ただ君に会えたから


 かちりと硬い音を立てて、私たちを取り巻く時間ごと、真上に佇む時計が動きを止めてしまったような。決してそんなことは起こりっこないのに、君と私のあいだなら、どんなとんでもないことだってほんとうになってしまうかもって、ばかばかしく信じ続けることをやめられなかったんだ、私は。

「さくらさん」
 きっと、私が何秒も振り返らないままでいるから。記憶よりほんの少し低くなったその声が、また、優しく私を呼んでいる。風に乗った桜の花びらが、ふわり、ゆらり、運ばれて消えてゆく。
「……お姉さん」
 ――そう、呼ばれて。次はすぐに、考えるより早く振り返ってしまった。視線のさき、一瞬だけ目を丸くしたその人は、「こっちの呼び方のほうがよかった?」なんて言って柔らかく笑う。
「……む……」
「うん」
「え〜っと、あの」
「……どちらさまですか、とか言わないよね?」
「い、いわないよ」
「ほんとに?」
 言わない。言うわけない。けれどそう言いたくなるような、無一郎くんと呼んでもいいのかわからなくなってしまうほど。そして用意しかけていただけの言葉の欠片すら、何もかも木っ端微塵に吹っ飛んでしまうほど、無一郎くんは美しく麗しい姿に成長していた。麗しい、なんて感想を考えるよりも先に抱いたのは、二十数年生きてきて初めてのことだった。
「久しぶり」
「うん……ひ、久しぶり」
「手紙読んでくれた?」
「あっ手紙、手紙ね、実はさっき気付いたとこで……」
「ああ、だからそんなに急いで来たの」
 こくこく頷くと、無一郎くんはくすくす笑う。すこし髪が短くなって、背が伸びて、声が低くなって、顔立ちもさらに凛々しく成長したというのに、笑い方はおんなじだ。目を細めて少しうつむいて、感情のぜんぶは出さないよう気をつけている、そんな笑い方。ぎゅうと胸が締め付けられて、気付くと私の口からは「いくつになったの?」と親戚のおばちゃんのような質問が飛び出していた。
「今年から、大学生になったよ」
 だ、大学生。無一郎くんが…………大学生。
 そうか、今年から大学生なんだ。……四年と、半年ぶり。単純に時間として見てみると、長い人生のなかの短い年月にも思えるけれど。彼がこんなにも成長して大学生になったことを思えば、ずいぶんと時が流れてしまったような気持ちにもなる。
「お……大きくなったね」
「っはは、やっぱ、お姉さんはお姉さんだね」
 バカみたいな私の感想を受け止めて笑った無一郎くんは、「本当はさ」と柔らかな空気を纏ったままに視線を伏せた。なんだか色っぽくも見えるひとつひとつの仕草に、妙な緊張感がはしるような心地がする。
「……もっと、ずっと後、ちゃんと大人になってから会いに来るつもりだった」
「そっ……かあ」
「君らしく生きて大人になったら、って言われたからね」
「……あ……あっ、あれ聞こえてた!?」
「病室で話してくれたことだよね? うん、全部ね」
 ………………いや、聞こえてなきゃ意味ないんだけど。なんにも聞こえてなかったって言われたら、それはそれで結構ショックだったと思うけど。いざこんなことを言われると、嬉しさよりも恥ずかしさがあふれ出てきてしまう。
 思わず顔を覆って俯くと、「僕は嬉しかったよ」なんて無一郎くんは言うから。恐る恐る顔を上げたさき、優しく微笑むその表情は見慣れない。わりとつんけんしていた無一郎くんはどこへやら、ずいぶん素直になった彼の姿は慣れないはずなのに、どこか落ち着くような気もしてしまうのは、まとっている雰囲気のおかげなのかもしれない。
「とりあえず、座る?」
 そうして指差されたベンチ。頷くと、「じゃあ飲み物買ってくるから待ってて」と素早く踵を返してしまうし、「走ってきたし喉渇いてるかと思って」とホットとアイスの二種類から選ばせてくれるし、そのスマートさに目が回りそうだった。
 お礼を言って飲み物を受け取って、隣に座る無一郎くんを見遣って考える。……無一郎くん、も、もしかして、彼女とかできたりしたのかな。めちゃくちゃ、恐ろしいほどモテそうだし。けれどなんだかちょっとだけ、ちょっとだけ訊ねるのは怖かった。

