洗濯機で洗って良いですか?


 翌朝、私のアラームの音で目を覚ましたらしい無一郎くん。今日は金曜日、ばたばたと仕事に向かう支度をしていると、「おはよう」なんて目を擦りながらぺたぺた歩いてきて、なんだろうかわいいなぁ、息子ができたらこんな感じなのかもしれない。
「おはよ! お顔洗っておいで! 朝ごはんたべる?」
「……お姉さん忙しいでしょ?」
「ちゃちゃっとパン焼くだけだからいいよ! てかそんな気遣いできたんだね」
「は?」
 ちょっと顔を歪めた無一郎くんは無視して、お気に入りのトースターに二枚パンを差し込む。インスタントスープ用にお湯を沸かして、野菜は摂りたいので簡単なサラダを準備して。もしご飯派だったら申し訳ないけれど、私はパンの気分なので許してほしい。
 洗面所から戻ってきた無一郎くんは髪の毛がところどころ濡れていて、「結ばないの?」と訊いてみたら「うまくできない……」とのこと。……かわいいな。昨日に引き続き、私にも母性本能ってやつがあったのかもなんて思わされる。
 さあそろそろ食パンが焼けるぞとトースターに目を向けてから、あっしまった、と思った。ドライヤーの音にビビる無一郎くんのことだ、これはまずいかも。

「ねえ無一郎く」
 がしゃん!
「うわあ! 何!?」

 ……遅かった。ポップアップトースターから飛び出す食パンと、その音に飛び上がるみたいに驚く無一郎くん。
 やっぱりびっくりするよね、なんて思いつつ、これまた実家の猫を思い出してつい少し笑ってしまう。するとじっとり睨まれてしまうから、「や、いま言おうとしたよ? したんだけどね」なんて弁解しつつ、わざとらしく口笛を鳴らしながら朝食の準備を進めた。

 
 ◇

 
 昨日起きたことがまるで夢だったかと思うくらいに、それはそれは普通の一日だった。満員電車に揺られて、せっせと仕事して、適当にお昼ご飯を食べる。時間がなかったからとりあえずカップ麺の食べ方を教えておいたけれど、あの子は大丈夫だろうか。スマホを覗き込んでみるが、そういえば無一郎くんと連絡を取る手段はないんだった。ネット社会に浸かってしまったせいでやたらと不安だ。
 帰りも、まあいつも通りの残業を終えてから、ぎちぎちに人が詰め込まれた電車にぐらぐらと揺られてゆく。
 人食い鬼、かあ。そんなモノがもし今この世にいるのなら、大正とは違って情報網もテクノロジーもしっかりしてるし、もっと有名になっていたり、正体が明かされていたりしても良さそうなもんだけど。
 とはいえホンモノを目の前で見てしまったので、疑う余地はない……いや、もしかして本当に私、夢を見てたのかな? そう思いつつ電車を降りて、いつも通り改札を抜ける。いつも通り、だ。疲れた身体を引きずって歩くのも、駅近より間取りを優先させて選んだ自分のマンションに帰るために、街灯のない道を小走りするのも。

 いつも通り、のはずだった。

 呻き声。すこし聞いただけで、人ならざるものの声だとわかってしまうような。
 身体が固まる。何か、いる。どうしよう、嘘でしょ、そんなはず。だんだん鮮明になってゆくその声に振り向くこともできないまま、私はその場でしゃがみこんでしまって。何もできないまま、きつく目を瞑ることしかできなかった。

