なにひとつ残していかないよ


 ――あれ、僕は――……。

 閉じた瞼はひどく重かった。瞼だけじゃない。身体が重苦しく、五感すら確かでなかった。身を任せてしまいたい自分もたしかに居るのに、このままじゃいけないと、何か大きな感情に突き動かされて心が熱くなる。
 目をこじ開けようと力を込めると、突然その向こうのまばゆさが透ける。ゆっくり、ゆっくりと瞼を上げるにつれて、脚が地面を踏みしめる感覚も伝わってくる。
 白い光に包まれていた。向こうに、誰かいる。ちらつくみたいに視界に飛び込む黄色――これは、いちょうの葉だ。ひらひら、くるくる、まるで目の前に立つその人と僕とを遮るみたいに、風なんか吹いちゃいないのに、柔らかく舞い上がっていた。
 知っている。僕はこの人を知っていた。一瞬、いちょうの合間に覗いた瞳を捉えた瞬間、その人も僕をじっと見ていた。
「兄さん……」
 会うのは何年振りだったろう。すこしの躊躇いで足がすくんで、でも、やっぱり嬉しかった。けれど思わず駆け出そうとしてしまう僕を、兄さんは「こっちに来るな」と厳しい言葉で制するから。地面に根を張ったみたいに、すぐに動けなくなった。
「戻れ!」
 兄さんは泣いていた。息が詰まる。言葉が出てこなくて、きつく口を噤んだ。
 なんて、言った? 戻れ? ……どこに? 僕のいるべきところは兄さんの、家族のところなのに。戻る場所なんて他に──
 瞬間、さし込むように記憶が蘇る。そうだ、俺は。闘って、いたんだ。仲間のために命を賭けて、立ち向かった。……そう、最期まで。ああそうか、僕はもう、兄さんと同じところに来たんだ。
 立たされた世界を理解したところで、とたんに哀しさや虚しさが心に立ち込める。どうして。やっと会えたのに、なんで兄さんは僕を拒むんだろう。「どうして?」声に出すと、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「僕は頑張ったのに……」
 兄さんの表情はずっとずっと険しくて、ぼろぼろと落ち続ける涙はとめどない。「褒めてくれないの?」そう尋ねた声は、縋る気持ちをそのまま映していた。
「どうして? こっちが聞きたい」
 兄さん、今まで滅多に泣かなかったのに。そんな兄さんの涙で詰まった声が苦しくて、僕の視界も濡れてぐちゃぐちゃに歪む。
「逃げればよかったんだ、お前はまだ十四だぞ」
「……仲間を見捨てて逃げられないよ」
「お前が、死ぬことなんてなかった」
 舞い続けたいちょうはいつしか足元に降り積もって、白い視界を淡い黄色に染めていく。いつもみたいに、言い返せない僕を兄さんは責め立てる。こんなところで死んでどうするんだ、無駄死にだ、何の為にお前が生まれたのかわからない、と。
 わかるよ。兄さん、僕、今ならわかるよ。あの夏の朝、兄さんが言っていたことを僕はちゃんと憶えているから。だけど、それでも、僕を想った言葉だと知っていても。それは容赦なく心に突き刺さる。
 ……ちゃんと向き合おう。知ってもらおう。必死に唇を噛みながら、刺さったその刃をひとつずつ抜いてやろうと、大きく息を吸った。
「兄さんが死んだのは、十一だろ。僕より、兄さんの方がずっと可哀想だよ」
 兄さんは何も言わなくて、口に出した僕の方が苦しくなった。焼けつくみたいな喉から、それでも言葉を絞り出す。
「僕が何の為に生まれたかなんて、そんなの自分でちゃんとわかってるよ」

 ……僕は。
 幸せになる為に生まれてきたんだ。

 永遠みたいにつづいてゆくこの不思議な空間に、一瞬、僕のかたい声がこだました。そうして口に出して、改めて思い返す。
 ──家族四人で、幸せに暮らしていたころ。母さんと兄さんと手を繋いで、それから兄さんは父さんと手を繋いで。澄み渡る森のなか、大好きな故郷を飛び跳ねるように走り回ったかがやく時間。
「兄さんもそうでしょ? 違うの?」
「……」
「幸せじゃなかった? 幸せな瞬間が一度もなかった?」
 僕の精一杯の問いかけに、兄さんは口をつぐんで涙をこぼし続けている。
 僕は幸せだった。生まれてくることができて。家族と一緒にいることができて。ふたりぼっちになって、ひとりぼっちにもなってしまって、つらいことや苦しいことはあったけれど、その先で僕はちゃんと仲間を見つけられた。仲間と過ごす、かけがえのない時を手に入れた。剣を振るうことしかできなかった僕を救ってくれて、忘れかけていた笑顔や喜びをたくさんたくさん共にして。とびきり楽しく幸せに、ぜんぶの時間を大切に過ごしてきたんだ。生まれてきた意味は、僕の歩いてきたすべての時間に息づいている。
「僕は何からも逃げなかったし、目を逸らさなかったんだ」
 そうして手に入れた力を振り絞って、命を使い果たして、最期まで仲間のために闘って、散って、僕にはもう、悔いなんかもうないんだよ。
「仲間の為に命をかけたこと、後悔なんてしない」 
 ……だから。
「無駄死になんて言わないで」
 ……兄さんにだけは。
 振り絞った想いが結ばれて、そっと、俯く僕の肩に兄さんの手が触れる。ごめん、わかってるよ。そう言って受け入れられた言葉に、懐かしい温もりに、肩の力が抜けてゆく。
「……生きていてほしいんだ」
「兄さん、」
「無一郎、お前は、まだ……」

 …………悔いがない? 本当に?
 