「ずっとお礼を言いたくてさ」
 どうしようかと葛藤しているところに、無一郎くんがおもむろにそんなことを言う。慌てて不真面目な思考を追い出しながら、私も、と口に出そうとしたけれど、それよりも早く無一郎くんの言葉が続いていた。
「あの時、聞こえてたのに返事はできなかったし」
「あ、ううん、いいんだよそんなの。私が言いたかっただけで」
「僕もたくさんあったんだ。言いたいこと」
「無一郎くん……」
「でもさ、ありすぎて。一度じゃ全部は無理だから、まずは」
 ゆるりと弧を描いた唇が、「ありがとう」と。そんな言葉をかたちづくって、それはとびきりの優しさを抱き込んだような声だった。胸がいっぱいになって、ただ頷くことしかできなくて、でも今はそれで充分な気がした。
「今の僕があるのは、お姉さんのおかげだよ」
「そっ……それはちょっと大袈裟な気が……」
「大袈裟じゃないよ。今も僕を支えてくれる大切な人はたくさんいるけどさ、お姉さんだって間違いなくそのうちのひとりなんだから」
 無一郎くんの言葉がどれもまっすぐすぎて、むず痒くって忍びないのに、けれどやっぱり嬉しくて。なんだかそわそわしてしまう私を見て、無一郎くんは春の陽気をうつしたように柔らかく笑っていた。

 そうして、今の無一郎くんをつくったこれまでの話を聞いた。無一郎くんは中学三年次から学校に通い、高校にはそのまま内部進学して、大学も内部進学をすすめられたけれど、別に行きたいところを見つけて受験して、しっかり受かってその大学に進むことに決めたのだそうだ。あまりにも努力家、そして実力者すぎる。そして学費や生活費などは、大正時代に鬼殺隊で貰っていた給金を使うというかたちで産屋敷家に出してもらっているそう。けれど「できるだけ早く、この時代の僕の力だけで生きていきたいなって思ってる」なんて言うから、無理をしていないか少し心配になったりもした。
 ふと気になったのは産屋敷家のことで、けれどこうして私と顔を合わせることについて、きちんと当主様には相談してきたらしかった。十八になり高校も卒業して、ここからは自己責任だから構わない、と言っていただいたのだという。当主様もお元気だそうで安心すると共に、機会があれば私もまたお会いしたいな、と思ったり。
「友達はできた?」
「ん、まあ……少しね」
 そう言って微笑む横顔があたたかいから、きっといい縁にも恵まれたのだろうな、と思う。それなのにわざわざ私に会いにきてくれて、無一郎くんってばいい子だなあ。
「大学は楽しいよー、大変だけどそれ以上に、ほんとに楽しいからね。うらやましいなあ」
「……うん、楽しみだけどね」
 含みのある言い方に首を傾げると、「ちょっと焦るよ」なんて無一郎くんは言う。どうしてと私が尋ねる前に、無一郎くんは「今から四年後だと、間に合わないかもしれないからね」と目を細めてみせた。
「間に合わない?」
「大学出てからにしようとも思ったんだ、会いにくるのは」
「……あっ、私に?」
「そうだよ」
 ふわりと笑って「さくらさんに。」と付け足す無一郎くんの声に、どきりと心臓が跳ねる。……そうだ、名前。君に見つかった瞬間、はじめに呼ばれたとき、私は振り返ることができなくて、それで。
 無一郎くんの柔らかな雰囲気につつまれて、ふわりゆらりと掻き消えていた緊張が、身体の底からまた湧き出てくるような心地がしてくる。それは呼ばれた瞬間のことを思い出したからなのか、改めて名前を呼ばれたからなのか、それとも。君の瞳が柔らかく、それでいて確実に私を縫いとめているせいかもしれなくて。

