君は悪くないよ


 私は――私の毎日は。あの日無一郎くんに出会って、まるっきり変わった。

 苦しい就活をくぐり抜けた先、待っていたのはまた苦しい日々だけだった。毎日のように上司に怒られ、気を許せる同僚もやめていき、彼氏とは上手くいかなくなって。ひたすらに家と職場を往復しながら、どうやって笑っていたっけ、そんなふうに感情を落っことしていくことしかできなくて。
 そんな中での無一郎くんとの出会い、それから共に過ごしてきた、奇妙で不思議であたたかい時間。長い夢でも見ているのかと思った。でもいつまで経っても醒めなくて、何もかもが現実で――夢でもなんでもない、その紛れもない現実は、ほんとうに優しく柔らかく私を包み込んでくれた。

 ちょっとそっけなくて、けれど本当は優しい無一郎くん。家族を早くに亡くして、子どものころから鬼を狩るしかなくて、強くならなきゃいけなかった。親兄弟の代わりになってあげたいなんて、そんな烏滸がましいことは思わない。でも、ほんのちょっとでもあたたかい気持ちになってくれたなら。子どもらしく生きられる一瞬が、無一郎くんにもあればいいなって。
 ――そうやって。ひとを思いやる心を、無一郎くんが思い出させてくれた。無一郎くんは私に「お人好し」って言ったけれど、そう言われたのは久しぶりだった。ひとに優しくすることが嬉しくて、誰かの世話を焼くのがわりと楽しくて、誰かと一緒に思いっきり笑えることが好き。きっと無一郎くんが、そんな本来の私を取り戻してくれたのだ。


 ◇


「……私は、絶対に、あなたを許さない!」
 恐怖と混乱と、それから茫然自失の無一郎くんを見たショックと。それらに上塗りされた動揺のせいで、そのときの鬼が何を言っているかはほとんど意味がわからなかった。けれど、わかることはあった。たいせつな無一郎くんを罵り、私たちの出会いを否定する、悪鬼はそんな言葉を吐いているのだということ。
 我慢できずにとっさに飛び出して、思いのままに叫んで。まだたった十四歳の無一郎くんが、ひどく残酷な現実と闘っているまさにそのとき、私はこの上なく子供じみたことをしてしまったのかもしれない。……それでも。黙ってなんかいられなかった。身体が勝手に動いていた。感情のままに口走った何もかもが、紛れもない本心だった。
「人間風情が儂を許さない≠ゥ」
 鬼がそう嘯いた、直後だった。はっとして辺りを見回すと、柔らかでつめたい白が、どこまでも続きそうな夜を裂くように広がっていた。鬼の巨体を覆い隠して、うつる景色は溶けて霞んで、ひらりと飛びあがった無一郎くんの纏う色はすべて呑み込まれてゆく。
 ……そのまま。そのまま君が朧のように消えてしまいそうで、私は引き攣れた喉で名前を呼ぶ。まだ行かないで、まだ、待って。そうして立ちあがろうとする前に、立ち込めていた霞はまばたきのあいだにたち消える。音もなく、鬼は崩れて消えてゆく。美しさも不気味さも恐ろしさもすべて、夢を見ているのかと思った。すべて夢だったらどうしようと、目の前が暗くまたたいている。
 ただ存在をたしかめたくて、また呼んだ名前はひどく弱々しく響いてしまう。ちゃんと返事してよ。こっち向いてよ。いつもなら言えるそのどれもが口からは出てこなくて――つぎの、瞬間。涙で歪む視界で、背中を向けていた無一郎くんがその場に崩れ落ちた。
「っ、無一郎くん!」
 弾かれるように走り出すとずきりと足首が痛んで、けれどそんなの構っていられない。なんとか無一郎くんのところにたどり着いたわたしに、無一郎くんは、消え入りそうな声で謝ったのだ。何度も何度も首を横に振った。「なんで、なんで無一郎くんが謝るの」どうしようもなく涙があふれて、「謝らなくて、いいのに」とぶつけた声は子どもの駄々のようで。今にも倒れ伏しそうな無一郎くんの肩を支えながら、止められない涙がいくつもいくつもアスファルトに落ちてゆく。
「無一郎くん、しっ、死んじゃったり、しないよね」
「っ、ぅ……」
「謝るのは私のほうだよ、ごめん、ごめんね、こんなに……」
 こんなになってまで、私を守ってくれて。
 もしかしたら鬼殺隊≠ナは特別なことではないのかもしれない。鬼を斬る仕事だ、そうして人を守ることは副次的なもので、無一郎くんからすればさして大きな事実ではないのかもしれない。けれど、救われる方からしたら。ひとつしかない命を守るために、ひとつしかない命を賭して戦ってくれているその姿は、信じられないほどに格好良く美しくて、けれど同時にひどく恐ろしい。無一郎くんが一撃で斬り飛ばしてしまうことばかりだから、私はわかっているつもりでいて、何もわかってなんかいなかった。無一郎くんだって、いつも命の危機と隣り合わせだったこと。
 力の抜けてゆく身体を懸命に抱き止めながら、ただ何度も名前を呼んだ。だめ、だめ、絶対にだめ。まだたったの十四歳だ。幾ら強かろうと、どんな試練を乗り越えていようと、どんな苦しみをくぐり抜けていようと。私よりずっと年下の、子どもだ。最後にはちゃんと帰らないといけないのに、帰った先で未来を生きてほしいのに、私なんかのせいで、こんなところで。
「む、いちろう、くん……」
 今の無一郎くんのこの状態があの鬼のせいかはわからない。でも軽々と攻撃を払って斬り捨てていたから、きっと攻撃は受けていないはずなのに。……じゅつ、って言ってたから、なにか怪しい術の類かもしれない。どうしよう、どうすれば。
 私がまた情けない声で名前を呼んだそのとき、静まりかえった路地裏に足音が響く。


