きっとあなたに会えるから


 柔らかな風から、今年もまた春の匂いがした。去年散っていった桜が咲いてくれなくても、変わらず春は訪れる。季節は巡り、何度でも。たしかに喜びがあって、でもどこか寂しくて、そんな心を映すみたいに、空のずっと向こうはうすく霞んでいる。



 ◇




 あの不思議な出逢いと別れから、四年と半年が経とうとしていた。最後の日のことを思い出すと、夢みたいにふわふわ曖昧な記憶なのに、今でも泣きそうなほど苦しくなってしまう。当主様の温情で最後に話ができて、柔く触れていた手を握り返してもらっても、私の言葉は届いているかを確かめる術はなかった。それに、離れなければいけないことには変わりない。朝日が昇るすこし前に病室を出て、産屋敷家の方の送りを無理やり断って、流れる涙もそのままにただただ歩いて、たどり着いた適当な駅から電車に乗って帰った。泣きながら足を引き摺っている成人女性なんてよく通報されなかったなあ、と思うし、後から連絡をくれた産屋敷家の方には「怪我をしながらそんな無理をするなんて」「まだ連絡事項もあったのに」と電話越しにまで怒られてしまったし、家で疲れて寝こけているあいだに産屋敷家の方は三回訪ね直してくれたらしいし、思い出すだけでバカすぎて恥ずかしい。けれど、そんなふうに脇目も振らずまっすぐになれていたことが、私は少しだけ嬉しかったりもした。
 引っ越しはしなかった。あの生活の面影を感じる部屋は、最初は寂しくてたまらなかったけれど、ただ単にすっかりこの家に愛着が湧いてしまっていたから。無一郎くんのものは段ボールにしまって、クローゼットの奥に眠らせている。いつもこんな片付け方しかできないことに自分で呆れたけれど、まだ捨てたくはない、と思う。捨てられないんじゃなくて、自分の意志だ。


 いつかの私は、元通りになるだけだ、と思っていた。けれどそんなことはなくて、彼に――無一郎くんに出逢う前とは、たくさんのことが変わりすぎていた。そう、きっと、無一郎くんに変えてもらったから。
 まず、私はすぐに仕事をやめた。新卒で入社できたんだしもったいない、と必死に働いていたけれど、こんなにも自分を削る必要はないかもしれないと我にかえったのだ。無一郎くんが来てからは、睨まれながらも残業を減らしたり、休日出勤を断ったりもしていたけれど、その前はもっとひどい働き方をしていたし。転職は大変だったけれど、前よりずっと人間らしく働けて上司や先輩も優しくて、こんなことならもっと早く踏み出せばよかった、と思う。けれどたぶん、私ひとりじゃ無理だった。
 仕事を変えて余裕もできて、自分磨きに時間をかけてみたり。それからちゃんと実家に帰ったり地元の友達に会ったり、単身上京してからちょっと希薄になっていた人との関わりも取り戻すこともできた。気の置けない人と一緒に食べるご飯は、やっぱりおいしい。
 それから、写真を撮ることが好きになった。一眼レフを買って、それを携えてひとりで旅に出ることも増えた。無一郎くんと過ごしていたとわかるような写真が一枚もなくて、撮っていたらそれはそれで問題ではあったしいいのだが、やっぱりなんだか寂しくて。もっと写真を残したい、いろんなものを収めたいと思うようになった。身の周りだけじゃ足りなくて、歴史的な建物をついまわってしまうこともあれば、海外という私も君も知らない世界にも行って、数えきれないほどに写真に収めてきた。……いつか。私がきれいだと思ったものを、景色を、君にも見せてあげたいな。そんな風にも、ほんの少しだけ考える。会える保証なんかないけれど、叶わなくたってそれはそれでいいと思う。新しい生き方のきっかけをもらえて、想いながら前を向いていられるだけで。





 ああそうだ、昨日ポスト見てないかも。
 土曜日も夕方に差し掛かろうかという頃、久しぶりに怠惰な休日を過ごしていた。年度初めはなかなかに忙しくて、このお休みは出かけるよりもただただ寝ていたくなってしまったせい。せっかく桜がきれいなところもったいないけれど、早めに咲いた桜を先週見にいったからまあいいかと思って。とはいえこのまま一日を終わらせてしまうのも、と思う私もいて、近所にコーヒーでも飲みに行こうとやっと家を出た。軽く化粧をして、適当な服に着替えて。そして確認していない郵便物の存在に思い当たって、集合ポストを開けた途端、「え?」と静かなエントランスにこだましたのは私の声。
「なんだろ……」
 そこそこ溜まったチラシの上、真っ白い封筒がひとつ。見る限りでは宛名も消印もなさそうなそれに、どきりと心臓が跳ねた。え、しゃれた広告? それともまさか、ちょっとやばいお手紙? こういうのって触っていいんだっけ。でもこのままにもしておけないしと恐る恐る手に取って、上質そうなその手触りをたしかめながらそっと裏返して……それから。


