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それは独り善がりな



 ずっとずっと、普通を望んでいた。呪術師という非日常をいきなり強制された時からずっと、普通に戻りたかった。だからこの呪術界を出ると決めた時、「普通に戻る為には、俺は傍に居たらいけないんですよ」と、儚げにきらめく瞳を見つめることしかできなかった。言い返せなかった。何が正しいのか、わからなくて。



 またこの古めかしい門をくぐることになるとは、全く思ってもみなかった。東京都立呪術高等専門学校。私の母校であり、元職場であり、昨年に訣別した地、であるはずだった。
 懐かしい道をしばらく歩くと、見覚えのある長身に特徴的な銀髪が目に入る。私に気付いたらしい彼――五条先生は、ひらひらとこちらに手を振ってみせた。軽く会釈を返して、走り寄る。


「おかえり」
「……えっと……ただいま……?」
「元気そうで良かったよ」
「元気そうに見えますか……」


 くたびれたスーツを着込んで、ぐったり項垂れているというのに。「まあね」なんて口の端を上げた五条先生に、言葉の代わりにひとつため息を返した。


「まあ、案外遅かったね」
「戻ってくるのがわかってたみたいな言い方、やめてください……」
「なんとなくわかってたしね。頑張った方だと思うよ」


 昨年の春、私は呪術師をやめたはずだった。

 まだ私が中学生の頃だった。没落しかけていた本家に、一般人として暮らしていた分家の子である私が半ば強引に引き取られたのは。ずっと知らなかったけれど、偶然にも相伝の術式を持っていたせいだった。それから突然呪術高専に通うことになり、わけもわからず呪術の道に飛び込まされることになって、取り上げられた“普通”に想いを馳せる日々を送っていた。
 けれど高専を卒業して少ししてから、本家の子どもが相伝の術式を引き継いでいたことがわかった――とかいう話で、むしろ邪魔な存在になりかねなくなった私は、もともと望んだ通りに呪術師をやめられたはずだったのだ。

 高専の方々の手も借りながら、私は一般企業に就職した。――けれど。一般人として暮らすには、いささか呪いに染まりすぎていた。
 現役の頃から、私はよく呪霊を寄せ付けてしまうタイプだった。五条先生曰く「いかにもビビってるのがバレバレ」なのがいけなかったらしい。
 幼少期にだって見えていたのに何故寄せ付けなかったのだろうと思ったが、見えていたものの呪霊の恐怖をまだ知らなかったころだったわけで、まあ五条先生の言い分にも納得がいった。

 そして、やめた後もその姿勢はなかなか変えられず。まあそれはそれは呪霊を引き寄せてしまい、普通に暮らすことは至難の業だった。寄せてしまえばその先は色々と不利益を被って、けれどどうにかしてくださいとかつての仲間に連絡するわけにもいかず、自分で祓わざるを得なくなって……こそこそと術式を行使しながら日々をやり過ごしていた。
 私の周りだけポルターガイスト現象が起こるとかで、会社でもなんとなく避けられたりなんかして、本当にいいことなんてありはしなかった。

 程なくして、上層部からお声が掛かることになる。「呪術界を無理やり出ていったくせに術式を使うな、このままでは呪詛師として処刑するぞ」みたいな、そんなところ。慌てて五条先生に連絡して、「お、じゃあ高専戻っておいでよ」なんて軽ーいお返事をいただいて、今日に至るというわけである。


「胡桃が呪詛師だなんて笑わせるよね」
「まあ……笑い事ではないですけどね」


 歩き出した五条先生の背中をゆっくり追いかけていると、「言ったの? このこと」と、足も止めないままに変わらない声のトーンで言う。どきりと心臓が跳ねて、足りない言葉でも意図が十二分に伝わってきた。


「言って、ないです」
「ええ? なんで」
「……合わせる顔がないので」


 思い出していた。――いや、忘れた日なんてなかった。伏黒くん、の、遠ざかる儚い足音と、振り返った先の萎んだ背中。見たことがないほど辛そうな表情で、いろんな感情を殺して、「さよなら」と言ってくれたこと。もっともっと深いことまで思い出してしまいそうになって、ため息をついて思考を無理やりに切った。


「……覚悟して、お別れしたから……無駄にしたくなくて」
「ココに戻ってきた時点でアレじゃない?」
「……そういうこと言うのやめてください」
「ごめんごめん、怒んないでよ」


 胡桃は怒ると怖いからなぁ、なんてきっと思ってもないことを言う五条先生に、怒ってないですけど……と口を尖らせてみせて。それから訊ねていいものか少し迷って――結局耐えきれず、「伏黒くん、元気ですか」とつぶやくみたいに問いかけた。


「気になる?」
「……そりゃ、少しは……」
「そう。ま、それなりに元気そうだよ」


 安堵しかけて、すぐに思い直す。そうだ、今さっき身をもって知ったばっかりじゃないか。私を見て「元気そう」などと宣った五条先生のその言葉は、全くもって信用ならないということを。


「そうですか、良かったです」


 私の粗雑な相槌に頷いて、五条先生は伏黒くんの話をやめた。これからの手続きとか、仕事についてとか、相変わらず適当でわかりにくい説明を聞き流す。――内心は、自己嫌悪に押し潰されてしまいそうだった。
 もしかして、伏黒くんは。1年経っても尚、私のことを忘れないでいてくれているのかな、なんて。あまりにも独善的で、自分勝手で、ひどく自惚れた考えが過ぎったから。わかっていたことだけど。まだ私は、恵くんへの気持ちを捨てきれていないらしい。



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