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こころの在り処



「……だって」


 こぼれたひとことと一緒に、涙があふれる。ひとつぶ、ふたつぶ、それは彼女のすべらかな頬にひかる筋をつくって、落ちていく。


「合わせる顔、ないよ」


 その唇がつむいだことばが拒絶でなかったことに、ほんのすこし、安心した自分がいた。……合わせる顔がない。人づてに一度きいてきたそれの意味を咀嚼するまえに、胡桃さんはことばを継いでいく。


「だって、私、自分のことしか考えてなかった。自分のことだけ考えて、恵くんの前からいなくなった」
「……そんな、」
「そうなの。恵くんがどう思っても、私にとっては、そうなの」


 強められた語気と涙で震えた声が、濡れつづける瞳が、俺の喉をつかえさせる。「私だって」さっきよりもずっとちいさい声が、核心にせまるような気がして、一瞬だけ息を止めた。


「……好きだよ。まだ、ほんとうに、好き」


 詰まった息が漏れて、瞬きをくりかえす視界で胡桃さんがゆれた。苦しそうに唇を噛んで、「でも」と紡がれることばを聞きたくなくて、けれど、ぐっと堪えてつづきを待つ。


「たくさん泣いて、ふたりで、ちゃんと決めて……おわかれ、したから」
「……そう、ですね」
「私の勝手でわかれたのに、また勝手に戻ってきて、そんなの、恵くんに申し訳なくて」


 ずっと向き合っていたところから俯いて、息をついた。どんなことばを掛ければいいだろう。なにをどう伝えたら、わかってくれるだろう。こんなにも好きで、ぜんぶ全部どうだっていいくらい、胡桃さんのそばにいたいってことを。


「……胡桃さんには、もう、俺は必要ないですか」


 迷った末に絞りだしたことばに、胡桃さんがすぐに首を振る気配がした。また顔をあげて至近距離で見つめれば、彼女の目からはまた涙がこぼれおちる。すこし迷って、それから、やっと手を伸ばした。――やっと、彼女にふれた。あつい体温とぬるい涙が、指先でとろける。


「……俺は、なんだってよかったんです。アンタが望む道を歩いていけるなら、それで」
「…………うん、」
「だから、お別れしたことだって、なにもアンタの勝手じゃない」


 そっと頬に添えた手のひらが、ほんのすこし震えていた。力はほとんど入っていないのに、目を泳がせる彼女が顔を逸らすことはなくて、それはこの手のひらのおかげであるような気がしていた。


「……でも。でも胡桃さんが、これからまた呪術師としてやっていくんなら、また、そばにいたいって思います」


 するりと親指で頬を撫ぜれば、かすかに開いたやわい唇から吐息が漏れた。「なんで」と泣きそうな声が追いかけてきて、それは、「なんでまだ、そんなこと、言ってくれるの」とはっきりした疑問にすがたを変える。
 

「好きだから……以外に、理由が要りますか」


 考えるよりさきに、こころが音になっていた。それくらい逸っていた。こんなにも、こんなにもこのひとを愛していて、だからそばにいたくて、涙を拭いたくて、つらさを背負いたくて、よろこびを分けあいたくて、ただ、それだけだった。


「……めぐみ、くん……」


 覆い被さるみたいに、ぜんぶを乗せてしまうみたいに抱きすくめて、名前を呼びかえす。耳元で胡桃さんがすこし息苦しそうにあえいで、けれどいま、退いてやる気はなかった。


「大切だから。それじゃ、駄目ですか」


 しん、と静寂につつまれたのは一瞬で、胡桃さんがつよく息を吐きだして、それは嗚咽に変わってゆく。声をあげて泣きはじめた彼女が俺の背中に手を回したとき、どうしようもないくらいの愛おしさが身体の芯からあふれ出て、俺のほうまで目頭が焼けるようにあつくなった。

 まだすこし水気を含んだ髪を梳いて、それからくしゃくしゃとかき混ぜて、頭ごと抱きかかえるようにしながら、片膝をソファに乗せた。ぎし、と軋む音に彼女がぴくりと震えて、見上げてくる瞳と視線がからむ。濡れた目元を伸ばした袖で拭うと、どこか気持ちよさそうに胡桃さんは目を細めた。
 そのままゆっくり、ゆっくりと手をすべらせてゆく。そうして親指のさきでなぞった唇は、涙をふくんでしっとりと濡れていた。きらめく粒をのせた睫毛が、何度も揺れる。


「キス、したい」


 もう泣いているのにまた泣いてしまいそうな顔をして、「うん」と絞りだされたたったの二音ですら、おびえるようにぐらついている。なにもかも、胡桃さんを不安にするものを残らず溶かしてやりたかった。
 俺はそばにいるんだって、俺がそうすることを選んだんだって、俺にはアンタが必要なんだって。そう教えこむみたいに、解らせるみたいに、震える唇に自分のそれを寄せた。ふれあって、それから潤んで溶けあうみたいな感覚に酔わされながら、ゆるく下唇を喰む。伝いおちてきた涙の味が、この一瞬が夢ではないことを教えてくれるようだった。



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