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離さないまま



 しばらく見つめあった末にこぼれたのは「どうして?」なんて、そんなありふれた言葉だった。けれど伏黒くんはまるで私の返答をわかっていたかのように、落ち着き払った様子で口を開く。


「さっき、釘崎から連絡がありました。俺の家の近所のコンビニで、胡桃さんがずぶ濡れで待ってるって」
「……野薔薇ちゃん……」
「見たとこ、着替えもなんもないでしょ。連れ込むみたいで悪ぃけど、……うち来てください」
「……えっ!? いやっ、それは」


 ――あまりにも突然の展開。全くついていけない。瞬きすることしかできないでいると、伏黒くんがずいと距離を詰めてくるから、視界にくっきりと影がおちる。つい身体を縮こめてしまった。


「……別に、取って食いやしないですよ」
「わ、わかってる、けど……」


 しどろもどろに口を動かす間に、肩にふわりと暖かい感触が乗っかって。「ちょっと湿ってますけど、これ着ててください」なんて言葉で、上着をかけてもらったのだと理解した。


「いいよ、伏黒くんが着ててよ」
「俺は着てる。持ってきたやつなんで気にしないでください」


 口を噤んだ私のおでこに、指先が触れる。前髪をよけるみたいになぞられて、そこから滴るしずくが頬を滑っていった。


「……だめだよ、本当に。その……迷惑かけちゃうし」


 まったく往生際が悪いものだと自分でも思う。でも、逃げたくてしょうがなかった。私にまだ優しさを向けてくれることがつらくて、やっぱり、恵くんが、好きで。ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていく感情に、これ以上振り回されたくないと思ってしまって。

 しずくが滑りおちたのと同じ場所を、伏黒くんの指が柔らかくなぞっていく。顎のあたりまで触れたその指が離れたかと思えば、伏黒くんの眉間にぐっと皺が寄った。


「ずぶ濡れのまま一晩うろつきたいんならどうぞ。……って、言いたいところですけど」
「……ですけど?」
「アンタ、そう言ったら本当に一晩うろつくと思うんで」
「え、私を何だと思って……」
「意地っ張りだろ」


 難しい顔で言葉を並べていたかと思えば、伏黒くんは短く言ってゆるく口角を上げてみせる。いっそ悔しいくらいに格好良くて、きっとそれどころじゃないのに心臓が跳ねた。
 思わず目を逸らして、それから何か言い返そうと言葉を探す私に向かって、「でも」と伏黒くんが続ける。また顔を上げると、うって変わって優しげな瞳がこちらを見つめていた。


「頑固で、それからどっか危なっかしくて」
「そう、かな……」
「……だから、ほっとけねぇんだよ」


 唇を噛む。放っておけない、と。恵くんは私によくそう言っていた。先輩は考えすぎるから、思い詰めるから、そう言って気にかけてくれた恵くんの眼差しを思い出す。


「もう、観念してください」


 ……違う。忘れたことなんて、なかった。

 差し出された手を見つめる。雨音の中、忘れもしなかった思い出が溢れ出る。
 任務終わり、ふらふらの身体を引っ張ってもらったこと。どこにでもいるカップルみたいに、恋人繋ぎでデートしたこと。喧嘩したときに避けていたら、強引に連れて行かれたこと。ふたりきりの部屋で、気持ちを探るみたいに握り合ったこと。絶望や哀しみの淵から、何度だってすくい上げてもらったこと。

 気付くと、震える手をそっと重ねていた。堪らなくなって、「めぐみくん」と呼んだ声はか弱くかすれて。すこしの沈黙のあと、恵くんはいっとう丁寧に、「胡桃さん」と私の名前を呼んでくれた。

 恵くんの大きな右手は温かくて、私の冷え切った左手なんかすっぽりと包み込んでしまう。ほら、と促されて恐る恐る足を動かし始めると、恵くんはゆっくり歩みを進めてくれる。
 手を離して右手で傘を持てばいいのにとか、腕に傘がもう一本かかってるんだから貸してくれたらいいのに、とか。いろいろ考えた。惚けていたまま手を取ったけれど――わざわざ手を繋いだりせずに歩く選択肢も、そうするだけの理由も、あまつさえ今からだって逃げ出す言い訳もたくさんあった。
 まだ、このままがよかった。あったかくて離れたくなくて、愛おしくて止められなくて、後のことも今は考えられない。考えたくない。ひとしずくだけ、冷たい雨粒にあたたかい涙が溶けこんでいった。



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