「ねえ」
「……うん」
「こっち向いてくれないの」
「ま、まって」
「なんで?」
「なんで!? なっなんでだろう、とりあえずちょっとまって」
 ついさっきまで目を見て話ができていたのに、いったん逸らせばもう、顔を上げられなくなっていた。「さくらさん」とまた呼ばれて、小さくベンチが軋んで、ただ逃げるように俯いている私のほうへ、無一郎くんが少しだけ距離を縮めてしまうような気配がする。
 私だって、馬鹿じゃない。また会いに来てくれた事実に、柔らかなのに重く残って溶けない言葉、透き通るようなその瞳の奥の揺らめき。ちょっとずつ蓄えたもしかして≠フ自惚れを裏付けるようなそれらに、ちゃんと気付いてしまうぐらいには普通に生きている。それに――
 ふいに、髪に軽い感触が伝わる。指先だけで触れたようなそれは、一秒にも満たないうちにほどけて消えていってしまうのに、私は肩をすくめたまま動けなくなって。無一郎くんの指先と、きれいな形の桜色の爪が、そんな私の視界にずいと入って来た。
「花びら。ついてたよ」
 ……花びら。そう言われてやっと、指先にほぼ隠された桜の花びらに気がついた。引っ込められてゆく手を追いかけるように、つられてしまうように顔を上げて、また無一郎くんの姿をはっきりと映してしまった私に、逃げ場はきっともうない。


「そのまま、ちゃんと、僕のこと見てて」


 ――それに。私だって。


「僕、さくらさんが好きだよ」


 春が溶け込んだそよ風みたいな声で、はぐれた桜の花びらが舞うように笑って、無一郎くんは言う。瞬きを繰り返してしまう視界のなかで、君の瞳の色だけはいつまでも消えそうになかった。

「先に言っておくけど、錯覚でも勘違いでもないから。ずうっと考えてたんだ、さくらさんのこと」
「……むいちろう、くん」
「恩返しがしたいだけなのか、家族みたいに慕ってるのか。離れてる間ずっと考えて、それで」
「……」
「また会えて、やっぱり好きだって思った。だから、ちゃんと今の僕が出した結論だよ」
 退路を塞ぐような決意に気圧されて、うん、と上の空のまま頷いて。……私は。私だってたくさん考えていたんだ。君と過ごした時間のこと、思い出すと泣きたくなって、会いたいと思うことをやめられない理由。
 ――好き。私もきっと、君が好きだ。大切で大好きな人なんだ。けれど好き≠ニいう感情はその言葉以上に入り組んでいて、簡単にカテゴライズできるものじゃない。恋人になりたい、好き。一緒にいて楽しい、人としての好き。家族のような、親愛の好き。他にもたくさん、数えきれないほどあって、それらがぐるぐる渦を巻いて混ざり合って、胸の中を複雑に満たしてしまう。そこからひとさじ掬い上げた感情の色を見て、なんとか答えを出しているに過ぎないのだ。
 かるく深呼吸をして、何度も、何度も考えていた言葉を、ゆっくり頭の中で組み立てる。ちゃんと伝えてくれたんだ、ちゃんと話をしなくちゃな。
「あのね、無一郎くん」
 私の中にはたぶん、君とおんなじ好きも居る。いつかこうやって言われること、私はどこかでわかってて、きっと期待もしてたから。私が口を開くと、短く返事をした無一郎くんからは、柔らかな雰囲気がいつの間にか消えていた。いまひとつ感情の読めない目をするのが彼はずっと得意で、それが少し怖くって。
「私も君が、好きだけど。私のはたぶん……恋愛感情じゃ、ないんだ」
「……うん」
「私は無一郎くんよりずっと歳上だし、こんなに年の差があるときっと難しいし。嬉しいんだよ、すっごく嬉しいけど、君にはちゃんと同年代の子と……幸せになってほしいな、って」
 言い終えてすこし、無一郎くんはそのまま私を見つめていた。ほどなくして、こんな答えでよかったのかな、どうしよう、と我にかえる余裕が出てきてしまって、無意味に慌てて言葉を継ごうとしたとき、「そう」と無一郎くんがつぶやく。そうしてやけにすっきりした顔で、「知ってたよ」なんて言ってみせるから、「へ?」と私の神妙な表情もたちまち崩れ去ってしまった。
「だから、知ってた。さくらさんならそう言うと思ってた」
「あ、そ……そうなの? えっと……」
「うん。それでいいし」
「いいの?」
 さっきの真剣さはどこへやら、きっと私は間抜けな顔をしていることだろう。もっと、ちゃんと、大人らしく振る舞いたいのに。無一郎くんのことになるとどうにもダメで、この先ずうっとこうなのかもしれないな、なんて考えが、ほんの一瞬頭をよぎって消えてゆく。
「いいよ」
 傾き始めた春の眩しさを、淡い翡翠の瞳は一身に受け止めている。そのきらめきがわずかに近づいたのは、無一郎くんが少し顔を寄せてきたから。けれど見惚れている暇もなく手を握られて、受け止めきれない体温が、あふれてこぼれて暴れ出す。