 ◇


 だだっ広い洋間でひとり、唇を噛む。ティーカップの中、凪いだ紅茶の水面に映る私は、いっそ笑えるほどに酷い顔をしていた。
 私たちのもとに訪れたのは、ついこないだ無一郎くんがお邪魔したあの産屋敷さん宅から、実情の調査のために派遣されていたという方だった。無一郎くんは気を失い、私は軽く足を挫いていてろくに動けないのもあり、言われるがままぴかぴかの高級車に乗って大きなお屋敷に連れてこられていた。冷静になればなんとも危機感のないことをしているけれど、緊急事態なので致し方なかったと思う。……無一郎くんがこれを聞いたら、「もうちょっと危機感持ちなよ」なんて言うのかなあ。
 手当てしてもらった足首を見遣ってから、ぬるくなってしまった紅茶にまた口をつけたとき。こんこん、古めかしく重厚な扉がノックされる。返事をすると、スーツ姿の男性が入ってきた。慌てて立ち上がろうとする私を制して、彼は向かいに腰掛ける。
 現当主である産屋敷――聞き間違いでなければ、きりやさん――の、そのお付きの方らしい。私も簡潔に自己紹介をした。無一郎くんの容体を訊ねたいのを、ぐっと堪えて。
「……無一郎さん、ですが。産屋敷家が提携する病院へ搬送されましたが、命に別状はありません」
「よ……よかった」
「ですが」
 訊ねずとも教えてもらえた無一郎くんの無事。けれど、それに思わず胸を撫で下ろしたのも束の間、鋭い視線で射抜かれびくりと震えてしまう。
「今まで、二人で暮らされていたのですよね」
「……はい、そう、なります……」
 あ、これ、怒られるな。ぴりぴりと震えるような空気に、つい縮こまってしまう。案の定と言うべきか、目の前で眉間の皺がぎゅっと濃くなった。
「当主様の意向で静観しておりましたが、身元不明の未成年と二人で暮らすことはあまり……褒められたことではないでしょうね」
「はい……申し訳ありません……」
 そりゃそうだ。……当然だ。初日にこれはいけないなあと思ったものの、日が経つにつれてすっかり感覚が麻痺していた。咎められないほうがおかしい。八方塞がりだったとはいえ、浅はかだった。
 そうして告げられたのは、「無一郎さんはこのまま此処で預かる」という旨だった。産屋敷家に残る史実と照らし合わせ、大正時代にかけられた術で飛ばされたことを事実だとみとめ、あちらに戻る可能性はほぼないと判断した上で──この時代で、見守り育てていくのだという。ひとりの子供≠ニして。
 これでいい。なにも間違っていない。間違っていたのは、他のだれでもない私だ。無一郎くんはまだ庇護の必要な子どもで、私なんかじゃなく、こうして責任のある大人に見つけてもらい守られることこそが正しいのだから。
 ゆっくり、ゆっくり夜が更けてゆく。きっともう無一郎くんには会えない、そんな自分勝手な喪失感と。彼がもとの時代に戻れない、私にはどうしようもないことへの悔しさと。感情が綯い交ぜになって、ただ俯いていることしかできなかった。





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