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春を歌にして



 あるひとりの先輩が呪術師をやめた。俺が呪術高専を卒業したばかり、そして彼女が卒業してからは一年経った、春のはじまりのことだった。彼女は明日から普通の会社員になる。命の危険もない、武器を振るうこともない、ただ自分のためだけに生きる、普通の女性として歩んでいく。彼女自身が決めたことだった。そしてずっと、彼女自身が望んでいたことだった。

 家のしがらみに引き摺られながら、望まないまま呪術高専生を続けていた彼女は、哀しそうに苦しそうに笑っていた。それらに方がついてどうにか解放されたのだ、もっと嬉しそうな顔をしたっていいだろうに。……なんて、思ってもいないことを考えた。


「……お疲れ様でした」
「……よそよそしいな、伏黒くんったら」


 数年間、共に過ごした仲間たちに一通り別れの挨拶を済ませてきたらしい胡桃さんは、最後に会う人間に俺を選んだ。――そうだろうな、と思う。俺たちは恋人だった。根っからのお人好しで、本当はひどく怖がりなのに他人のために戦って、息苦しさのなかで懸命に生きていた。守ってやりたいと思うひとだった。

 過去形だ。俺たちは昨日、他人になった。たくさん話し合って、ふたりで出した結論だった。胡桃さんが“普通”になる為には、俺は必要のない存在だから。


「……どっちがよそよそしいんすか」
「そりゃ……ね」
「……そうですね」


 春の匂いがする。まだ風は冷たいのに、日差しは奇妙なほどに麗かで、ちぐはぐだ。散々迷った末に巻いてきたマフラーに口元を埋めながら、胡桃さんの「伏黒くん」なんて声を反芻した。当たり前に、もう名前で呼んではくれないらしい。


「……ねえ」
「はい」
「ちゃんとご飯食べるんだよ。三食、バランス良く」
「……はい」


 ちゃんと食べなきゃだめだよ! と、胡桃さんの声を思い出す。コンビニ飯が続いたり飯を抜いたりすると、そのたび俺は叱られていた。そんなときに振る舞ってくれる手料理や弁当が、本当に好きだった。


「夜更かしはダメだよ、特に任務の前日」
「分かってます」


 よく言う。アンタだってよく夜更かししてただろ。眠れなくて泣いてた日だってあったろ。誰が慰めてたと思ってんだよ。


「後輩にはやさしくするんだよ」
「してますよ」


 そりゃ、この人ほどではないけれど。俺なりに優しくしてる。……多分。甘いと優しいは、違うから。


「しんどかったら、誰かに相談してね」
「…………はい」


 しんどかったら吐き出してね、と。いつかそう言われた。それは今、“私”ではなくて、“誰か”にすり替わっていた。誰かって、誰だよ。代わりなんて居ないのに。


「……泣かないで」


 泣いてなんか、いなかった。けれど表情が歪むのを止められないことはわかって、俺は今きっと酷い顔をしているのだろうと思った。でも、それ以上に。


「泣いてねぇよ。……胡桃さんこそ、」


 俺をまっすぐ見据える瞳から、しずかに、幾つも雫がこぼれおちていた。
 ほとんど無意識に手を伸ばして、震える指先が止まる。駄目だ、それは。その涙を拭うべきはもう俺じゃない。

 真っ白いシャツの袖で無理やりに目元を拭う姿を、呆然と眺めていた。下ろされた腕、その生地には黒い染みが滲んでいる。視界に入る目元もわずかに黒ずんで、そうだ、綺麗な別れ方なんて出来やしない。後悔のない死なんかないというなら、後悔のない別れだってそこには存在しない。もう、決まっていたことだ。ずっと前から。



「恵くん」



 ──最後だろうと思った。照れくさそうに、嬉しそうに、哀しそうに、怒りっぽく、楽しそうに、必死に、何度も何度も呼ばれた名前を、胡桃さんの声が紡ぐのはもうこれが最後だ。どこか幸せそうに聞こえた。けれど、ひどく苦しそうにも聞こえた。解らなくて、返事もできずにちいさく頷いた。


「生きていてね」


 また頷こうとして、……やめた。首を横に振るのもやめた。何も言えなかった。あまりにも不確かな約束で、できない相談で。……俺はこの人に嘘をついたことはなくて、それだけは最後まで守り通したくて、でも傷付けたくなかった。唇を引き結んで黙りこくる俺に、「そうだよね」と胡桃さんは無理やり笑った。


「じゃあ、ね、伏黒くん」
「……さよなら、……胡桃さん」


 最後にひとこと、消え入りそうな声で名前を呼ぶ。どんな表情をしているのかは見られなくて、そっと踵を返す足元だけを見つめていた。返事は貰えなかった。背中が向けられて、こつ、こつ、頼りない足音が鼓膜を叩く。
 ふらふらと揺れながらそれはだんだん遠ざかって、霞んでゆく。消えてゆく。まだ、隣を歩いていたかった。あの小さな背中を守ってやりたかった。手を取り合っていたかった。総て呑み下して、噛み潰して、その幻影に背中を向けた。


 どうか、しあわせで。



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