7


空はきっとつかめない



 ぎこちなく握りかえされる手の感触に、雨粒で冷えたはずの身体が熱を持つ。ただ、手を握っているだけ。それでも、その先のことだって彼女としてきたのに、一年振りの感覚に脈打つ心臓は止められなかった。

 強引なことをしたとは思う。けれど今はこれが最適解だと、落ち着かないながらに自分に言い聞かせる。このまま電車やタクシーに乗せるのはいただけないし――そもそも。他でもない胡桃さんが、……大切なひとが、目の前でこんな姿でいるところを放っておけるはずがない。
 茶化すように言った「取って食いやしない」はもちろん本気で、そういう目的では断じてない。手を出すつもりなんてさらさらない。ただ……もう一度、ゆっくり話せたら。掛け違えたボタンを見つけて、いっしょに、ひとつずつ直すような時間を過ごせたら、と。弱まっていく雨のなか、紛れこませるようにちいさく息をついた。



◇ ◇ ◇

 


「あの……お風呂、ごめんね」
「…………いえ」


 ……なかなかの拷問だ、なんて考えてしまってから、振り切るみたいに手のひらに爪を立てた。今日だけはなにがあろうと絶対に手を出すつもりはなくて、それでも……びしょ濡れの胡桃さんに風呂を貸して、それから着替えがないからと押し付けるように貸した俺のスウェットは、当然ながらぶかぶかで。彼女自身もそんな格好に戸惑いながら濡れた髪をそっと拭いている、そんな姿はまあ、なんというか、目に毒すぎる。もちろん、いい意味で。
 深呼吸をひとつして、目を閉じた。思っていた以上に俺はまだ、胡桃さんのことが好きだ。彼女でなければきっと、こんな風には思わない。

 所在なく立ち尽くす彼女をソファに座らせて、仕切りのドアを開け放ったままキッチンに向かう。ずっと、はじめてふたりで合同任務についたあのときのような、なんとなく落ち着かない空気が漂っていた。


「コーヒー、飲みますか」
「えっと……ううん、大丈夫」


 そうして、その返答にはっとする。なにも知らなかったあのときとは違う。俺が自動販売機のまえでかけた質問の、それに対する彼女の遠慮を言葉どおりに受けとって、百円玉をポケットにしまいこんだあのときとは。はじめてなんかじゃ、ない。俺は彼女を知っていて、彼女も俺を知っている。たくさん見つめあってきて、時間をともにしてきたひとだ。


「……質問、変えます。コーヒー、ミルク入れていいですか」


 振りかえれば、胡桃さんはぱちぱちと瞬きをくりかえしてから、さっと頬をあかくした。どこかばつが悪そうに引き結ばれた口元を、俺は何度も見つけてきた。これは、そう。とっさに遠慮するくせがついてしまっている彼女が、ほんとうのことを言い当てられたとき、いつもする表情だ。


「うん……うん、ありがとう」


 散らかった部屋のなかからたったひとつのパズルのピースを見つけ出したような心地がして、キッチンのほうへ向き直ってから、ほんのすこしだけ口角があがった。この一年で、俺は変わったかもしれない。彼女もそうかもしれない。でも俺たちは、きっと変わらないところをまだ残していた。

 インスタントかすこしだけ迷って、このあいだ買ったコーヒー粉があることを思い出す。コーヒーメーカーに水を入れて、スプーンで香ばしいかおりのする粉を掬い上げていると、胡桃さんがおもむろに口を開いた。


「……コーヒーメーカー、買ったんだ」


 話しかけられたことがほんのすこし意外で、けれど空気が緩んだような気がして、「安物ですけどね」と返す。かち、とスイッチを入れながら、下手にひねくれた自分のこたえに後悔した。


「それでも、インスタントよりおいしいよね」
「俺は好きですよ」


 ……その、“好き”に。他意はなかったのに、ゆるくすべるように始まっていた会話のまんなかに、胡桃さんが息を呑む音がはさまった。


「……そう、そうだよね。ふ、しぐろくん、コーヒーすきだもんね」


 ――逃がすかよ、なんてほとんど無意識に思っていた。スイッチの入ったコーヒーメーカーがちいさく音を立てはじめて、そんな部屋のなかで、俺たちはふたりきり。それなのにすぐに逃げ出してしまう胡桃さんを、どうやったら捕まえてやれるのか、俺はずっと考えていた。


「好きです」


 振りかえって、瞳を見据えて、ひとこと。「えっと、うん」そう言ってこくこくうなずいている隙に歩み寄れば、髪を拭いていた手をとめて、彼女は背筋をゆっくりとのばしていた。
 

「まだ、ずっと、好きです」


 自分の声がゆがんでいることが情けなくて、けれどもう、そんなことは気にしていられなかった。ソファに手をつけば、胡桃さんは俺と距離を取るみたいに仰け反る。追いかけるみたいに、彼女のとまどう瞳をのぞき込んだ。どうしてまだ逃げようとするんだって、どうしようもなく苛立って。


「伏黒くん、」
「やめろよ」


 呼ぶなよ、そんなふうに。堪えきれなかった気持ちが音になって、彼女がちいさく肩を震わせた。慣れているはずのシャンプーのかおりが、知っているものよりもずっと甘かった。まるい瞳がうすく潤んでゆくから、唇をうばいとってしまうのは、やめた。



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