だいえっと、ですね


「やばい、痩せなきゃ……」
 夏が終わった今日この頃、身体がさっそく冬支度をはじめていることを感じていた。そう、太って、きた。厚着になるにつれ油断が生まれたり、気温が下がって汗をかかなくなったり、食欲の秋な雰囲気にあてられたり。原因はいろいろあるだろうけれど、事実として太り始めてしまったわけだ。
 ぽつり、そう呟いた私のほうに、無一郎くんはソーダ味のアイスバーをかじりながら目線を向けてきた。寒くなってきたってのに相変わらずアイスをよく食べていて、お腹を壊さないか心配である。前にそう言ってみたら「そんなに弱くないんだけど」と言われたけれど。
「そんなひょろひょろなのに何言ってるの」
「えっ……ふ、太って、ない……かな……?」
「うん。ちっとも」
「……だめ! 無一郎くんだめ! 甘やかさないで」
 危うく絆されそうになって大声を出してしまうと、付き合いきれん、そんな感じの表情を残して無一郎くんは私に背中を向けてしまった。いやでも、だめだ。無一郎くんの言葉を間に受けて甘えちゃだめだ。
「ダイエットしなきゃ……」
「だいえっと、って?」
「痩せるための努力のこと!」
「ふーん」
 しゃり、無一郎くんの背中からアイスをかじる音が聞こえる。そんな姿を見ていたら、なんだか私もアイス食べたくなってきた。まだあったかな〜と考えてから慌てて気を取り直す。今しがたダイエットの決意を固めようとしていたでしょうが。こんなんだからだめなんだ。
 それにしても無一郎くんは細いな。いくら食べても太らない子なんかも居るし、そもそも成長期の男の子には太ってる暇なんかないのかな。……あ、そういえば。
「無一郎くん、早朝とか公園に行ってるんだっけ」
「うん。走り込みとかしてるよ」
 そう、無一郎くんが鍛錬をしたいと言うから、近所にある運動公園を勧めたのだ。あそこでよく走っている人を見かけるし、トレーニングをしている人も時々いるだろうから、と。
 ……やっぱり、ダイエットといえば運動だよね。勢いよく立ち上がると、無一郎くんはぎょっとして肩をすくめた。ぴんと手を挙げると、更にその眉間に皺が寄る。
「わ、わたしも! 私も連れてって! 一緒に鍛錬する!」
「え、お姉さんには無理だと思うけど」
 ばっさり。あまりにもばっさり斬られたけれど、ここでめげる私ではない。
 それから、「無理だって」「きついよ」「僕は合わせないからね」なんて断られながらも粘って。『朝6時に公園待ち合わせて、走り込みをする』ということで話がまとまったのだった。


 ◇


 清々しい朝だ。無一郎くんは夜のあいだに鬼が出ればそのまま外に、出なくてももっと早くから公園に向かっていて、7時ごろに帰ってきたところで朝ごはんを一緒に食べていた。ごはんは一緒に食べた方がきっといいし、私の場合は運動の前に食べたら気持ち悪くなりそう。
 というわけで、とりあえずホットミルクだけ流し込んで。そのまま適当なジャージを着て家を出た。うん、清々しい朝だ!
「おはよう無一郎くん!」
「……おはよ」
 朝日の下で待ってくれていた無一郎くんは、ほんの少しだけ表情をゆるめたみたいに見えた。でもすぐに「今からここ一周するけど、ほんとにいいの?」とわざわざ確認してくる。
「いいに決まってるでしょ! 私はやるときはやるんだよ」
「どうだか」
 冷たくあしらわれたけど、とにかく。今日も今日とて仕事なわけで、軽く運動してから出社するわけだけど、間に合わなくなっては本末転倒、もたもたしてはいられない。準備運動をしながら無一郎くんの横顔を見ると、「僕、お姉さんに合わせてあげられないと思うけど」なんて、また言われてしまった。
「いいよいいよ、マラソン大会じゃあるまいし」
「まらそん?」
「ごめん、私の思い出の話」
 自分みたいに走るのが遅い子に「一緒に走ろうね〜!」なんて言って縋って、あっさり置いて行かれた哀しいマラソン大会の記憶が蘇ってくる。そんなつらい思い出をかき消しながら、「そろそろ行こうよ!」とつとめて元気いっぱいに声をかけた。
 だってもう中学生の時の私じゃない。毎朝満員電車に揉まれ、通勤ラッシュの早歩きの波に乗り、社内だって走り回っているんだ。体力はついているはず。そう思いながらスタート地点に立つと、無一郎くんも渋々といった様子で並んでくれた。
「よーい、どん!」
「え、なに今の」
「スタートの合図〜!」
 よーいどんを知らない無一郎くんを出し抜くみたいに、私は気合じゅうぶんで走り出した。無一郎くんのため息が後ろからうっすら聞こえて、いや、後ろから聞こえたと思った。
 気づいたら、無一郎くんは。前を走っていた。
「えっ、え」
 トタトタ、なんて基礎もなってない足音は自分のもので、追い越して軽々走っていく無一郎くんからは、なんの足音もしない。えっ、どういうこと。妖精?
「まっ、え、うそ!」
「なに? 合わせてあげられないって言ったじゃん」
 無一郎くんが顔だけこちらに向けている間も、足音がしない。そしてどんどん距離は開いて、開いて……だめだ。追いつかない。むり。息が上がって、喉が狭まったみたいに苦しい。なにこれ、むしろ、中学生高校生のときより走れなくなってる。これが、これが加齢による衰えですか。
 そんなこんなで、無一郎くんの姿はいつの間にか見えなくなってしまった。うそだぁ、そんなあ。楽しくおしゃべりしながらダイエット……つまり、無一郎くんとにこやかに話しながら、爽やかな朝のトレーニングを楽しむ私の夢は、虚しくもここで潰えてしまうこととなった。
「お姉さん大丈夫?」
「はっ……え……? もど……もどって、きたの……?」
「僕は二周目」
「ひえー……」

 行きはガクガク脚を震わせながら出勤したものの、帰りになると筋肉痛も襲いかかってきてだめだった。よろよろヨタヨタ歩く私を支えながら帰ってくれた無一郎くんから「もう無理にだいえっとしない令」が発令されてしまい、私の短いダイエットは終わりを告げたのだった。






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