雨の届かぬこの場所で




 降ってきちゃったね。そうですね。そんな言葉を交わしてからどれくらい経っただろうか、俺たちの間にはしばらく雨音だけが響いていた。
 慌てて飛び込んだ軒下はちっぽけで、決して弱くはない雨脚が風に煽られるから、時折凌ぎ切れないしずくが身体を掠めていく。とはいえ突然のことで傘など持ち合わせていなくて、手近なこの場所で雨宿りをするほかなかった。

 誰もいなかった。俺たち以外には。

 真後ろの喫茶店には準備中の札が掛けられて、目の前にも通り雨の下を歩く人はいない。向かいの店の看板がどんどん洗い流されて、ところどころにある地面のくぼみにはもう、水溜まりが出来かかっている。

 ほんの一瞬、となりを見遣った。なまえさんは軽く俯いていて、湿った風に柔らかな髪が揺れる。真似をするように目を伏せると、濡れて色の変わったコンクリートの境界線がはっきりと見えた。
 そうして、なまえさんのローファーがかすかに地面と擦れる。ざらついた音はざあざあと降りかかる雨を掻き分けて響いて、煩いはずの夕立を遠くに感じさせるには充分すぎて。

 誰もいないみたいだ。俺たち以外、この世界に。

 そんな錯覚が脳を通り抜けて、小さな自分の息遣いすらも際立ってしまう気がした。俺たちの立つこの場所と、そのほかの空間とがすっかり切り離されてしまったかのような、非現実的でいて不思議な感覚。


「恵くん」
「……ん、」


 ぼんやり、浮かされたような意識の中で。不意に名前を呼ばれて、反応がすこし遅れる。先程まで俯いていた先輩の瞳が、今は真っ直ぐに俺に向いていた。視線が絡む速度はひどくゆっくりで、じわじわと胸の奥が溶けていくような心地がする。

 ──ここにいる。確かにこの人が隣にいることを感じて、どうしてだか。安堵感にも似た何かが身体に広がっていく。雨音に包まれた二人きりのこの静けさが、心地よくて優しくて、そして暖かいから。


「……なまえさん」
「ん……?」 


 呼び返して見つめ合いながら、「寒くないですか」と呟くみたいに問いかけた。


「……大丈夫。ありがとう、心配してくれて」


 そう応えて微笑んだなまえさんが、同じ気持ちであればいいのに、なんて。らしくもないことを密かに願う。

 しとしと降り続く雨が、水溜まりに小さな波紋を残して消える。もう少しだけ、このまま。


20210302
相互さんにいただいたシチュで書かせてもらったお話です。
素敵な案ありがとうございました!



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