ひとりじゃないよ


 生と死の狭間にあるようなまばゆい夢の世界を抜けて、途端に身体の重さと煩わしさに襲われていた。抜け出せない闇の靄にとじこめられるような感覚は、夜が明けないとどうにもならないのだろう。

「無一郎くん、あのね」

 また、声がする。
 眠り込んでいても、聴覚は機能するという話を聞いたことがある。じゃあ、さっき僕を引っ張り上げてくれたあの声も。ただ僕の記憶のなかにあっただけのものじゃなくて、今、ほんとうにさくらさんが隣にいるのかもしれない。起きられないことがもどかしくて、けれど、このままでいいのかもしれないとも少し思う。ゆっくり、ゆっくり、あなたの話を聴けるのなら。
 短い夜が、始まろうとしていた。

「無一郎くんは、これからここで……あ、産屋敷家で預かることになったんだって。もう……戻れないから、この時代で育てていくって」
 うん、そう。鬼を殺してもだめだったんだ、僕はあの時代に戻れないんだろうね。でもいいんだ、もう後悔はないって、ちゃんと振り返って確かめてきたからさ。

「それで……私たちは、もう一緒にはいられないみたい。無一郎くんは子どもで、私は大人だから」
 ……そう、だよね。最初はわからなかったけど、一緒に過ごすうちに、さくらさんがはじめに「逮捕」とか「犯罪」とかって言ってた意味がわかった。さくらさん、迷惑かけてごめん。きっと、そうするしかないんだよね。

「……私はね。ほんとうに楽しかったんだ。無一郎くんに会う前は毎日ボロボロで、楽しいことなんか全然なくて。でも君に会えて、たくさんのことが変わったの。ありがとう、無一郎くん」
 僕だって。僕だって、楽しかった。わけもわからない中、この時代で生きることを楽しいと思わせてくれたのは、あなただよ。

「ごめんねって思ったんだ。私が出会えてよかったと思っても、ぜんぶ、間違いだったかもって。私がちゃんとした大人だったら、無一郎くんを何ヶ月も迷わせることはなかったかもしれないから。……でもね、当主様が言ってくれた。私たちがこの出逢いを幸運だって信じていれば、それはかけがえのない絆になるに違いないって。」
 うん。……うん、紛れもない幸運だ。奇跡だった。偶然あの場所に飛ばされて、その先にいてくれたのが、たとえ理想の大人じゃなくたってさくらさんでよかったって、僕はずっと思ってるよ。だから出逢いも過ごした時間もぜんぶ、間違いなんかじゃない。

「無一郎くん、私のそばにいてくれてありがとう。出逢ってくれて……ありがとう」
 ……そんなの、僕の方が。

 しばらく啜り泣く声が響いて、あなたの言葉を受け止めた上で、この手が伸ばして返せないことが歯痒かった。それはきっと、僕が眠り込んでいなくたって。……あなたの、周りの言う通りに、まだ子どもだから。どうしてまだ僕は十四なんだろう。今までずっとそんなことはなかったのに、あなたに出逢ってからしばらく、自分の幼さを悔やんでしまうようになった。
 ややあって、さくらさんの声がまた僕の名前をかたちづくる。まだ、話をしてくれるらしい。

「子ども扱いが嫌だって言ってたけど、私は無一郎くんに子どもとして生きてほしいんだ。学校に行ったり勉強したり、友達をつくったり……ちゃんと、ひとりの子どもとして。君はまだ十四歳で、今しかできないことがたくさんあるから」
 ――お前はまだ十四だぞ。そんな兄さんの言葉を思い出す。
 ひとりの、子ども。鬼殺隊にいない僕は、そんなにちっぽけな存在なのかと思った。学校、勉強、友達、いつかはちっとも縁のなかった存在が、綿菓子のように浮かんで消える。僕が、そんなものを手に入れてしまっていいのかな。

「無一郎くんはね、これからなんだってできるし、なんにだってなれる。そんな無限の可能性が、私は羨ましいんだよ」
 無限。――無一郎の無は無限≠フ無=B
 今の僕には、涙を流す術はないはずなのに。心の奥底から涙が溢れてくるような気がして、未来に手を伸ばしてみたくなる。僕がずっとずっと大切に抱えてきた兄さんの言葉が、あなたにまた鮮やかに色付けられてゆくようで。

