月が綺麗ですね


「お姉さんはさ、お月見とかしないの?」
 九月某日、無一郎くんが帰り道に突然そんなことを言うから「え?」と間抜けな声が漏れた。「だから、お月見」そう繰り返して空を見上げる視線の先には、見事なまん丸のお月様。
「お月見……かあ。無一郎くんはしてたの?」
「……うん。お団子とか作ってた」
「本格的!」
 そう返事をしてから、そりゃまあ百年も昔なら今よりずっと本格的か、とぼんやり考える。ふと見遣った月の光を浴びる無一郎くんは綺麗で、でもどこか儚さを纏っているような気がして。……お月見、そんな昔ながらの風習が消えかかっているかもしれないこの時代に、やはりまだ不安はあるはずで。
「よし! 無一郎くん、コンビニ寄ろう」
「コンビニ?」
「うん。お昼にね、会社の近くのコンビニで見たの。通り道にセブンがあるから行くよ!」
「え、あ、うん……?」

 そのまま無一郎くんを引きずっていった先のコンビニ、スイーツコーナーの前で私は「あった!」と思わず声をあげてしまった。「なにが?」と後ろから覗き込んできた無一郎くんに、ひとつ手に取って見せてあげた。
「お月見スイーツだよ!」
「団子じゃなくて?」
「うん。現代流……いや、さくら流のお月見といこうじゃありませんか」
 私のお目当ては、コンビニスイーツお月見エディションだった。うさぎの形をしたお団子や白玉プリン、月に見立てられたロールケーキたち。どれもちょうど一つずつ残っていて、売り切れていなくてよかったと胸を撫で下ろしながら、せっせとカゴに入れていく。
「ふふ、なにそれ」
「朱に交われば赤くなるっていうでしょ」
「使い方が変じゃない?」
 冷たい物言いながらも、ちらりと見遣れば無一郎くんの口元はすこし緩んでいて、つられるみたいに私も笑ってしまった。無一郎くんが元気になると、やっぱり私も嬉しいから。


 ◇


「今日はセーフっぽい?」
「だね。油断はできないけど」
 今日の帰り道は鬼が出ることはなく、鬼さんたちも風流ってやつを大事にしていたりするのかな。そんなことをぼんやりと思いながら、「晩ごはんは月見うどんにしようね」と無一郎くんに微笑みかけた。

 冷蔵庫にスイーツをしまう係に任命すると、無一郎くんはまじまじとスイーツをひとつずつ眺めて、それから丁寧に冷蔵庫にしまっていく。「慎重だね」と声をかけると「崩れたら困るでしょ」となんて言うから、随分スイーツの耐久度を心配している模様。うさぎちゃんを大切に扱う無一郎くんはなかなかに尊かった。
「なんか余計なこと考えてた?」
「ぜーんぜん」
「ふーん」
 それから二人でおうどんを啜って、無一郎くんの「ごちそうさまでした」を今日も受け取って。何気ない日常に感謝しながら「お粗末さまでした」と返してから、お月見の準備をすすめることにした。
「温かい緑茶いれるね。ベランダからお月様見えそう?」
 お湯を沸かしながら尋ねると、無一郎くんはベランダをがらりと開けて「見えるよ」と、どこか弾んだ声で答えてくれる。
「じゃあ窓開けてさ、机そっちに寄せてお月見しよう」
「すいーつももう出す?」
「そうしよう! 任せた!」
 柔らかな空気になんだかうきうきしてしまって、ついつい昔ながらのお月見童謡を口ずさんでしまったそのとき。無一郎くんがばっと勢いよく振り向いて、「お姉さん、その歌知ってるの」と瞬きを繰り返していた。
「え、うん。あ! 大正からあった?」
「うん。……よく歌ってもらった」
 すこしだけ、空気が張った、ような気がした。……歌ってもらった、かあ。親御さんかな、お兄さんかな。私なんかがあたたかな家族の記憶の代わりになれるとは思っていないけれど、一瞬さしこんだ寂しさをなんとか吹き飛ばしたくて「そっか!」とことさらに明るく声を張った。
「じゃあ一緒に歌おう、せーの!」
「それは嫌」
「なんで〜」
 相変わらずつれない無一郎くんだけど、「歌うわけないでしょ」なんて楽しそうに笑っている姿は元通りになったようにみえるから、まあこれでいいかな。
 
 そして。お茶とスイーツを出して部屋の電気を消して、座布団に座りながら、ふたりでぼうっと月明かりをながめた。朧げにかがやいて、小さな部屋と私たちにゆるく染み込んでくる光は、眩しさを感じさせるほどの強さはない。それなのに、そのはずなのに眩しいような、そんな気がしてしまっていた。
 なんか、無一郎くんってかぐや姫みたいかも。手塩にかけて育てても、いや、お姉さんに育てられた覚えはないよって言われそうだな。そもそもかぐや姫って言った時点で怒られそう。……けれどどんな時間を過ごしても、かぐや姫が月に帰ってしまうように、きっと否応なく終わりはやってくる。そして、それが正しい道なのだ。運命の脇道でひと休みしているだけで、無一郎くんは本来ここにいるべき人じゃない。それが少し寂しくて、月の光はそんな気持ちをゆるりと膨らませていってしまうようだった。
「……月、綺麗だね」
 そんなもの思いに浸っている私たちのあいだに、ぼそり、無一郎くんは静かなひとことを落としていった。
 ――月が、綺麗。月が綺麗ですね。
 有名すぎる言葉の意味を汲み取ろうと頭が素早く回転して、えっと、夏目漱石って、いつの時代のひとだっけ。あ、そもそも。かの有名なアイラブユーのはなしは、没後ずっとずっと後にできた逸話だと聞いたことがある気がする。……じゃあきっと、無一郎くんは知らないんだろうな。教えてあげたほうがいいのかなと思ったけれど、まあまた今度にしようと俯いた。
「手が届かないから綺麗なんだろうね」
「え?」
「ううん、なんでも」
 ほらスイーツ開けちゃお! そう言ってうさぎのお団子の袋をつかむと、「待って」と無一郎くんが声をあげる。「それは僕が開けるから貸して」と手を差し出してくるから、どうやらうさぎさんのことをかなり気に入ってくれたらしくて、そのかわいらしさに思わず笑ってしまった。

 手が届かないから月は綺麗。私はそんなにロマンチックな人間でもないけれど、無一郎くんと私はまさにそんなふうなんじゃないかなって思うのだ。
 弟、子ども、どれも違う。そんな当たり前には当てはまらない。けれど言葉にできない大切な存在で、家族を失い仲間から離れてしまったこの世界でも、私は君に寂しい想いをしてほしくないと思う。そう思える君と、いつ終わってしまうかもわからない儚い日々を過ごしているからこそ、きっとわたしたちは今を大切にできるんだろう。





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