『さくらさんへ』


 一瞬、世界から色が消えたようだった。眩しいほどの白と、その端に佇む黒く丁寧な字だけが私に襲いかかって、息が止まる。……私は、君の書く字を知らない。けれどどうしてだろう、その差出人が君だって、私の記憶が教えてくれるようで。
 指先が震えて、小さなシールひとつだけの封すらうまく剥がせなかった。なんとか開けた先、折り畳まれた便箋に黒いインクが薄く写って、自分の呼吸の音が耳の奥にこだましていた。かさ、かさ、と紙が擦れる音が、どこか遠いところで響いているみたいだ。そうしてとうとうたどり着いた手紙の、きっと大切に綴られた文字を、ひとつずつ見つめて――

「え……え、土曜? 待っていま何時?」
 独り言をこぼしてしまいながら腕時計を見遣ると、今は十六時目前を指していた。ひとつずつ見つめようと、そうしていながらも目に飛び込んできた最後の方の行には、あのいつもトレーニングをしていた公園で、土曜……つまり今日、十六時に待っているという旨が記されていた。
 えっどうしよう、今から行く? でもだいぶ適当だし化粧直す? いやそしたら間に合わないかも、あの子帰っちゃうかもせっかちだし。そもそもあと五分とかだし待って、間に合う? 昨日ポストに入れてくれたのかなあなんで確認しなかったの私! 頭の中でぐるぐるあれこれ考えて、私が出した結論は。

 ……走ろう。全力ダッシュ、だった。


 なんて締まりがないのだろう、と思う。柔らかな春の陽気の中、自分の出せる精一杯の速度で走って、せっかくくれた手紙もろくに読めていない。ドキドキするのに、胸が弾んでいるんだか焦っているんだか、そんなこともわからない。あまりに情けない姿である。
 そうしてたどり着いた公園の時計は、十六時から二分過ぎを指していた。ぜえぜえ息を吐きながら、そこそこ広い公園に足を踏み入れる。……そういえばどのへんで待ってるんだろう。手紙には、だめ、書いてない。待ち合わせ場所は詳細に指定すべきだって知らないのかな。駅だったら西口東口わからなかったら終わりですから。こんなこと言ったら「うるさいなあ」なんて嫌な顔をされてしまいそうだけど、ちゃんと言っておいた、方が。
 そんなことを考えて、立ち止まって、突然。うっすらとオレンジを帯びはじめた空と、その下に立つ自分が、紛れもない現実であることに気がついた。ほんの十分前に君からの手紙を見つけて、待ってる≠ノ誘われるまま無我夢中に走り出して、足を止めてやっと現実のほうが追いついてきたのだ。

 私、本当は。……君にずっと会いたかったんだ。忘れてなかったらとか、叶わなくていいとか、たくさん自分に言い訳をして保険をかけて、けれど。あのたったの数ヶ月を、たぶん人生でいちばん眩しかった日々を、私のほうがずっとずっと忘れられなかった。愛だの恋だのそんなものじゃなくて、ただまっすぐに幸せになってほしくて、また笑った顔が見たくて、あの頃みたいにとりとめのない話がしたくて。
 ――会える、のかな。本当に? さっきからずっと跳ね続けていた心臓が、もっと奥の奥の方から震え出すような心地がして、泣きそうになってしまう。散りゆく桜の花びらを踏み締めて、喉が焦げるように熱くなって、駆け抜けてゆく小学生とすれ違いながら、ふらふら、無意識のうちに柱時計を目指すように足を進めていた。
 君に会ったら私、なんて言ったらいいんだろう。ありがとう、ごめんね、言いたいことはたくさんあるけれど、なにから話せばいいんだろう。何年か前は考えていたんだ。会えたらまず何を話して、どうやって笑って、どうやって……。ああ、そうだ、みっともなく泣いてしまうといけないから、みーつけた、なんてかくれんぼみたいに声をかけちゃおうかなって、そんなふうに笑ってまた会えたらいいなあって、思ってたんだ。だから――






「――さくらさん。」





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