視線、気付いてますか?


「あ、おはよう、無一郎くん」
「ん、おはよう」
「あの〜…………昨日は、ごめんね」
「いいよ、別に」
 そのままぺたぺたと洗面所に歩いていく無一郎くんの、絡まった髪を目で追う。扉の向こうに淡い緑が消えるのを見送ってから、小さくため息をついた。

 まず言い訳すると。めちゃくちゃ、めちゃくちゃ怖かった。
 ありがたいことに、この歳になるまで大した病気も怪我もなく過ごしてきて、なんなら骨折すらしたことがない私。事故に遭ったこともなければ、夜道で誰かに追われるとかそういう類の恐怖を感じたこともなかった。今まで生きてきて一番ヒヤッとしたのは、小学生のときに滑り台のてっぺんから落ちかけたことだった……と、思う。そうやって平凡に、そこそこ幸せに、平和ボケしながら、平成という時代を生きてきた人間なのだ。まあそうですね、何度も骨折してきたような百戦錬磨の人間だって人喰い鬼に襲われたら腰を抜かすと思うけど、それはそれとして。
 ともかくそんな平々凡々な日々を生きてきて、こんな毎日がつまらな〜いとか、特殊能力を手に入れたいとか、そんなことすら思ったことがないような生活だったのに。それがこの数日で、どうでしょう。
 大正時代からタイムスリップしてきた少年を匿い、人喰い鬼に二度も襲われ死にかける、なんて。もうバグだ、こんなの人生におけるバグに違いない。紛れもない異常事態だ。

 一晩ぐっすり寝てこんなことを考える元気も出たけれど、昨夜は本当に憔悴し切ってしまって、家についてからも震えが止まらなくて。晩ごはんだって冷凍うどんを茹でてなんとかお肉を煮て、肉うどんを作ることはできたけど味はわからなかった。無一郎くんが美味しそうに食べてくれたことだけが救いだ。
 そもそも「無理して作らなくても、かっぷめんでも大丈夫」と言ってくれたけど、あいにくお昼に食べてもらった分でストックが切れていて、あんな状況ではもちろん買いに行けないし。
 ――うどんを啜りながらした会話を、断片的にだけど覚えている。
「……ごめんね」
「いいよ、謝らないで。鬼殺隊にいるとお姉さんみたいな人はたくさん見るから」
「私、みたいな?」
「うん。だから別に気にしてない」
 ほんとうに何も気にしていなさそうな顔をしていたことに、私はむしろほっとしていた。やたら心配されたり、逆にめんどくさがられたりもせず、そこそこにしてほうっておいてくれることが。
 それから電気を全てつけたままにして、本来閉じているはずの部屋とリビングとの境目の扉を開けっ放して眠った。しばらく震えていたけれど、疲れもあったのかすぐに眠りに落ちることができて。なんの夢も見ないで、すぐに朝を迎えることができていた。


 ◇


「あの、無一郎くん」
「言ったでしょ、もう謝らなくても」
「お買い物行こう」
「……は?」
 目をまん丸にした無一郎くんから視線を逸らして、膝に置いていたスマホを手に取って「これ、無一郎くんのも買ってあげるから」なんて言ってみせると、無一郎くんは訝しげに首を傾げている。
「わ、私ね。昨日、無一郎くんがちゃんとお昼食べたのか心配で、仕事が手につかなくて」
「……そう」
「連絡とれたらなぁって、ね。思ってたの。だからさ、まあ、格安スマホになるけど。買いに行こ」
 ……三割ぐらいがほんとで、あとはこの休日のお昼、誰かと一緒にいたいがための口実。それを知ってか知らずか「わかった」と返事をしてくれたことに、ひそかに胸を撫で下ろした。
 それに服とか生活用品とか、最低限は買っておいたほうがいいかも。利害の一致、みたいな関係性とはいえ、明らかに無一郎くんの方が割を食っている。そうだ、だから命を守ってもらうかわりに、ちゃんと養ってあげないといけない。おかしな使命感のようなものが湧き上がってきて、そんな私の決意を知ってか知らずか無一郎くんはあくびをひとつこぼしていた。

