5
ふたつの傘
すっかり陽は落ちてからも雨は止む気配がなく、まとわりつく湿気が煩わしい。いや……湿気どころではなく、残念ながらほぼ全身がずぶ濡れだった。
廃ビルの呪霊を祓いにきたところまでは良かったけれど、ターゲットが建物から逃げ出そうとしてしまい、結果として雨に打たれながら戦うことになってしまったからだ。戦闘中に傘を差せるほど器用ではないし……よりにもよって、おろしたてのスーツがびしょびしょだ。まあこんな職だしスーツが長持ちするなんて到底思っちゃいないけど……クリーニング代、経費で落ちるかな。
その上、今日は補助監督さんの送迎ではなく電車移動しなければいけない日だった。しとしと降り続く雨の中、このずぶ濡れの装いで駅に向かうべきか──それとも、近場のビジネスホテルに泊まってしまおうかとも考える。不運なことに持参していた傘も戦闘に巻き込まれたのか失くしてしまい、とりあえず手近なコンビニの軒下に避難していた。
すると、ポケットの中でスマホが小さく震える。防水にしておいて良かったなぁなんて呑気に考えながら画面を覗き込むと、“伊地知さん”の文字。もしもし、と電話を取ると、およそ伊地知さんではないであろう可愛らしい声が『胡桃さん?』と私の名前を呼んだ。
「えっ、あ……野薔薇ちゃん?」
『そ、正解。お久しぶりです、元気でした?』
野薔薇ちゃんにも復帰を教えていなかったから、話すのは本当に一年ぶりだ。返事をしながら、どうして野薔薇ちゃんが……なんて考えている私の内心を察したのか、『ケータイ借りてるんです』と教えてくれた。
彼女も任務帰りで、その送迎担当が伊地知さんだそうで。帰路についたとき伊地知さんが、雨も酷いし朝比奈さんを少し遠回りしてでも乗せて帰れないか……なんて私のことをうっかり呟いてしまったらしく、えっ何!? 胡桃さん復帰したの!? と一悶着あり、今に至るそうだ。……すみません伊地知さん、ご迷惑おかけしてます。
『もう、教えてくれたって良いでしょ。また今度、色々聞かせてもらいますからね』
「う……はい。ごめんね野薔薇ちゃん」
あの身構えていなかった再会から少し経って、初めこそだいぶ動揺していたものの、今は少し落ち着きを取り戻している。真希ちゃんや野薔薇ちゃんに少し相談させてもらっても良いかもな、なんて思う。
あの日一年ぶりに会った恵くんは、相も変わらずやさしい目をしていた。心から私を慮るような眼差しだった。絆されてしまいそうで、また恵くんに迷惑をかけてしまいそうで。だから会わないようにしたくて──けれど、真希ちゃんたちにはなんて言われちゃうかな。
『で、今どこにいるんです? 伊地知さんが向かってくれるって』
「でも野薔薇ちゃん、帰るの遅くなっちゃうよ」
『いーから。今さら遠慮しないでくださいよ』
暖かさを噛み締めてお礼をしながら、自動ドアに記されたコンビニの店名をちらりと見て簡単な町名を伝える。すると野薔薇ちゃんは『えっ』と声色を突然変えた。
「ど、どうしたの」
『……うん。うん、いいのがいるわ、その辺ならいいのがいる』
「……へ? いいの?」
『そのままコンビニの前に居てください。とっておきの迎え寄越すから』
「はあ……?」
なんだ、とっておきの迎えって。改めてコンビニの店名を確認されて、五分ほど待つように指示されて──ほどなくして『じゃあまた会いましょうね』と一方的に電話が切られてしまった。えっ、なに、どういうことだろう。迎えが来てくれるってことでいいのかな。五分……?
この格好でコンビニに入るのも憚られて、充電残量も結構危ない携帯を意味もなく眺めながら、その場にしばらくただ立っていた。五分はもう過ぎて、そろそろ十分といったところだろうか──
「胡桃さん、」
突然、名前を呼ばれて。その声を噛み砕くより先に反射で顔を上げて、それから全身を思いきり強張らせてしまった。
「……え、いや、あの」
「……本当にずぶ濡れじゃないですか」
めぐみくん、と言いかけて。すんでのところで留めて、「伏黒くん」と呼んだ声は意図せず震えていた。だって、なんで、伏黒くんが。よりによってこんな時に。
え、あの、なんて意味のない言葉を繰り返してしまう私を見て、伏黒くんは軽く眉を顰める。そして「そうだろうと思った」と呟くから、首をかしげることしかできなかった。
「釘崎から聞いてないんですね、迎えの話」
「あ、え……野薔薇ちゃん、とっておきの迎えを寄越す、と……」
「はぁ、アイツ……」
ため息をついてから、少し乱れたツンツン髪を軽く撫で付ける伏黒くんの腕には、差している傘とは別のものが一本かけられていた。コンビニから漏れる明かりを浴びた横顔にはきらきらと水滴が光って、雨粒をたくさん浴びてきてしまったのがわかる。
これは、偶然通りかかったとか、どう考えてもそんな話ではなさそうで。……もしかして、
「迎えに、来ました」
答え合わせみたいな恵くんの言葉に、冷たく凍えそうだった身体の芯から熱が込み上げる。心なしか弱まった雨音に包まれながら、相も変わらずやさしい瞳を見つめ返す。