洗濯日和ですね


 あっ、脱水してる。もうすぐ洗濯終わるなあ。
 お天気に恵まれた休日の朝、ベランダの窓から見える青空を眺めつつ朝ごはんを食べて、洗濯ができあがるのを待つ時間が好きだ。コーヒーに口をつけながら、すっかり自分の手では開けなくなったドアを見遣る。私の家なのに、私の家じゃない部分。
 無一郎くんが突然やってきて、ここで暮らし始めて少し経つ。結局なんだか昼間もそこそこ一緒に過ごしていて、休日は家にいたりぼちぼち出かけたり、まあいろいろ。なんとも微妙な関係だとは思うけれど、じゃあどうしたらいいのかと自問自答しても答えは見つからないのだから仕方ないのかもしれない。
 そしてひと一人の面倒を見ないといけなくなって、洗濯物が増えて用意する食事が増えて、やることは確かに増えているはずなのに。なんだか逆に、心には余裕が出てきたような気がしてしまうのだ。
 無一郎くんの纏う空気はゆったりしていて、沈黙だって心地いい。それから結構、まあ相槌や返事はテキトーではあるものの話を聞いてくれて、それは今まで独り言でこぼしていた感覚よりもずっとあたたかいものだった。ご飯は誰かと一緒だと美味しいし、洗濯で唯一困るのは、隊服を干すとやたらめったら目立つことぐらい。メリットとデメリットは天秤にかけるまでもなく、メリットの方が大きそうだった。まあ一刻も早く向こうに帰った方が彼のためなのだろうけれど、やっぱり私はこの生活を好きになれそうな気がしていて。……いや、突然帰られてしまうと主に鬼関連で安全面に不安が残るので、無理を承知でそれだけなんとかしていってほしいと思うわけだけど。