 頭のなかで、喉を通らなかった自分の声がした。呼吸が、浅くなる。まただ。また、なにか忘れている。僕はあの日々に後悔なんてしていないのに、思い出せない空白を強く悔いているような、そんな虚無感に理解が追いつかなかった。何か大切なことが抜け落ちた心が、ざわ、ざわ、騒ぎ始める。そんな僕の動揺に呼応するみたいに、一際強く風が吹きつけた。
「人に優しくできるのは、選ばれた人だけなんだ」
 僕を受け止めてくれていた兄さんが、おもむろにそんなことを言う。ぐちゃぐちゃに散らかった心のまま、ただ、今さら抱きしめ返す。
 ――僕は、どうしようもない優しさを知っていた。呆れてしまうほどの、手放せなくなるほどの、愛おしくなるほどの優しさを知っている。……母さんや父さん? それとも兄さん? お館様……炭治郎? いや、みんな優しかったけれど、違う。僕が受け取ったものは、そうじゃ、なくて。
「無一郎」
 思考を切ったのは、悲痛にぼやける僕の名前。心臓が、狂ったように暴れ出す。……また。またいなくなってしまう。置いて行かれてしまう。待って、行かないで、僕も連れて行ってよ。必死にかき抱いた身体がふいに軽くなってしまうから、ただひたすらに涙をこぼし続けていた。
「死ぬな、生きてくれ、あと、少しでもいいから」
 神に、仏に、懇願するような響きだった。僕と同じに涙に濡れて、心の奥底までもを満たしてしまうような、深く重い最愛の祈り。
「悔いも幸せも、向こうになにひとつ残してくるな」
「兄さん、行かないで」
「それまで待ってる」
「行かないでよ!」
「俺たちは待ってるから」
 光が、あふれて、飛び散った。腕の中にあったはずの温もりが、すべていちょうの葉になり舞い上がる。ただ慟哭が響いて、白くまばゆくうつくしい世界は、またたく間に霧散してゆく。



 死ぬな。

 生きてくれ。

 なにひとつ残してくるな。



 ――そんなこと、言ったって、僕は、


「無一郎くん」

 それは、ひとすじの光明。影に呑み込まれてしまいそうな世界に差したその声を、僕はよく知っていた。だって、僕の明日そのものだったんだ。奇妙で不思議であたたかく、優しかったあの日々を、迷いながらもただひたすらに歩いていた、僕の。
「さくら、さん」
 喉が震えて、声が、勝手に、名前をかたちづくっていた。そう、そうだ、どうして忘れていたんだろう、あなたのことを。お姉さん。……ねえ、さくらさん。
 光の粒がこぼれるさまが、空から思い出が降り注いでくるようだった。頼りない呼び声を聞き届けたように、ひとつ、またひとう。後から後からきらめいて、ひとつずつ確実によみがえる。笑顔がひかって、怒った顔がかすめて、落ち込んだ顔が隠れて、また舞い降りてくるのはやっぱり笑った顔。
 ……ご飯が、美味しかった。よく笑うなあと感心して、お人好しすぎて心配になって、幾つも年上なのに子供みたいに見える時があって、でもちゃんと叱ってくれて。好きなものを覚えていてくれて、ばかみたいに褒めてくれて、元気を分けてもらったような心地になった。
 そのうち、ご飯は一緒に食べるからとくべつ美味しいんだって気がついた。いつだって賑やかでうるさくて、でも悪くないと思えた。一緒に笑う時間を、楽しいって思えた。嬉しいことは分け合って、笑ってほしかった。喜ばせてあげたい、なんて柄にもなく考えた。……僕が。僕があなたを、守ってあげたいと思った。
 忘れかけていた思い出が、芽生えていた想いたちが、あざやかに色づいてゆく。あふれて、こぼれて止まらない。世界はまた、光に満ち溢れていた。いちょうは舞っていない。まっさらで、まっしろな世界に、たったひとつの道がある。



 悔いも幸せも、向こうになにひとつ残してくるな。

 ――うん。



 歩こう。目を逸らさずに。まだ生きよう。繋がれた道を。
 
 まだ言ってない、言えてないことがあるんだ。たくさんのごめんなさいと、数えきれないありがとうが。それに、僕も、僕だって、あなたに出会えてよかった。澄んだ瞳をまっすぐ見つめて、他でもない僕の声で、僕の言葉で伝えたい。
 あの人が自信をくれたんだ。僕は大切に想われていて、他の誰に何を言われたって、ここにいてもいいんだって。どうやったって返しきれない優しさをもらうのなら、僕だってそうすればいい。大切にしてもらった分を、返せるときに、精一杯。もう二度と目を逸らしたくなんかない。後悔もしたくない。いつかまた会えるなら、さくらさんも、僕に会いたいと願ってくれるのなら。痛いほどの優しさを、呆れるほどの想いにかえて、きっと。





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