「……だから。いろんな世界を見て、たくさんのことを経験して、やりたいことを見つけて、一歩ずつ未来に向かって進んで……そうやって君らしく生きて大人になって、それでも私のこと、忘れてなかったら」
 ……さくらさん。

「また……ご飯、食べにおいでよ。それで、無一郎くんが過ごした時間のこと、私に聞かせてほしいな。いつも私ばっかり喋っちゃうけど、ちゃんと最後までお話聞くから。好きなものもいくらでも作るから」
 ふと、手に、ぬくもりが触れたような気がした。頼む、動け、動いてよ。感覚はまだないけれど、無理やりにつよく力を込めて、どうか、今だけでも、手を、握り返すだけでも。

「無一郎くんたちが戦って守って、そうして受け継がれた平和な世の中なんだって、当主様がおっしゃってた。いつか、無一郎くんは責任を負わなきゃって言ってたけど、もうちゃんと守り切ったんだよ。だから……そんな素敵な世界で、私は君に精一杯生きてほしいな。私も頑張って生きるから」
 ほんの少しの結び目から、あなたの優しさと想いが流れ込んで、形すら不確かな身体中を満たしてゆくようだった。熱い血液が行き渡るように、冷えた身体に体温が巡る。そのぬくもりに呼び起こされて、微かに動いてくれた手のひらは、きっとたしかにあなたの手を握り返していた。ちいさく息を呑む音がして、握られる力もわずかに強くなるような、そんな気さえする。
 
「……無一郎くん、あのね……私のこと、覚えてなくても、いいから。これだけは忘れないで。」
 そんなこと言わないで。僕は忘れないよ。絶対に忘れたりなんかしない。さくらさん、あなたのことも、共に過ごしてきた時間も、あなたがくれた想いも全部。

「この時代には、君を助けてくれる大人がいる。どこにいたって、君を大切に想って、君の幸せを願う人がいるんだよ。無一郎くん、君は、ひとりじゃないからね」




 ◇


 


 まるで、すんでのところで保たれていた意識が溶け落ちてしまうようだった。あのうつくしい言葉が届くのと同時に僕は暗い世界に落とされて、次に気が付いたときには夜が明けていた。朝日のまぶしさに当てられて、ゆっくり、だんだんと身体は軽くなってゆく。鉛のように重かった瞼が上がって、半端に残った術の反動が掻き消されたのか意識はいやにはっきりとしている。……やっぱり戻らないよね。僕は、そのことに少しだけ安心していた。
 夢のように曖昧な時間だった。思えば、この時代に来てからのすべてが。けれどきっと、夢なんて不確かなものじゃない。だってこの胸に残る想いは、あのとき繋がって残されたぬくもりは、また僕が明日を生きていく意味に違いないのだから。
 身体を起こして部屋を見回すと、そこは蝶屋敷のような……おそらく病室だろう。そうしてふと視線を遣った先、寝台の横に残されたちっぽけな椅子がひとつ。誰が使っていたかなんて、そんなことがわかる痕跡はない。けれど、たしかにここにあった優しい声が、頭にこだまするような気がした。


 君は、ひとりじゃないからね。
 
 ――うん、知ってる。僕はひとりじゃないよ。

 
 さくらさん、ありがとう。本当に、ありがとう。ねえさくらさん、僕はあなたのこと、頼まれたって忘れてなんかやらないよ。でも、待っていてほしいなんて無責任なことも思わない。あなたがそう願ってくれたように、ただ、僕もあなたに精一杯生きてほしい。
 僕は、命の儚さを知っている。現実の残酷さを知っている。けれど、人の想いの美しさも、紡がれた絆が持つ強さも知っている。繋ぎ止められた命を大切に、目を逸らさず見てきたすべてを忘れないで、僕は明日を生きてみせるから。たくさんの思い出を抱えて、きっとあなたのところに辿り着くから。
 いつかまた会う日まで。どうか、幸せで。





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