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雨が止まずとも



「…………なんで」


 俺にとっては相変わらずの一日だった。請け負った任務をこなして、報告書を作成して、そのまま高専に足を運んで――どこか空虚な、相変わらずの一日だった、はずだった。

 ぽつりとこぼした声に、目の前の小さな身体が大袈裟なほどにびくりと震えた。……それは。ずっと前に見送ったはずの背中だった。かつていつも傍で感じてきた呪力が、見間違いでも勘違いでもないことを教えてくる。嫌というほどに。
 返事をしたのはその人ではなくて、隣に立つ見慣れた銀髪の男。「お、恵じゃん」なんて薄っぺらい声には応えないで、また同じ言葉を繰り返した。……なんで……ここに、いるんだよ。


「こないだ戻ってきたんだよ。ね、胡桃」
「……五条先生、」
「本当のことでしょ」


 ……戻って、きた? どういう事だよ。こないだって、いつ。頭のなかを疑問が駆けずり回って、口の中はからからに渇いていた。  
 すると、その背中がゆっくりと振り返る。たっぷり数秒かけてから俺に向けられた瞳は、思っていたよりもずっと、強い光を放っていた。


「久しぶり、伏黒くん」
「……お久しぶり、です」
「その。……やっぱり……呪術師、やることになったんだ」
「それは……朝比奈先輩の意思ですか」
「きっかけは、違ったけど。……なんとか、やっていけそうかなって、思ってる」

 
 辿々しく、そして硬い声で交わされた俺たちの言葉は、そのままそっくり二人の隔たりを表しているみたいだった。そうですか、なんてつまらない返事をすると同時に、かち合っていた視線が静かに取り上げられる。落ちた瞳の影が頼りなく見えたのは、一瞬。


「……じゃあ、伏黒くん。元気でね」


 隣をすり抜けていく彼女からふわりと漂う甘い香り、それは一年前までと変わらなかった。



◇ ◇ ◇




 背に腹は代えられなかった。のらりくらり躱そうとする五条さんに「そんなに知りたい? どうしよっかなー」なんて言われながら、必死に苛立ちを堪えて事情を聞いて。教えてもらえたのは掻い摘んだ客観的な事実と、それから「合わせる顔がないって言ってたよ」と、たった一言の手かがりだった。



 呪術師、ならなくていいんだって。胡桃さんにそう言われた時、俺は少しだけ迷ってから「良かったですね」と返した。本当にそう思っていた。そのあと俺たちがどうなるかなんて事を幾らでも考えてはしまったが、彼女がもう苦しまなくて良いであろうこと自体は、本当に良かったと思ったのだ。
 けれど胡桃さんは申し訳なさそうに目を伏せて、「今まで、あんなに恵くんに助けてもらってたのに」と溢した。たくさん迷惑をかけて寄り縋って、それなのに突然自分だけ逃げるなんて、できないと。

 胡桃さんが好きだった。守ってやりたかった。幸せにしてやりたかった。俺にできないのならせめて、どこかで幸せになってほしかった。ずっとそう思っていて、そして別の未来が見つかりそうなまさに今この時。彼女の幸せは、此処にはないこともわかっていた。
 涙の膜がきらめく眼を真っ直ぐに見つめながら、「俺のことは、いいから」と告げる。彼女は唇を引き結んだままだった。


「俺は。胡桃さんがどうしたいのか、それが訊きたい」


 そっと握った手は冷え切っていて、ぽたり、繋ぎ目に涙が雫になって落ちた。幾つも、幾つも。


「…………やめたい」
「……ああ」
「呪術師、やめたい」


 ――それからも何度も迷いを見せていたけれど、結果として彼女は自分の意思に従って、呪術師としての道を進まないことを正式に選んでくれた。

 そして、俺は。その決断と同時に、胡桃さんから身を引くことを思い定めた。
 これについては、おそらく呪術師をやめるか否かよりも揉めた。はじめに別れを告げた時、胡桃さんは大きく目を見開いて――どこかわかっていたような表情を滲ませながらも何度も首を横に振っていたし、その瞳は涙で揺らいでいた。
 俺自身も、離れたいはずはなかった。何も胡桃さんだけが救われていたわけじゃない。俺だってそうだ。でも、だからこそ。幸せになってほしかった。俺じゃ、胡桃さんの望む普通も平穏も叶えてやれないから。

 幾度となく話し合った。重要で、でも不毛な議論だった。そうして冷たい雨が雪になり損ねたような日、胡桃さんは首を縦に振って、俺と離れる決心をした。



 合わせる顔が、ない。何かと思い悩みがちな彼女が言いそうなことだと思った。あれだけ時間をかけた結論を覆したこと、それがきっと後ろめたいのだろう。

 胡桃さんが戻ってきたことには驚いたし、ショックを受けなかったと言えば嘘になる。けれど状況も状況、胡桃さんが負い目を感じるのは少し違う。……それに、これはきっかけになり得るのかもしれない、そう思ってしまった俺も確かに居た。
 俺たちは沢山話し合ったけれど、それは無理やりに納得し合うことでしかなかった。だから、ひどく強引に手を離してしまった事はきっと本意ではなかった。まだ繋いでいたかったのだ、俺も胡桃さんも。

 彼女が本当に望む物を俺があげられるのか、幸せにしてやりたいと思うもののそれを叶えられるのか、まだ知ることはできない。それでも、またこの息苦しい世界で生きていかなくてはならないのなら。再び降りかかる苦悩や、惨憺たる現実から胡桃さんを守ってやるのは――俺で、ありたい。

 本気で思ってんならあんな顔すんなよ。“元気でね”なんて。



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