寒くなってきましたね


 まだ本格的な秋には遠いけれど、今日はよく冷えるな。そんなことを思いながら、マウンテンパーカーのチャックをゆっくりと上げた。そう、これはマウンテンパーカーというこの時代で人気の服らしい。暖かいのに軽くて動きやすくて、買ってくれたお姉さんにも「似合うねえ」と褒めてもらえたりなんかした。たぶん強度は隊服には劣るけれど、なんだかんだで気に入っている。
 本当に、この時代はすごいことばかりだった。夏を越して秋になる頃、僕もだいぶ慣れてきてしまったけれど、いまだに驚かされることはたくさんある。
 いつもお姉さんを迎える駅の改札口に着いて、操作には慣れたものの眩しさには少し慣れないスマホを見てみると、お姉さんからは「一本遅れた、15分に着く電車で帰るね!」なんてふきだしが届いていた。時計には19時ぴったりが表示されていて、まだ少し時間がありそうだった。

「コーヒー買ってきたよ!」
 知らない、けれど弾んだその声につい振り返ってしまうと、よく見る紙のコップをふたつ持った女性と、嬉しそうにそれをひとつ受け取る男性がそこにはいた。それぞれのコップを手のひらで包んだふたりは「あったかいね」なんて笑い合っていて、そんな何気ない光景。……そうして、僕はひらめいた。
 夕暮れからはぐっと冷え込んでしまうここ数日、お姉さんは手を擦り合わせて「寒くなってきたね」なんてよく言っている。僕もそこそこに寒いのだから、今日もきっと寒がるに違いない。……だから、温かいコーヒーをあげたら……喜んでくれる、かもしれない。
 たぶんあれは、そこのコンビニで買えるやつだ。前にお姉さんはコーヒーを買っていて、僕にはココアを買ってくれた。伊達に普段お姉さんが買い物をする様子を見ているわけじゃないし、お金の数え方も教えてもらったから、きっと僕でも買えるはずだ。


 ◇


 ……結論から言うと、買えた。でもちょっと手こずった。
 駅を出てすぐ、僕は無事に青いコンビニを見つけた。足を踏み入れると軽やかな音がして、いろいろな商品が並んでいて目が回りそうだったけれど、お姉さんはコーヒーを買うときは直接レジに向かっていたような気がする。記憶を頼りにレジに向かって「あったかいコーヒーと、その、あったかいココアが欲しいんですけど」と言ってみる。するとしましまの服を着た店員がうなずいて、自分の選択は正解だったようで一安心――と、思いきや。「ブラックですか? カフェラテですか?」なんて返してくるから、僕は情けなく瞬きを繰り返していた。
 ……なに? ぶらっくって。かふぇらて、って。どきどきと心拍数が増していくような心地がして、手がかりになるものはないかとあたりを見回してみたけれどさっぱりで。仕方なく「コーヒーと、ココアを……」と繰り返してしまうと、見兼ねたしましまの人は「ブラックですね」と話を進めてくれた、けれど。後ろに人も並んでいたし、なんだかすごく恥ずかしかった。

 まあなにはともあれ、無事にお金を払って紙のコップをふたつ手に入れた。コーヒーが左手、ココアが右手、というのを忘れないようにしながら、もう一度改札のほうへ向かう。手のひらに紙越しの柔い温かさが染み渡って、吹き付けるつめたい風がいくらか和らぐような心地がしていた。
 けれど、改札の前まで来てから気付いた。しまった、両手が塞がってる。スマホが見られない。時間もわからないしお姉さんからの連絡も確認できない。どうしようかと立ち尽くしていたそのとき、「無一郎くん!」と聞き慣れた声が僕の名前を呼んで、安心からか自然と肩の力が抜けてしまうのがわかった。
「おまたせー! ……って、それ」
 駆け寄ってきたお姉さんが、言葉を切って不思議そうに僕の手元を見つめてくるから。……なんだか急に恥ずかしくなってきて、迫り上がる熱を振り切るように「あげる」と左手に持ったコーヒーを差し出すと、「えっ!」とそのきれいな瞳がいつにも増してまん丸になった。
「か、か、買ってきてくれたの?」
「……まあ。僕がココア飲みたくなって、ついでに」
「えーっ嬉しい、ついででも嬉しい! ありがとう無一郎くん!」
 うん、と適当に答えて目を逸らす。別にこんな態度を取る必要はないってわかっちゃいるけれど、こんなにもまっすぐキラキラされてしまうと、なんだかむずがゆくって向き合えない。
 正直はじめは本当に、うるさい、と思っていた。申し訳ないけれど。でもこのひとはそんなこと意に介さず、輝く瞳をいつでもまっすぐに向けてくるからただただ戸惑ってしまう。今の僕の態度はもう照れ隠しに違いなくて、こんな恥ずかしいこと絶対に知られたくなんかなくて。
 ほどなくして差し出した左手に、一瞬、お姉さんの細い指が触れる。たった一瞬だったけれど冷たさにどきりとして、温かいコーヒーがその手に渡っていったことに安堵してしまう僕がいた。
「あー……あったかい……飲んでもいい?」
「どうぞ。こぼさないようにね」
「えー? それは私のせりふだよ」
「……僕、こぼしたことあったっけ」
「……言われてみるとないかも」
「僕のこと子供扱いしすぎだよ」
 そうかなあ、なんて笑いながら、お姉さんは両手でそっとカップを包み込む。「あったかいねえ」ともう一度言って、それから嬉しそうに微笑みかけてくれるから。むずがゆさだけじゃない温もりが胸に広がって、さっき見かけたふたりの、幸せそうに笑い合うその気持ちがすこしわかったような気がした。
 ひとりのときはずいぶん寒く感じていたのに、帰り道はどこかぽかぽかと暖かいような気がしていた。身体に染み渡るあついココアの温度のおかげか、それとも。



「無一郎くんすごいね、ひとりで買えたんだねえ」
「だから、子供扱いしすぎだってば」
「またまたぁ……レジで渡してくれるところだから良かったけど、セルフ式だったら買えてないだろうなあ」
「……何言ってるかよくわかんないけど、馬鹿にされてるのはわかったよ」
「あっ違う違う! ごめんって、そんなつもりじゃないの! 待って行かないで!」




夏の隙間でひとやすみ







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