また来てくださいますか?


 
「本っっっ当に、ありがとうございました!」
「……声がすごくうるさい」
 夜明け、薄明の空が朝の訪れを報せようとしている。そんな静けさの中で、にこにこ、人好きのする笑顔を輝かせる少女と、その向かい側で顔をしかめる少年。それなりに厳しい言葉を浴びせられても、少女は表情を崩すことはない。
 少年は鬼殺隊霞柱、時透無一郎だった。夜明けを直前にした森のはずれで少女は鬼に襲われかけていて、今しがた無一郎がそれを救い出したところだった。
 今こんな大声が出せるなら、さっき、襲われた時だって黙ってしゃがみ込まずに助けを呼んだらよかったのに。頭が良くないのかな。一瞬そんなことを考えて、けれど口に出すこともなく、無一郎の頭からはそんな思いはたちまち掻き消えていった。
「今日は父が街に出ていて……夜は外に出るなって言われてたんですけど、もう明けそうだったので大丈夫かなと思っちゃって。私ってほんと、こういうところがダメなんですよね」
 感情のない顔で話を聞いているんだか聞いていないんだかわからない無一郎の前で「あっそうだ」と手をたたき、「お礼にもならないかもしれませんが、せっかくだし朝ご飯とかご一緒にいかがですか」と少女は言う。ころころ表情が変わって慌ただしい。……朝ご飯。うーん。頭の中はもやで満たされていて、無一郎は返事を考えるのも面倒だった。
「お腹すいてませんか?」
「……すいた」
 幾分わかりやすくなった質問には、無一郎でも簡潔に答えることができた。「じゃあ食べましょう!」なんて明るく笑った少女に手を引かれて、きっと簡単に振り解くことができたのに、無一郎がされるがまま連れていかれたのは空腹のせいだったのかもしれない。

 ちゃぶ台の前に座らされ、木目をぼうっと見つめながら座っていた無一郎の前に、ふいに茶碗が現れる。差し出した手を辿った先、見覚えがあるんだかないんだかわからない顔。「誰だっけ」と尋ねられて、「さっき助けていただいた者です!」と答える少女とのやりとりはすでに五回目だった。
 質素な家だ、と無一郎は何回目かわからないことを考える。けれどほどなくして揃った朝ご飯には、おいしそうだな、と素直に思った。魚の塩焼きに卵焼き、漬け物に山菜の味噌汁、それからほかほかと湯気をたてる米。「山菜はとれたてです、襲われる直前にとってたので……えへへ……」と少女が笑う声は、ぼーっと受け流されていた。
 ご飯はどれも素直においしかった。見かけによらず料理が上手いのかもしれないと思いながら、「おいしい」とただ思ったことを口にする無一郎に、少女はぱあっと顔を輝かせる。それからなにやらぺらぺらと話し始めるので、「食べてる時は静かにしてくれない」なんて言ったのに、無一郎のお咎めもそこそこに少女は話し続けていた。漬け物にかけた手間暇だとか、卵焼きの味付けへのこだわりだとか。きらきら弾ける声は間違いなくうるさいのに、無一郎はもう一度その話を止める気にはならなかった。

「あの!」
「なに」
 帰り際、無一郎が簡単に「ごちそうさま」を告げてから家を出ようとすると、少女は「ごちそうさままで言ってもらえるなんて!」とよくわからないことに興奮していたので、無一郎には理解ができなかった。人の命を救うことのできる鬼狩り、それも柱という聞く限りでは偉い立場の人間に謝意を述べられたのが、少女にとっては喜ばしいことだったのかもしれない。けれど無一郎には知る由もないことだった。
「本当にありがとうございました」
「……さっきも聞いた気がする」
「はい、さっきも言いました!」
「そう」
「きっと大変なこともあるのでしょうけど、どうかお身体にお気をつけて」
 かけられた気遣いの言葉に軽く頷いて、歩き出そうとして、あることをふと思い出して無一郎は足を止める。少女は首を傾げていた。
「ひとつ余ってたんだった」
「え? わっ、わ」
 無一郎はおもむろに懐から何かを取り出して、それをかるく投げつけた。少女はわたわた戸惑いながらも、なんとかそれを手に収める。そうして「香り袋……?」とつぶやくと、無一郎は「鬼除けだよ」と短く答えた。
「鬼は藤の花が嫌い。その習性から作られた鬼殺隊のお守り」
「お守り……えっ、わ、私にくださるのですか」
「あげるつもりがなかったら渡さない」
「渡すっていうか投げられたような……あっいや、いただいていいんでしょうか」
「しつこいな」
「すみません! ありがたく頂戴します……」
 小さなお守りを抱きしめるようにしながら、「私、このご恩は忘れません」とつぶやく。さして興味もないので踵を返そうとすると、少女が勢いよく顔を上げて、無一郎はその視線に捕まるように動きを止めた。
「またいつでもご飯食べに来てくださいね。何度だってお礼させてください」
「……いつでも?」
「はい! 明日でも明後日でも、十年後でも、百年後でも!」
「百年後って、僕も君も死んでると思うけど」
「……確かに……」
 考え込むような素振りを見せたあと、少女はぶんぶんと手を振って「いや確かにじゃなくて」と付け足すように言う。ちょこまかと騒がしいな、と無一郎はもう何度も思っていた。
「百年はもちろん冗談ですよ、これからもずっとっていう例え話です」
「そう」
「鬼狩り様ったら真面目ですね」
「僕に冗談が通じないって言いたいの」
「え!? えっいや、そういうわけじゃ、ないですけど」
 図星、みたいな顔をしていた少女から視線を外して、無一郎は黙ったまま今度こそ踵を返した。すばやく歩き出してしまった無一郎の背中を、少女は大きく手を振って見送る。そうして胸元でお守りを握り締めながら、何度も何度もお礼を言った。その姿が見えなくなってしまうまで。しつこく届き続ける声はやっぱりうるさいな、と思うのに、早く聞こえなくなればいいのに、なんてことは不思議と思わない。遠ざかっていくころに伝達に飛んでいた銀子が無一郎の肩に戻り、その声を聞きながら無一郎は、ひかる朝露をただぼんやりとながめていた。――次は。あの人の作るふろふき大根を食べてみたいかもしれない。朝露があけぼのをはね返して、淡い瞳はほんのわずかに明るい色をたたえていた。





いつかの春の残り香へ






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