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微かな純情はひた隠し
向いているはずがないと思っていたのだ、呪術師なんか。術式を持っていようと何だろうと、戦うのも恐ろしいものもまっぴらごめんだったから。……それでも。それならに発言力のある本家にはどうしても逆らえなくて、ずっと板挟みだった。戦う勇気もさることながら、逃げ出す度胸も持ち合わせてはいなかった。
そんな私を、恵くんは「誰かを助けようとできる善人」だと言ってくれた。違うんだよ、私はそうするしかなくて祓っていただけで、前にも後ろにも行けないただの意気地なしなんだよ。そう言っても、恵くんは決して首を縦に振らなかった。
『上辺だけ見て言った訳じゃない。朝比奈先輩がいつも、何より人を助けることを優先してるって、俺は知ってますから』
まだ出会って間もないようなころ、恵くんはまっすぐな瞳で、少しも揺らがない声でこう言った。違うのに、な。私は、私のせいで誰かが死ぬことが耐えられないだけなのに。
……けれどそう思いつつも、恵くんの言葉に助けられている私が確かにそこに居た。小心者な私に「慎重派ですね」なんて言ってくれたり、臆病な私を責めずに「先輩なら大丈夫」と励ましてくれたり。恵くんはいつも嘘をつかなくて、だからこそ大切に選びとってくれたその言葉たちが、私の心に深く深く染み込んでいったのだ。
どうにかして前を向いていられたのは、生きようと思い続けられたのは、他でもない恵くんのおかげだった。素敵な仲間にも巡り会えたけれど、恵くんの存在がとくべつ大きかったことには間違いはなかった。
◇ ◇ ◇
不本意ながら、さっそく任務に駆り出される日々が始まった。とはいえ引退前の等級を引き継がされてしまったので、一年のブランクがあろうと単独任務だ。特に知り合いには遭遇しなくて、むしろ気が楽だったりもしたけれど。
私から連絡をしたのは真希ちゃんだけで、直接再会を果たしたのは五条先生と、あとは伊地知さんくらいだった。真希ちゃんは「何かあったら言えよ」とだけ何も訊かずに言ってくれて、相変わらずの距離感と気遣いがありがたくて、ちょっとだけ泣いた。
「お疲れ様です、朝比奈さん」
送迎を請け負ってくれたのは伊地知さんだった。行きは久しぶりの任務にそれなりに緊張していてあまり話せなかったけれど、帰りともなれば肩の荷も降りている。それを伊地知さんも察したのか、「どうでしたか」と柔らかく問いかけてくれた。
「なんだか、前より気楽にできたような気がします」
「はあ、気楽に……?」
「なんかもう、呪術師としてやっていくほかないってわかっちゃったので……」
「…………」
「あっやだ! すいません!」
伊地知さんの口元が気まずそうに歪んでいて、しまった気を遣わせたと頭を抱える。高専時代はたまに帰りの車で泣いていて、伊地知さんはそんな私を本当に心配してくれていて。繊細な感情に踏み込んでしまったことに焦りを覚えていると、「いえいえ、こちらこそすみません」と伊地知さんが小さく首を振った。
「理由はどうあれ……少しでも、前向きになれたのでしたら、それで」
「……はい、ありがとう、ございます」
実際、どこか罪悪感はあったのだ。一般人になろうとしていたそのとき、自分が不利益を被らないかぎりは呪霊を無視して過ごしてきた。自分にできることを放棄して、それによって誰かが傷ついてしまうかもしれないことに、ちくちくと心が痛んでいた。
だから今……あるべきところに戻ってきたような、そんな感覚がある。やらなくて良いならやりたくないとずっと思っていたのに、こんな風に思ってしまうなんて予想外だった。――恵くんは本当に、私よりもよく私を見ていてくれたんだな。誰かの役に立てることが多少なりとも喜ばしい、そう思える人間だと今まで私ですら知らなかったのに、恵くんはわかっていた。自分を善人だと、流石にそこまで言ってのけるつもりはないけれど。
「役に立てることが嬉しいって、ちょっとだけど今は思えるようになりました」
「……良かった、です。本当に」
「伊地知さん、たくさんご迷惑をおかけしました」
「えっ! いやいや、とんでもない!」
ありがとうございました、そうバックミラー越しに頭を下げると、やめてくださいよぉ、なんて伊地知さんは大袈裟に肩をすくめていて、ちょっと気が抜けて、笑えたりなんかもした。
それから目的地までのあいだ、伊地知さんとは車窓の外の話ばかりしていた。どこそこにコンビニが新しくできたとか、牛丼屋さんの限定メニューがどうとか。
私は“みんな”の話題を意図的に避けていて、伊地知さんもきっと気が付いている上で、あえてその話題を出そうとはしていなかった。
――私がすこし顔をあげたくらいでは、変わらないのだ。ふたりで出した大切な結論に反いて、背中を押してくれた恵くんの気持ちを無下にしてしまったという事実は。
戻ってきたのは仕方のないことだった、そうかもしれないけれど。私は普通になるどころか呪術師に復帰して、おまけにどこか吹っ切れたような心地にまでなりつつある。
それならあの私が泣いてばかりいた日々は、そして涙を呑んだ訣別はなんだったんだ、恵くんはそう思うかもしれない。……いや。恵くんが思わなくたって、私が私をなかなか許せやしないのだ。恵くんに何も返さないままに、ひとりだけ前を向こうとしているのだから。
だから本来、今さら恵くんを気にかける資格なんて私にありはしない。でもみんなの話をすれば、五条先生に教えてもらえなかった、伏黒くんの現状や今を知りたい気持ちを堪えきれないだろう……と、思ったから。
いつの間にか潰れたカラオケ店の面影の話をしながら、静かに静かに車に揺られていた。