「これからちゃんと、好きになってもらうから」


 ……無一郎くんの手って、意外とごつごつしてるんだ。そう初めて思ったのは、四年半前のあの日のことだった。あの日、わずかに握り合った手の温もりが寂しくて、離れることが苦しくて、けれどそんな悲しい思い出は、光って溶けて消えてゆく。
「…………ど」
「ど?」
「……どうやって?」
「っ、ふ、そんなこと訊くの? さくらさんってば本当さぁ」
 口をついて出たばかみたいな質問を、無一郎くんがからりと笑い飛ばしてしまう。つられて肩を震わせながら、おもしろいのにドキドキして、だめだと思うのに嬉しくて、泣きそうなのに幸せで、もうどうしようもなくぐちゃぐちゃだった。
「どうやって、かぁ」
「……」
「そうだなあ、ちゃんと僕のこと見てくれるまで諦める気はないし」
「う……」
「たくさん会いにいくし、会うたび好きって言ってあげる」
「それは……まずいかも」
「好きになりそうで?」
「やめて……」
 私、めったに赤くならないタイプのはずなのに。耳まで熱くて目が回りそう。「からかわないでよ」なんて言って俯く私に、「真剣だよ」と手を握ったまま囁く無一郎くんがいっそ恐ろしくなるほど。四年でここまで人は変わるのか。ていうかどこでこんなの覚えてきたんだろう。……いや、なんか。覚えてきたというよりは、ナチュラルにやってのけているような気がしてしまう。じゃあ生まれ持った才能か、やっぱりそっちの方が断然恐ろしい。
「それにさ、どれだけ年の差があったって関係ないでしょ」
「……え、大ありだよ」
「だって僕たちそもそも百歳差だよ」
 ……今度は、私がふき出す番だった。「それは違うでしょ」「さくらさんが先に言ったんだよ」なんて言いあって、笑いあって。何歳離れていたって、何年会えなくたって、時代すら跨ぐような百年の隔たりを超えてきた自分たちを思えば、そんなのはぜんぶ些細なことに見えてしまう。

 本来、出逢うはずなんてなかった。ありえないことで埋め尽くされていて、誰に言ったってたぶん信じてもらえなくて、偶然と奇跡に生かされたこの瞬間。いつか王子様に出会えるなんて子どもの頃ですら思ってもいなかったのに、私の目の前にある現実はそんな空想にも近いような気がしてしまって。「運命なんて信じてなかったのになあ」なんてつい小さく呟けば、「だって運命じゃないからね」と、かすかな声すら無一郎くんはちゃんと拾ってくれる。
「初めは、偶然だったかもしれない。でも僕がちゃんと生きて、さくらさんにまた会いにきたんだから」
「……うん」
「運命なんて、そんな言葉で片付けさせないよ」
 運命、なんて。そう名前のついた不可抗力を打ち砕いて強く生きてきた無一郎くんの、彼自身を表すような言葉だった。ただまっすぐで、凛々しかった。そう言えることも、言えるだけの証の上に立っている無一郎くんも。私が願うまでもなく、この世界で無一郎くんは美しく生きている。
 敵わないな、と思う。たぶん一生。だからこそこんなにも素敵な人のとなりに立つ勇気は私にはなくて、いますぐには頷けないけれど。

 なんだか相性がいいような、長い付き合いになりそうな――冬が暮れたさきで、そんなかすかな予感たちが花開く。たとえ、愛にも恋にもならなくても。夜が明けて朝が来て、季節が巡って春が来て、そんなあたりまえの幸せが、幾つもの夜を越えてきた君にも降り注いでいるんだって。そう知ることができる場所にいられたらいいと、ただ、そう思う。

 君に、出逢えてよかった。

「無一郎くん」
「……なに? さくらさん」
「ありがとう。会いにきてくれて」
 一瞬見開かれてわずかな戸惑いをうつした瞳は、あの頃みたいな幼さを湛えていて――胸を撃ち抜かれるようなときめきに息が止まって、そ、そんな顔も、ちゃんとするんだ。思わず黙って俯く私と、少し焦ったように私を呼ぶ無一郎くん。そんな私たちの繋がったままの手は、どんな隔たりだって飛び越えてしまうような気がするのだから、私が白旗を上げる日もそう遠くないのかもしれない。






to be continued...





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