間違いなんかじゃないよ


 もう二度と、会ってはいけないのだと思う。
 運命、なんて非現実的なものがこの世にあるのなら、私たちはきっと運命に逆らっている。出会えてよかったと迷いなく思っても、誰かから見た私たちは間違いだらけだってこと、もうずっと前からわかっていた。つぎはぎだらけの生活は、こうならなくたっていつか崩れ落ちていたに違いない。
「お部屋を用意しましたので、今晩はそちらで過ごしていただき、夜が明けたら――」
 ……元に戻るだけだ。ぜんぶ、元通りになるだけ。ひとりで帰って、ひとりの家で過ごして、私は元々ひとりだったんだから、何も変わらないんだ。大丈夫、なにも……

 沈んだ空気に飛び込んできたのは、慌てたようなノックの音。こんこんこん、と三回素早く叩かれて扉が開いて、新たに入ってきた女性が言う。「お館様が、お話されたい事があるそうで……」と。
「おやかたさま……?」
「産屋敷のご当主様です」
 思わず背筋を伸ばしてしまう私に、「夜も遅いですしご無理にとは言いませんが」とその女性は言うけれど。私はほとんど反射で、「お話させてください」と返事をしていた。
 ……もしかしたら、また厳しい言葉をかけられてしまうのかもしれない。けれど、何も知らないままのお別れよりはずっといいと思ったのだ。どちらにしろもう会えないのなら、ちゃんと、ぜんぶ、向き合ってから。