「まず朝ごはん食べに行こっか」
 お互い身支度を整えて家を出る。無一郎くんの髪は下ろしていてもいいけれど、食事のとき邪魔になるかもなあと簡単に軽くまとめてあげた。それから明るいうちに帰ってくる約束をして、刀に関しては家に置いておいてもらった。ものすごく渋っていたけれど、駅前のビルにも行くとなると目立ってしょうがないし仕方ない。刀を携えた謎の長髪美少年、変にバズりそうで困る。
 とりあえずモーニングはお気に入りの古民家カフェに連れて行くことにした。掘りごたつに座った無一郎くんは「なんか落ち着く」なんて言っていて、まあそうだよね、木造建築がデフォルトの時代に住んでるもんね。あれ、もう鉄筋コンクリートはあったのかな。建築の歴史なんて知らないからわからないや。
「家は大体木造だったと思うよ」
「やだ。口に出てた?」
「うん、すごく」
 そうして、運ばれてきたオレンジジュースを吸い上げてから「思ったより元気そうで良かった」と言うもんだから、心配してくれていたのか、なんて思って。まだ固まっていた心が、少し解れた。
「ありがとうねえ、無一郎くん」
「……ん」

 モーニングを終えてから最寄駅まで歩いて、無事に電車に乗ることはできたけれど、無一郎くんはやはりめちゃくちゃ戸惑っていた。聞いたところ汽車はあるらしいが、だとしてもまず大正時代には券売機も改札もないだろう。無一郎くんの分の切符を買ったときには、機械からシュッと出てくる切符に少しびくついていたり。バタンと開く改札には目をまん丸にしていて、「これ挟まったら痛いんじゃないの?」「大丈夫大丈夫、挟まれたりしないから」と背中を(物理的に)押しながら通ったり。
 乗ったら乗ったでその速度やアナウンスに驚いていて、正直言うと実にかわいらしかった。けれどいい加減に扱い方を理解してきた私は、必死に笑いというか、微笑みを堪え続けてすごく変な顔をしていたと思う。
「電車……っていうか、汽車は乗ったことないの?」
「一回だけある」
「そうなんだ。この電車とは結構違う?」
「全然違うよ。なんか……もっとぐらぐら揺れてたし、たぶん遅かったと思う」
 へえ、と声を出しながら、ぼんやり汽車のことを考えてみる。ぐらぐら揺れて、ゆーっくり走る汽車かぁ。窓にはくたびれた自分しか映らない地下鉄と違って、色とりどりの景色がたくさん見えたんだろうなぁ。なんか想像すると、趣深いというか……あはれ……いや、わかった、これが「エモい」か。
「……本当に、百年後なんだね」
 ぽつり、そうこぼした無一郎くんの声にエモい空想から引き戻されて「え?」と返すと、「僕のいた時代からしたら、考えられないことばかりだから」なんてサラッと言うので、私の隣に座るおじさんに二度見された気がする。けれど、なんだか無一郎くんの表情が真剣だから。構わず、次の言葉に耳を傾ける。
「……俺たちの時代で、鬼を倒し切れなかった。その責任を負わなきゃいけないと思う」
「……無一郎くん」
「だから、当分は。この時代の鬼殺隊を探し当てるまでは、ちゃんとお姉さんの命を守るから」
 その声色は、真剣そのもので。「……ありがとう」と小さな声で返した。……返したけれど。
 真剣な横顔を見せる無一郎くんの視線が私に向けられることはなくて、その代わり、無一郎くんとは別の、幾つかの視線を感じる。
 ……うん。うん、結構見られてる。さっきのおじさん、斜め前に立つお兄さん、赤ちゃんを抱っこするママさん、とか。土日の午前中ともあって、満員電車とまではいかない具合でよかったけれど、このちょっと特異な会話が微妙〜に注目を集めている。
 ですよね、鬼とか命を守るとか、えっなに? ってなるよね。ありがちだけど、劇の練習なんですとか言った方がいいかな。
 そうやって冷や汗をかきながら戸惑っていたとき、天才的なタイミングで降りる駅に辿り着いた。思わず「よし着いた! 降りよう!」とちょっと大きな声を出してしまうと、「お姉さん、声大きいよ。見られてるよ」なんて言われて、いや君がね! と言いたいのを必死に堪えてにっこり笑い返した。





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