好機逸すべからず




「……で。やっぱり、そういう雰囲気になっちゃうと思う?」
「まあ……そうでしょうね」
「そうだよね……」

 
 騒がしい居酒屋の店内でうなだれる私の前で、伏黒くんはウーロン茶のジョッキを傾けている。

 高専時代からわりと仲良しな後輩、伏黒くん。本当に久しぶりに任務が被って、任務後の流れでどちらからともなく誘い合って、ご飯に行くことになって。お互いの軽い近況報告と──それから話が進んで、個人的な相談に乗ってもらっていた。


「二人でメシ、なんてチャンス。意地でもしてくるでしょ、そういう雰囲気に」
「い、意地でも!? そんなにかなぁ……」


 ふ、と一瞬だけ笑ってから、「アンタがのこのこ着いていかなくて良かったですよ」なんてため息まじりに言われてしまって、ちょっぴり恥ずかしくなって頬を掻いた。

 相談というのは。少し前の任務の関係で出会った男性と、しばらく当たり障りのないメッセージのやり取りをしていたところで、「うちの近くにいい店があって」なんて食事に誘われたことについて、だった。
 私もばかじゃないわけで、なんとなくその人が私に興味がある事はわかっていて、行けば色々OKだと捉えられるかもしれなくて──だけど、私には“断りづらい”以外に行く理由はなくて。
 どうしたらいいかな、なんてぽつぽつ溢す私の話を、伏黒くんは難しい顔をしつつも聞いてくれた。
 そうして、冒頭の会話に戻るというわけである。


「……そういえば」
「ん」
「伏黒くんはなんで飲まないの?」


 一区切りついたところで、はじめからなんとなく思っていたことを訊ねてみる。がらり、底をつきかけたウーロン茶の中で氷が鳴いた。


「……酔って、チャンス逃したくないんで」


 ……チャンス? すでに一杯のカクテルに浮かされた頭は、ふわふわとその言葉を受け止めて。咀嚼しようと試みるけれど、なかなか読み解けない。伏黒くんもこちらを向いてはくれないし。
 首を傾げる私に構わず、「とりあえず、さっきの話」と伏黒くんは小さく言った。


「今のうちに断っといてください」
「あ、うん、そうだね」


 どこか有無を言わせないような態度に、いそいそとスマホを出してメッセージアプリを開く。思い切ってお断りの連絡を入れて「これでよし」と呟くと、伏黒くんの眉間の皺が薄くなったような気がした。


「ありがとね。伏黒くんが背中押してくれなかったら、なんかややこしい事になってたかも」
「……いえ」


 伏黒くんが小さく鼻をすすって、それから。やっと瞳に私が映り込んだ。その鋭い視線は、いつもみたいに涼しげには見えなくて──ほんの少し、居酒屋の喧騒が遠ざかったような感覚に襲われる。


「危なっかしいんですよね、みょうじ先輩」
「……そ、そうかな……」


 なんとなく見つめ合っていられなくて、目を逸らした。視線の先でジョッキがたらりと汗をかいて、コースターにしずくがじわりと染み込んで。
 どくどく、信じられないほどに心拍数が上がっていくのは。まるで怒られてしまっているみたいだからとか、そんな理由じゃない。

 そう、私だって、ばかじゃないからだ。


「男なんて皆、狼ですよ」


 低く掠れた声に、肩が強張った。無造作に机の上に置いた手を見つめる視界に、不意に入り込んでくる骨張った手。爪の先端に、そっと熱い指先が乗っかった。触れ合ったのはたったの数センチだけで──それなのに、そこから熱が伝染するみたいに体温が上がる。


「もちろん、俺も。」


 比喩なんかじゃなく、指一本動かせなかった。やわく触れているだけの指先に縫いとめられているみたいで、息遣いにすら緊張感が奔る。鼓動が、身体の奥深くに響く。言葉は喉につっかえる。
 どうして、こんなに。


「…………はぁ」


 ため息。こぼしたのは伏黒くんだった。それにびくりと肩を震わせると同時に、指先が静かに離れていく。重なっていた部分がすっと冷えて、薄れていたざわつきが途端に戻ってきた。


「……なんて。もうちょっと、気をつけた方がいいですよ」


 恐る恐る、ゆっくりと顔を上げると、その双眸は幾らか冷めていて、いつも通りに私を見据えている。……いつも通り、高専のころから変わらない視線。それはあたたかくて、いや──先刻ほどではないけれど、たしかに熱を孕んでいる。

 ……まさか。今まで私がばかだっただけで、ずっと。

 いま絶対に、顔は真っ赤だ。「伏黒くん、」そう呼ぶ声すらも情けなく上擦った。すると伏黒くんの口角がゆるく上がって、そんなことでまた心臓がきゅんと音を立てる。


「今日は、それでいいです」
「っ、え……」
「少しでも意識して貰えたんなら、それで」


 出ましょうか、駅まで送ります。事もなげに伏黒くんは言うけれど、ドキドキしっぱなしの私は言葉を返せない。目をふせてしまうと、身を乗り出した伏黒くんに軽くおでこを小突かれてしまう。降ってきた言葉にまた、どくんと心臓が跳ね上がった。


「だから言ったろ。意地でもそういう雰囲気にしてくる、って」


20210304



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