 ちょうどトーストを食べ終わったその時、ピーピー、と洗濯機の呼び出しをくらった。さっと食器を片付けて、ベランダに出て洗濯物を干しにかかる。まだ寒い日も続く季節ではあるものの、抜けるような空も爽やかな風も洗濯物をよく乾かしてくれそうだ。ついつい鼻歌なんか歌いながら、ぱたぱた、伸ばして干してを繰り返す。いやあ、やっぱりお天気の日の洗濯って、
「お姉さん」
「ぅわっ!?」
 ……まったく。なんの、前触れもなかった。どくどく跳ね回る心臓と、ふき出す汗もそのままに振り返ると、そこには声の主である無一郎くんがいる。は、背後を取るのが上手すぎる。鬼狩り様、私は狩猟対象ではないのですが。
「びっっっくり、した……」
「……そんなに驚く?」
「驚くよ……」
「ちょっと鈍いよねやっぱり」
「無一郎くんと比べないでもらえます!?」
 と、そこで狭いベランダでそこそこ大きな声を出してしまっていることに今さら気づき、ひっそり肩を縮こめる。そんな私の様子に軽く首を傾げる無一郎くんはきらきらと髪に水滴をつけていて、顔も洗ってきたところらしい。
「とりあえずおはよう……」
「おはよう」
 無一郎くんは朝方まで起きてくれていることが多くて、成長期なのに……という気持ちも大きいけれど、本人がその生活を認めている以上はどうにも余計なことは言いにくかった。それに朝はトレーニングをする日もありつつ、ゆっくり寝たりお昼寝をする日もあるみたいで、ご飯もしっかり食べて別に目立つ不摂生をしているわけでもない。健康管理ぐらい自分でできるよとしれっと言われてしまったし、守ってもらっている立場の私がとやかく言うようなことでもないのかなあといったところである。
 ……あ、そういえば。わざわざベランダまで出てきたのはどうしてだろう。ふわりと差し込む風が、無一郎くんの髪を柔らかく揺らしていた。
「あっ。朝ごはん早く食べたかった?」
「……僕、催促しにくるほど食い意地はってるように見える?」
「えっごめん、でも食べるのが好きなのかなぁとは思う」
「そうなの?」
「うん」
 ふーん、なんて言って考えるような素振りをみせてから、軽く首を横に振った無一郎くんは「朝ごはんじゃなくて」とつぶやくみたいに言う。なんだろう。今度は私が首を傾げる番だった。少し待って、マンションの下を車が通り過ぎていく音がして、それから。
「……僕もやる。それ」
「それ?」
「洗濯」
「……ええ、え、いいよそんな!」
 ぶんぶん顔の前で手を振ってしまうと、ひらり、持っていたハンカチを取り落としてしまったけれど。それが落ちてしまう前にさっと掴んでみせてから、「なんで」と言いながら無一郎くんは手を差し出し渡してくる。ナイスキャッチ、素晴らしい反射神経だ。
「うわわありがとう」
「いーえ」
「ていうか、なんで、もなにも。無一郎くんは家事やらなくていいよ。いつも守ってくれるでしょ」
「……」
 ……黙っちゃった。
 聞いたところでは無一郎くんはかなりの実力者らしく、隊の中でも「はしら」というお偉いさんをやっているらしい。あふれるヤクザの跡取りっぽさはあながち間違いでもなかったのかもしれない、とこっそり思った。それにそもそも、鬼狩りというのはひとの命を救う仕事。だから各所で敬われる存在であり、「蝶屋敷」や「藤の家」というおそらく拠点的なもので生活全般のお世話をしてもらっていたと軽く聞いたので、無一郎くんもそういう暮らしにはすっかり慣れていて、いわゆるお手伝いなんてことは考えないのかなと勝手に思っていた。
「……割に合わなかったりしないかなとか、考えるようになった」
 ぽつり、こぼされた言葉。ぱたぱた、かけられた洋服たちが風に揺らされている。
「平等じゃないような……お姉さんが損をしてるような気がして、落ち着かない」
「うーん……」
 その感覚は、少しわかる。相手ばかりが苦労しているように感じてしまうこと。きっと優しいところがある無一郎くんだから、それを気にしてしまうのも無理はないのかもしれない。けれど実際、当の私は損だとは微塵も思っていないのだ。それにそんなことを言うなら、日々戦ってくれる無一郎くんの方こそそうなんじゃないのかな。まあそんなことを言い出すと水掛け論になってしまいそうなので、ただまっすぐに伝わればいいな、と言葉を探してみる。
「私は……うーん、人に何かするのが好きなほうなんだよね。単に自分のためにするより、張り合いがあっていいっていうか」
「……」
「あと、ほら、それだけじゃないよ。無一郎くんは私には絶対できないことをしてくれるんだもん。だから損なんて思ったことないからね」
 何か言いたげに口を開いて、閉じる。そんな無一郎くんは、理解はしたけど納得はしていない、みたいな表情だ。でも無理に朝起こして洗濯させるのは気が進まないし……あ、それなら。他にできることをしてもらえたらいいのか。そう考えて「じゃあ」と軽く手を叩くと、無一郎くんの視線がふっと上がってくる。
「お昼、私が仕事でいないとき。お風呂掃除とかしておいてくれたら嬉しいかも」
「掃除、でいいの?」
「いいの! 洗濯は朝早いでしょ、無一郎くんは寝ててよ。あと掃除してくれたらご褒美にお菓子買ってあげるし」
「……待って。それじゃ意味ないよ」
「あっ、たしかに」
 あははついうっかり。そう笑いながら頭をかくと、無一郎くんは口元をむずむずさせながら、「子供扱いがちょっと気に入らないけど」と前置きはあったものの、「お姉さんがいいなら、それで……」とギリギリ納得してくれた様子だった。
 ……子供扱い。ああ、うん、そうか。私は無一郎くんをひとりの子供として見ていて、それは馬鹿にしているとか下に見ているとかじゃなくて、きっと庇護対象だと思ってしまっているからで。まだまだ育ち盛りの子供にわざわざ手伝わせたくない、そんな私のわがままであり、大人としての矜持のようなものかもしれない。
 まあ、それはともかく。お互い楽しく、後ろめたさもなく暮らせるのが一番だ。お風呂と、それからできる範囲で簡単な掃除でもしてもらって、いつも若干散らかってるこの家をなんとかしてもらうことにしよう。うんうん頷く私を、無一郎くんは少し怪訝な目で見ていた。
「そうと決まれば分担表でも作りますか」
「わざわざ?」
「こういうのは形から入るのが大事」
「そう」
「うん。だから百均いこ、ホワイトボード買おう」
「またあのぜんぶが安い店? お姉さん好きだよね」
 手に持っていたハンカチをやっとハサミに留めて干してしまいながら、こないだ百均に行った時の無一郎くんを思い出す。大正時代の百円とは現在でいう三十万円らしいけれど、ネットで調べて当時の十銭相当だと教えてあげた途端、なんとも微妙な顔をしていたことを思い出した。
「無一郎くんは好きじゃないの?」
「……あんまり。安いのに価値のある物が揃いすぎてる商店ってなんか怪しいよ」
「なにそれ警戒しすぎ」
 つい声を上げて笑ってしまう私に、「お姉さんこそもっと警戒心持った方がいいよ」なんて無一郎くんはムッとしてみせる。「気をつけるね」と気持ちのこもっていない言葉を返せば、ため息をつかれたけれど。また少しこの生活の輪郭が濃くなるような予感に、青い空の下で心を躍らせていた。





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