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きみとひだまりで眠りたい


 そっと唇を離して、伏せられていた睫毛がゆるりと上がってきたそのとき、無機質な音が部屋に響いた。つい互いに身体をびくつかせてしまってから、「コーヒーメーカーです」と短く伝えると、胡桃さんはまだぼうっとした様子で「そっか」とだけつぶやいた。


「……後でいいすか、コーヒー」
「えっと、」
「もう一回」


 返事も待てずに唇を近づけると、慌てたみたいに胡桃さんは目を閉じる。ふたりぶんの体温をのこしたままのそれが、柔らかくかたちを変えていった。しずかに目を閉じたままの胡桃さんはもう、逃げようとしない。俺の背中に手を回したまま。受け入れられているということが、いま、なによりも嬉しかった。


「……恵くん」


 唇が離れてすぐ、胡桃さんが俺を呼ぶ。それはなにかを伝えるためのものではなくて、ここにいるのだと、存在をたしかめるような響きをしていた。伏黒くん、じゃない。まだ聴いていたくて「もっと呼んでください」とささやけば、涙に濡れた声がまた「めぐみくん」と俺の名前をかたちづくった。


「胡桃さん、俺は」
「……うん」
「そばにいたいです」


 抱きしめて、閉じこめて、せいいっぱい。応えるように背中にまわされた腕が俺を離すまいとしているようで、こころの奥の奥から満たされていく心地がする。


「私も、恵くんのそばにいたい」


 ――あいまいで、不確かで、きっと、約束が約束として息づくことはひどく難しい。でも、それでも、このひとはうなずいてくれると思った。交わしてくれると思った。そうしてほしかった。熱くなった肺に空気をとりこんで、「胡桃さん」と名前を呼ぶ。なんども紡いで、ささやいて、叫んで、そんな名前を、いまこの瞬間、いっとう大切に。


「俺のとなりで、生きていてくれませんか」
 

 ちいさく聞こえていた呼吸音がはたと止まって、ゆっくり、ゆっくりと息を吐く音にかわる。ばくばくと心臓がうるさくて、それが緊張からくるものなのか、はたまた別の感情に突き動かされているのか、もうよくわからなかった。


「いっしょに」
「……ん、」
「一緒に、生きてね、恵くん。生きていてね」


 あの日、いちど道が分かたれた日、うなずかなかったことを思い出す。懇願するような声にも、寂しげな瞳にも、あの日といまのすべてがのせられたことばにも、つよく貫かれる。もうこれ以上きつく抱きしめられやしないのに、腕のなかのぬくもりを掻き抱いた。


「……はい、ずっと、一緒に」
「うん。うん、ずっと」


 できない約束はしないし、嘘をつきたくなかったし、嘘をついたことだってなかった。これからも、そう。だから、“ずっと”なんておぼろげで頼りないことばだって、その場しのぎなんかじゃなかった。

 ずっと、一緒に、生きる。息苦しいかもしれない。生き辛いかもしれない。そもそも死なない保障なんかない。俺たちは、明日のことだって分からない。
 ……それでも。あたたかなひだまりがあれば寄り添って、翳ってしまおうともその一瞬のぬくもりを抱きしめて、雨が降れば傘をさしかけて、ぬかるんだ道も手を取りあって進みつづけて、あめあがりにはその光に目を細めて笑いあって。どんなときもふたりで、ほかでもないこのひとと共に歩いてゆく。ずっと、一緒に。そうしていられることが、しあわせ、なのだろうと思った。

 すこし腕の力をゆるめると、胡桃さんが息を吐く音が聞こえてきた。無性に顔がみたくなって、見つめあいたくなって頬に手を添えようとすると、もぞもぞと彼女は俺の胸元に顔を埋めてしまう。


「恵くん、……その」
「……なんですか」
 

 雰囲気がどこかくだけたような心地がして、言い淀む彼女の意思をくみとろうとした、けれど。なかなか見当がつかなくて次のことばを待っていると、「さっきのは……」と彼女は言いにくそうに口を開いた。


「……ぷ、ろぽーず、かな」
「っ、は、……そ、れは」


 ……たしかに。自分のことばを反芻すれば、まさに彼女の言うとおりになりかねないそれだった。
 いずれ、いつか。もちろんそのつもりがあっても、いま、こんなとっ散らかった状況ですべきじゃないことだけはわかる。どう伝えようか黙りこくってしまうと、腕のなかの彼女がわたわたと慌てだした。


「……ご、ごめん、早とちりだったかも、」
「や、胡桃さん」
「ごめんごめん、わすれて」
「聞いて」


 語気を強めると彼女のことばはぴたりと止まって、のぞく耳があかく染まっていた。恥ずかしい思いをしているところに申し訳ないけれど、そのすがたがどうしようもなく愛おしくて、かわいくて、胸があつく満たされていくような心地がする。


「違わねえ、けど」
「っ……、うん」
「ちゃんと。また、ちゃんとさせてください。……それに、先に言うことがあるんで」
「先に……?」


 無理に覆い被さっていた姿勢をやっと解くと、ソファについていた手足にじわりと血流がとおっていく感覚。ソファから立ち上がると、胡桃さんもついてくるように立ち上がって。べつに座っていたって構わなかったけれど、どこかかわいらしくて、座っててくださいなんて声をかけるのはやめておいた。
 そうして、すこし背筋を伸ばす。髪を拭いていたタオルでのこった涙をぬぐってから、「恵くん?」と首を傾げる胡桃さんの手を、握る。


「胡桃さん」


 あと何度、この名前を呼べるのだろう。あと何度、彼女が返事をしてくれるのだろう。そもそもこの瞬間だって、本来もう二度と訪れなかったはずなのに。もうそんな欲張ったことを考えてしまう自分が嫌になって、けれど、そんなふうに胡桃さんに変えられる自分は、どこか好きになれたのだ。


「俺と」


 俺の言わんとすることを察して、それを待ちわびるように目を輝かせた胡桃さんは、「うん」と上擦った声で応えてくれた。握りかえされた手に、もうぎこちなさはない。到底まだ一年の隙間は埋まらないけれど、こうやってすこしずつ、また近づいてゆけばいい。


「また、……付き合ってください」


 口に出したそばから発火するような、そんなことばたちだった。かっと顔があつくなって、それは全身に燃え広がって、急激に体温をあげていく。さっき、必死に捕まえようと手を伸ばしていたときとはまた違う類の緊張が身体を占めて、けれどそれが心地いいとすら感じてしまっていた。
 きっと俺と同じような気持ちで、うつむきがちに頬を染めて、それでも目を逸らさずにいてくれる胡桃さんを見つめる。いま、照れあえる余裕があって、それを愛おしいと思える関係で、俺たちはまたそうなれた。
 
 そっと、そっと彼女の唇が動く瞬間、とりこまれた空気がかたちになる瞬間、そんなこと起こるはずはないのに考えた。時が止まればいいのに、なんて。


「よろしくお願いします、恵くん」


 握った手を、引く。抱き寄せる。あたりまえのようにしたことで、胡桃さんはまた、肩を震わせて泣きだした。

 彼女の涙が好きだ。それは、ひた隠される弱さがあらわれた証だから。
 彼女の笑顔が好きだ。それは、やさしさも強さもすべてを俺に分けてくれるから。

 顔を上げて、泣きながら笑う胡桃さんが言う。「だいすき」と。応えるみたいにくちづけて、目を細めた視界に存在する彼女は、とびきりうつくしかった。


 どうか、これからの日々をしあわせに。ほかでもない、あなたのとなりで。



fin.



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