶりだった。


 いわゆる記念日を迎えるたびに先輩はそう言って笑って、俺の頭の中を思い出が駆け巡るのが毎年のことだった。初めの一年は、正直なところ毎日思い出していた。次の一年は、二日に一回、三日に一回だったかもしれない。けれど次の一年、その次の一年と、時間が経つごとにだんだんと思い出さなくなっていった。気付けば、五年目。今年はまる一年思い出さなかった。
 少し何かが違えば、あいつとこうしていたのかもしれない。寄り添って笑い合っていたかもしれない。そんなことを考えることもあった一年目、罪悪感に耐えきれず何度も別れを告げた。それでもみょうじ先輩は絶対に首を縦に振らなかった。


「恵くんにとってそれは大事な思い出で、大切な気持ちで、だから忘れなくてもいいんだよ。だけどひとりで持つには重すぎるでしょ、恵くん、辛そうな顔してるもん。だから私に一緒に持たせてほしいの。いつか軽くなって、心の奥にそっとしまっておけるようになる、その日が来るまで」


 どうしてそこまでするのか訊いた俺に、みょうじ先輩は「恵くんのことが好きだからだよ」と、言った。その優しさが、痛かった。痛いのに嬉しくて、胸の奥が焼け付くようだった。誰かに愛されていると自惚れでなく思えることが、堪らなくて。
 利用していいとか、忘れさせてあげるとか、物語でよく見るようなことをみょうじ先輩は言わなかった。忘れなくてもいいんだよ。突き刺さった棘のような言葉は、時間をかけて熱を持っていく。そこを起点にして、ゆっくりゆっくりとあの恋が溶けていく。




「こちらこそ、よろしくお願いします、……の前に」
「ん?」
「……聞いてほしい事があります」


 あの言葉が突き刺さってから五年が経った今日、太陽がさんさんと降り注ぐカフェテラスで、みょうじ先輩が軽く首を傾げた。


「ずっと、言ってなかった。俺なりの覚悟でした。まだ言ったら駄目だと思って」


 みょうじ先輩、と言いかけて。小さく首を横に振る。ずっと“みょうじ先輩”と苗字を呼んで、甘えながらも一線を引いていた。充分に付け込んでいることは解っていて、だからこそ、『その日が来るまで』と言ってくれた想いを無碍にしたくなかった。


「なまえさん」



 だから今初めて、名前を呼んだ。



「……恵くん」


 返事をするみたいになまえさんが俺を呼んで、その瞳を真っ直ぐに見る。ゆっくり、ゆっくり溶け出していた。凝り固まったあの気持ちは忘れていない。多分忘れない。それでももうすっかり軽くなって、柔らかな羽根のように心の奥底に佇んでいるのだと、気付けた。


「もう、持ってもらわなくても、大丈夫です」
「……ほんとうに?」


 その瞳は潤んでいるような気がした。日差しを吸い込んで淡くきらめいて、優しくあたたかな光を湛えて俺を見つめている。ずっと。ずっと、変わらずに。
 数えきれないほど迷惑をかけた。想像できないほど負担を与えた。そんな事ないと笑っていたけれど、きっと苦しめて悲しませた。言い知れぬほどみっともなく甘えた。俺を、救ってくれた。

 この一言で取り戻せるなんて思わない。だけど、ここから始めるために。これから永い時をかけて、なまえさんにもらったすべてを返すために。


「好きです、なまえさん」


 名前を呼ぶ。口に出すのはまだ、たった二回目の名前を。爆ぜそうな心臓を抑え込んで、机の上で静かに組まれた手にそっと触れた。それから、両手で柔く包み込む。思っていた通りにあたたかいその手と、体温を分け合えたらいいと思った。締め付けられるような心の苦しさに従って、手に力を込める。見つめ直した虹彩が溶けて、涙が一粒零れ落ちていった。

 ごめんとかありがとうとか、言うべきことも言いたいこともきっと山のようにあった。いつかきちんと伝えようと考えていたこともあった。でもまだ向き合えないとばかり思っていたから、ぼんやりと逃げていたから、綺麗に纏まってなんかいなくて。

 今はただこの時が愛おしいことだけが確かだった。恵くん、好きだよ。震える声を初めて真っ直ぐに受け入れて、きっとここから、始まっていく。



20210331
song by Aimer「コイワズライ」



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