 ◇


「夜分遅くにお呼び立てして申し訳ございません」
「とっ、と、とんでもないです! こちらこそ……」
 暗い廊下を抜けた先、厳かな雰囲気に満ちた和室に入ると、ずいぶんと年老いた当主様が深々と頭を下げてくださるので、私も慌てて頭を下げた。あの日、たしかにご長寿さんを紹介する番組に映っていた人だ。もう百歳を超えているらしく、たびたびテレビに取り上げられているところも見たことがある気がする。
 互いに頭を上げてから、少しの沈黙。けれど不思議と重苦しくはない。私に向けられるその瞳は弱々しくも思えてしまうのに、それでもしなやかさを感じさせるから、吸い込まれるように見つめてしまっていた。ややあって口を開いた当主様は、ゆっくり柔らかな口調で、鬼や鬼殺隊について話をしてくれた。
 鬼という存在は確かにあり、けれどもう百年も前に鬼殺隊により殲滅されていて、その鬼殺隊も鬼の殲滅と同時に解散されていたこと。「血鬼術」という鬼が使う術が存在していて、それはまじないのようなもので効果は多岐にわたり、無一郎くんはそれをかけられ時を超えてしまったのだろうということ。鬼を斬れば解けることもあれば、逆に鬼自身の意思で術を解くまえに斬ってしまうと解けないこともあり、無一郎くんの場合は後者なのだろうということ。
 ……それから。無一郎くんは百年前、鬼の頭領を倒す大きな戦で必死に剣を振るい、その命を落としていたということ。すべてが呑み込み難い現実で、けれど疑心なんかは一切なかった。胸の奥がぎゅっと痛むようで、しばらく息を止めてはしまったけれど。
「きちんと知っていただきたかったのです。我が一族の落ち度で危険な目に遭わせてしまった以上、何もお教えしないというのは失礼でございますので」
 そうして、そんなことまで言ってくれるから。私はまた、深く深く頭を下げていた。
「……私なんかに、お話してくださって……ありがとうございます」
「……」
「わかっているんです……私と無一郎くんは、本来出会うべきなんかじゃなかったってこと。きっとぜんぶ間違ってて……だから……」
 本来このことだって、当主様が進言してくださらなければ知る由もなかった。危険な目に、なんて当主様は言うけれど、鬼の術によって起きたことの責任を取る必要なんかはないはずで。私は埒外の人間で、知る権利も近づく権利もきっとない。情けなく涙が迫り上がってくるようで、そうやって口をつぐんでしまう私の名前を、当主様が呼んでくれる。柔らかであたたかくて、心の芯から溶けだしてしまいそうな声だった。
「他でもないあなた様が否定すれば、その想いも記憶も、泡沫の如く消え去ってしまいます」
 思わず、はっとして顔を上げていた。しわの寄った顔で優しく微笑みながら、「どんな形であれ、出逢いには意味がございます」と、その口調は相も変わらずゆるやかで。
「本来交わることがなかった、その通りかもしれません。けれどお二人の間に起きた奇跡は、あなた様と時透様にとって、間違いであったのでしょうか」
「……いえ。いいえ、ちっとも、間違ってなんか」
「そうでしょう」
 すべてを受け止めてくれるかのように頷くその姿に、じわり、瞼の裏に滲む熱を止められない。
「鬼は憎むべき存在。けれど、それが全てだとは限りません。憎き鬼に与えられた数奇であろうと、その先で幸運にめぐり逢うこともあるのです。私も、私達も……そして時透様も、それはよく存じ上げております」
「……っ、はい」
「あなた様と時透様が、幸運だ、と。そう感じておいでなら、出逢うべくしてお二人は出逢い、かけがえのない絆を手に入れたに違いありません」
 後から、後から、涙がこぼれ落ちてくる。情けないと思うのに、堰き止める手段が見つからない。歪んでひしゃげた視界を無理やり閉じれば、後から後から浮かんでくる、あの眩しい日々の思い出たち。
 ――幸運にちがいない。誰が間違いだと言おうと、私と無一郎くんの出逢いは数奇でも不運でもない。私たちが笑い合った時間は、感じてきたあたたかさは、分け合った幸福は、誰にも否定できない私たちだけの宝物。無一郎くんもそう思ってくれているって、自信があるわけじゃなかった。けれど信じたいと思った。私がそうしてもらったように、ほんの少しでも君を幸せにできたんだってこと。
「……当主、様」
「どうされましたか」
 涙を拭って、それでもひどい顔をしているんだろう。けれど、まっすぐ前を見て。当主様の瞳に湛えられた、強く優しい光をまた見つめ直す。
「最後に……一目でいいんです、無一郎くんに、会わせてくださいませんか」
 何度だって頼み込んでやる、と。そんな勢いで口にした願いは、「承知しました」とあっさり聞き届けられて、ふっと身体の力が抜けてしまう。そして「しかし」と話が続くから、私は慌てて居住まいを正した。
「時透様の身元をあずかる者として、彼がこの時代で立派に育つまでは、あなた様との交流を認めるわけにはいかないのです」
「それは……わかっています」
「今夜はきっと、時透様はまだお目覚めになりません。その間のみ、つまりこの夜が明けるまで、それが条件です」
 ……それでいい。それだけでも、構わない。頷いて、「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。君にまだ、言えてないことがたくさんあるんだ。ちゃんと届くかわからないけれど、私なりに、ちゃんと伝えさせて。
「想ったこと、想われたこと、それらを、人は忘れることなどございません」
 重く大切に紡がれたその言葉をたしかに受け止めて、私の瞳からまた、ひとすじの涙が静かにこぼれ落ちていった。

 ぴかぴかの高級車に乗せられて病院に向かう道中、着直したコートには、いつか無一郎くんがくれたお守りが入ったままだった。もうすっかり香りが消えているのに持ち歩いていることは、私だけの秘密だった。取り出さないままポケット越しにそれに触れて、目を閉じて、君の姿を思い出す。
 ほどなくして静まり返った病院に着いて、怪我をした私を病室まで支えてくれていた方は、当主様の「どうかふたりきりに」という優しすぎる命に従って席を外してくれて。私たちは、きっと最後のふたりきりになった。
 窓から差し込む月光が、彼の白い肌を青く照らして透き通らせていた。たしかに息をしている。生きていてくれた。ちゃんとここにいてくれる。ありがとう、無一郎くん。またこぼれてしまいそうな涙を呑み込みながら、ただ、君を見つめていた。息を吸って、吐いて、また吸って、それから。



「無一郎くん」






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