「夢、じゃ、なかったの」

「夢なんかじゃ、ないってば! 馬鹿!」

 昨夜はドライヤー越しに聞こえていた、ぴんときれいに張った声。
 ふわりと漂う薄い霞が、柔らかに冷ややかに広がり始解を横切ってゆく。私が弾かれたみたいに顔を上げるのと、暗い道路にひどい切断音が響くのは、ぴったり同じタイミングだった。
 ばらばら、何かが崩れ落ちる音。その不気味さをかき消すように近付いてきた足音は、決して恐ろしいものではないとわかっているのに、それすらも心拍数を上げる材料になってしまった。
「何やってるの、夜は危ないって言ったのに」
「む……無一郎、くん」
 私の前に回り込んできて、ざっと私の姿を見て、それからため息をつく彼。
 その服装は昨日の真っ黒い服で、それから、白く輝く刀を携えている。溶け込んでしまいそうな暗がりの中で、それだけがやけに眩しかった。
「あとさあ、悲鳴ぐらいあげなよ。せっかく助けに来たのに、間に合わなくなるとこだったでしょ」
 ちん、と鋭い音を立てて、手元の日本刀――いや、日輪刀が仕舞われて、光が沈む。それをぼーっと見つめながら、吐き出すみたいに大きく息をついた。その吐息ですら、少し震えている。
 助かった、助けに来てくれたのか。無一郎くんが。
「わざわざ、助けにきてくれたの……?」
「そういう約束したばっかりだよ。それにお姉さんが喰われたら、僕のご飯はどうなるの」
「そ、そうだった、ごめんごめん……」
 無一郎くんを見上げて笑ってみせようとしたのに、口角はうまく上がってくれなくて。軽口を叩こうとする喉は、その出口が狭くなってしまってひゅうと鳴る。

 目頭が、熱くなって。視界が滲んで、あふれてきた涙がぽたぽたと落ちてゆく。
 昨日はあまりにも現実離れしすぎていて、よくわからなかったけど。……明確に、迫っている。命の危機が。現実離れしすぎているそんなことが、私の身に降りかかろうとしている。身体中が、本能的な恐怖に取り憑かれているようだった。
「……お姉さん」
「ご、ごめんね、私、ったら」
 小さく笑って立ち上がろうとするのに、身体は言うことを聞かなくて。また「ごめんね」となんとか謝ると、てっきりため息でもつくのかと思っていた無一郎くんが、何も言わずに私の前にしゃがんでいる。それも、背中を向けて。
「……どうしたの?」
「帰ろう。もたもたしてたらまた襲われる」
「えっと」
「乗って。お姉さんぐらいなら背負える」
 いや……と口籠る私をよそに、「乗って」ともう一度、強い口調で言ってくる無一郎くん。……これ以上何か言ってもきっと機嫌を損ねるだけだし、そもそも身体はうまく動かない。意を決してそんなに大きくはない背中に寄り掛かってみると、すぐにふわりと身体が浮いた。
「わ、あ、おも、重くない?」
「全然」
 軽々、まるでぺったんこのナップザックでも背負っているみたいに、なんでもなさそうな顔で無一郎くんは歩く。その柔らかな振動が心地良くて、あたたかくて。ゆるんだ涙腺はまたしずくを溢してゆく。
「……ありがとう」
 返事はなかったけど、ゆっくりゆっくり、心地良く揺られていたら、そんなことはどうだってよくなってくる。

「……ねえ。隊服からどうして花の匂いがするの」
「花……あぁ、スプレーした……」
「すぷれー……?」
「うん……ねえ、これ、洗濯しても大丈夫なの?」
「ああうん、いいけど……してくれるの?」
「よし、まかせて、洗濯はだいすきだからね私……」
 洗濯できるなら、いいや。ちょっと浮かせていた顔を肩口に埋めると、たぶん涙も鼻水もついてしまったけど、私が明日洗うからいいよね。
「もうすぐ着くよ」
「うん」
「すぐ寝なよ」
「ううん、ご飯つくるよ」
 とん、とん、無一郎くんが階段を登りはじめる。そうか、エレベーターの使い方をきっと知らないんだ、教えてあげないと。

 だけどさ、もうちょっとだけ、今日だけ、まだいいかな。三階まで柔らかく揺られながら、こっそり無一郎くんの髪に顔をうずめていた。







- ナノ -